番外編 潮騒と遊ぶ
フィオドラ幼少期
晴れ渡った紺碧の空、深さによって色を変える澄み切った海。さざ波と海鳥の声、港で魚を水揚げする漁師たちの声が遠くから聞こえてくる。
魔界一の大港がある街には、いくつかの浜辺がある。そのうちの一つに、きゃらきゃらと子供特有の歓声が上がっていた。
歓声を上げているのは比較的年かさの子供たちだ。すでに彼らは何度か、この海というものを経験しているのだろう。
五つになったばかりのフィオドラと同年代の幼児たちは、初めて見る大量の水と打ち寄せる波の音におっかなびっくり、保護者の足元で海を窺うばかりだ。
大人子供合わせて三十人ほど。
今回海へとやってきたのは、年に数回行われる魔王城の武官文官、その他多種多様に働いてくれる城勤めの者たちの子供を集めた体験学習だ。
目的は海に入ることではなく、魔法の講義である。
いまは船上で行われる授業の前段階で、皆と同じように父親の服の裾を握っていたフィオドラは、好奇心に負けてきらきらと輝く海へと短い足を動かし始めた。
まず始めに、サンダルから入り込む砂の熱さに驚く。
地団駄を踏むように交互に足を上げて振り返ると、穏やかな顔で父が笑っていた。
フィオドラが顔を前に戻すと、彼女が近づいてきたことに気づいた年長組が招くように大きく手を振る。
フィオドラは顔を輝かせて駆け出した。
足先に水が触れて思わず声を上げる。
押し寄せた波がすぐにフィオドラの足首までを浸し、飛沫が膝で絞った下衣から伸びたまるいふくらはぎを濡らした。
驚いて目を丸くしていたフィオドラは、次いで引いていった波に足を取られた。
足元の地面が削られていく感覚、纏わり付く水と砂に足がくすぐったい。失われる平衡感。
バランスを崩したフィオドラが尻餅をついたとき、狙ったように次の波がきた。さきほどよりもよほど大きな波に、転んだフィオドラは頭から海水を被る。
すぐに誰かの手がフィオドラを引き上げ、混乱するより早くわけの分からない状態からは脱する。
「……しょっぱぃ」
「大丈夫ですか、姫様」
抱き上げてくれていたのは、先に海に入っていた子供だ。周りに散っていた子供たちもフィオドラの周りに集まってくる。
十歳ほどの少女が、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「姫様、平気?」
「……へいき」
「目は痛くないですか? 鼻は? 喉は? あまり飲まずにすんだかな」
「だいじょぶ」
抱き上げてくれている少年と同じくらいの、十代半ばの少女が持っていた手巾で顔を拭ってくれる。
正直、目も鼻も、舌にもピリピリとした痛みを感じたが、遠くから慌てて近づいてくる大人の姿を見てフィオドラはぶんぶんと首を振った。
このままだと砂浜に連れ戻される。もっと、この海というものを感じたいのに。
フィオドラは少年の首に回していた腕を放し、空と交わる海の先へ手を伸ばした。
いまいるのは、無色と呼べそうな薄い色の水。少し先はエメラルドに輝いている。もっと先には空に似た深い碧。
少年が苦笑し、暴れるフィオドラをしっかり腕に抱く。一度フィオドラの父――魔王を振り返った彼は、幼子の体を肩の上に乗せた。
いわゆる肩車だ。高くなった視線に歓声を上げたフィオドラは少年の米神から伸びる角を掴んで、海の色が濃くなった場所を指さした。
彼女の足をしっかりと押さえ、少年は笑った。
「もう少し、奥までですよ」
「うん!」
上機嫌に笑うフィオドラに、躊躇っていた幼少組が海に近づいてくる。今度は始めから、しっかりと年長組が彼らの手を取った。
浜辺で子供たちが拾った貝殻に、大人が構成を込める。
海水を拒絶する魔法。子供たちが持った貝殻から半径五十センチほどの魔方陣。その上に立つ限り、体が海に沈むことはない。
風は穏やかで、海は凪いでいる。絶好の講義日和だ。
「海水とは水を主成分とし、塩と微量の金属から成ります。含まれる塩分濃度によって浮力が変わり、浮力は船のような巨大なものをも浮かす力です。また食卓に欠かせぬ塩は海から生成されます」
子供たちと同じように海面へと下りた講師がいろいろな説明をしているが、大半の子供は聞いてはいない。それで構わなかった。
水とは喉の乾きを潤すもので、一日の終わりに体を浸からせるもので、雨の日に空から降ってくるものである。
その上に立つという行為は、普通ならば起こりえない未知のものだ。
