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嵐の中、愛をもって


 フィオドラの目に光が戻ったのと、飛び降りてきたアレクシスが彼女の腕を掴んだのはほぼ同時だった。

 視界いっぱいに勇者の端正な顔があって、フィオドラは目を丸くした。

「アレクシス?」

「やっと起きたか、この阿呆」

 呆れたように言われて目を瞬かせる。

 咄嗟に自分がどんな状況にいるのか分からず彼女は周りを見回した。

「なんでこんなに高いところにいるの」

 広間の蝋燭も魔法光もいつの間にか消えていて、辺りは薄暗い。

 不安定な足場、足下にある緑色の物体は周りを見