魔人の子供たちにとって魔法とは物心つく前から身近なもので、小さな内から遊びの延長上で学んでいくもの。いかに幼い内から知的好奇心を擽るかが肝要である。
娘の初講習ということで、視察もかねて同行した魔王は恐れもなく海上で走り回る子供たちを微笑ましく船上から見下ろしていた。
他の子供と同じように駆け回っていたフィオドラが、ふと立ち止まり、海上から魔王を見上げた。
「とうさま、なにかいる」
フィオドラが、足元の魔方陣を指さして言う。
いま彼らが居るのは沖合だが、水深は四メートルほど、海底が見える程度の場所だ。
魔方陣と海底の間を、優雅に影が動く。
数はそれなりに多く、気づいた子供たちが歓声を上げたり悲鳴を上げたり、各々の反応をする。
魔王は遊びに来たらしいその影の正体に笑った。
「その子たちはね、イルカだよ」
「いるか?」
「海に棲むとても賢い生き物だ。きっと遊ぼうと誘いに来たんだね」
澄み切った海だ。海中のイルカの姿もよく見える。
イルカたちは子供たちの足元をぐるぐると旋回して離れる様子はない。
帯同していた近習が船縁にいる魔王に近づいてきた。
「陛下、そろそろ……」
「うん? もうそんな時間かい」
魔王は振り返らないまま答えた。
「明日のご公務に障りが出ます」
「でもねぇ、あの子は見ておかないと、なかなか厄介だしね」
思わず笑う魔王に、近習が訝しげな顔になる。
彼らの視線の先にいるのはフィオドラだ。
「厄介ですか? 姫様が?」
「うん。とてもね」
近習が訝る理由も分かる。
フィオドラは基本、聞き分けの良い手のかからない子だ。酷い我が侭を言うでもなく、大人を困らせることも少ない。
けれど父親である魔王は、誰よりも彼女の本質を理解している。
足の下で動く動物に、数人の子供が驚いて船の上に戻る。
その中で、フィオドラは不思議そうにイルカを見つめながら、何を思ったか魔法の構成が込められた貝を足元に置いた。
貝を軸に作られた魔方陣だ。手から離そうと、その場で方陣が崩れることはない。
だがフィオドラはイルカに強い興味を惹かれたのか、魔方陣の端までいって両手を海水に浸けた。
一頭のイルカが近づいてくる。
さらに身を乗り出したフィオドラが、――――当然のように海中に落ちた。
「ほらね」
「――ッ、ほらねじゃありませんっ!」
悲鳴を上げる近習にのほほんと笑って、魔王は船上から身軽に飛び降りた。
突如海中に消えた魔王の娘に、講義を行っていた者も、見張りにいた大人たちも、当然子供たちもパニックになっている。
海面に足先が触れると同時に魔方陣を展開する。
子供たちの貝と同種の魔法で海に降り立った魔王は、海に飛び込もうとする部下たちを制して海中をのぞき込んだ。
澄んだ海の中で少女を見つけるのはそれほど難しくなかった。
突然側に落ちてきた子供をイルカたちが取り囲み、数頭がその体に身を寄せる。
イルカたちによって海面に押し上げられた娘を、魔王はイルカたちに礼を言って引き取った。
「フィオドラ、大丈夫かい?」
片手で抱き上げて濡れて張り付いた前髪を掻き上げてやると、フィオドラはにこぉっと笑って小さな指を一本突き立てた。
「もういっかい!」
とりあえず大丈夫なようだ。
上手く息を止めていたのか咳き込む様子もないし、茹だるような気候のおかげで寒さを感じている気配もない。
海に落ちたことにか、イルカと触れあったことにか、どうやらこの体験は彼女にとってとても楽しいものだったようだ。
もう一回とせがむフィオドラを宥める。
「水の中は息が出来ないだろう、息が出来ないと苦しくなってしまう。苦しくなるのは嫌だろう? だから海に入るのは泳ぎを覚えてからにしようか」
「でも、いるかさんは……」
「イルカはとても泳ぐのが上手なんだよ」
「……」
黙りこんだフィオドラは、しかし諦めたわけではないようだ。
何かを考える娘をそのまま抱いて待つ。
彼女は年齢の割に聡明だ。親馬鹿ではなくそう思う。
泳ぐという行為も、己がそれを出来ないことも、十分に承知している。
だがそこで諦めるのではなく、出来ないことを可能にするためにどうすればいいのか。それを探求するのが魔道である。
イルカが数頭、海面を跳ねて魔人たちに水飛沫を浴びせた。
何かを閃いたのか、顔を上げたフィオドラが薔薇色の瞳を輝かせる。
「なら、お水になればいいんだ!」
「は?」
「姫様、なんと?」
側にいた部下たちが疑問の声を上げるのも気にせず、フィオドラは下ろしてくれとせがむ。
魔王はフィオドラが使っていた魔方陣の上に娘を下ろした。
「どうするんだい?」
「あのね、ここと、ここを、……あとね、ここをね」
フィオドラが足元の魔方陣に軸である貝で新しい術式を書き加えていく。
変わっていく構成に、魔王は目を瞠って頬を緩ませた。
平面だった魔方陣がフィオドラを中心に球体へと変化する。
頭上までを綺麗に閉じた魔法球は、完成したと同時にフィオドラを閉じ込めたまま、とぷんっと海の中に消えた。
「姫さまぁ――ッ!」
「おや、まぁ」
「おやまあじゃありませんよっ、陛下ぁ!」
「うわぁあああん、ひめさまぁー!」
再び混乱が巻き起こった海上など露知らず、落ちてきた球に嬉々としてイルカが群がる。
フィオドラ入りの球を連れて一通り海中を泳いだイルカは、海面に顔を出して球遊びを始めた。
中にいるフィオドラの歓声が響く。それに感化されたのか、子供たちが羨ましそうに頬を染めた。
魔王は球が宙高く上げられたタイミングで、魔法を使って娘を引き寄せた。
目の前でふわふわと浮かぶ魔方陣の中で、邪魔をされたフィオドラはいたく不満そうだ。
魔王は微笑んで、周りを見回した。
「他の子たちも君と同じように遊びたいようだよ。教えておあげ」
「うん!」
良い返事をしたフィオドラは、書き換えた構成部分を直して海上に戻ると、そわそわと待つ子供たちに駆け寄った。
「あのね、お水になるの。中はお水はいってきちゃだめーってやって、おそとはお水と同じになればね、お水になれるんだよ」
子供の言葉はなかなか難解だ。聞き流しているだけでは大人には到底理解できない。
にも関わらず、不思議と同じ子供にはあっさりと通じたりする。
和気藹々と魔法いじりを始める子供たちが可笑しな構成を作らないように見張りながら、本日の講師を任せられていた男が深々とため息を吐いた。
「あのような高度な魔法を思いつきで作られるなど、姫様には敵いません。しかも他の子供たちにまでお教えしているなど、わたくし本日をもって講師の立場は返上させていただきます」
「はははっ、まあ教えるというより一緒に遊んでいるようなものだけれど」
人一倍この課外授業に力を入れている男の、本気か冗談か分からぬ言葉に魔王は声を上げて笑った。
水の拒絶と同一化、相反する構成を一つの魔方陣の中で成り立たせるのは難しい。この魔法をさらに煮詰めれば、魔界の船舶技術を飛躍的に促進させることができるだろう。
「まったく、末恐ろしい方ですな」
「さすがは陛下の姫君でいらっしゃる」
「将来が楽しみですね、陛下」
感嘆に称賛、呆れと微かな畏怖。
部下たちの声を聞きながら、魔王はイルカと戯れる子供たちに目を細めた。
「……そうだね」
きっと、この子供らが生きる時代は目まぐるしく巡り、苦難が多く、波乱に満ちているだろう。
ただ平穏に生きるには難しい時代だ。緋命石を取り戻し、人間たちと宥和関係を築き、魔物の脅威を退けなければいけない。
「けれど、きっと」
新たな魔法に瞳を輝かせ、生きていくことを楽しむことを知っている彼らなら、たくさんの者たちと手を取り合い乗り越えていけるだろう。
その未来を想って、楽しげに笑う娘に魔王は頬を緩めた。
***
丘の下に広がる港町。
物資補給のため数日滞在したそこを振り返って、フィオドラは目を細めた。
幼い頃、この港から船で沖に出てイルカと遊んだ覚えがある。
あれは魔法を外に出て実際学ぶための体験学習だったが、フィオドラには勉強をしたというよりは、ひたすら楽しかった記憶しかない。
船の上には父がいて、周りには友人や兄姉と慕う子供たちがいた。城でいつも顔を合わせる大人たちがそばで見守っていてくれたから、なにも怖いものはなかった。
あの頃を思い出しては、皆に「姫様は幼い頃から恐ろしい子でした」とからかわれるのには辟易とするが、それでもいい思い出だ。
「フィオドラ、行くぞ」
立ち止まっていたフィオドラを振り返って、勇者が眉を寄せる。
空と海が交わる水平線は、相変わらず美しい紺碧色だ。
波が立てる白い飛沫に混じって水上をイルカが跳んでいる。
「なにかあったか?」
「なんでもないわ」
フィオドラは笑みを浮かべ、勇者に見えない位置でかつての遊び友達へ手を振ると、急いで先へ行く三人を追いかけた。
了




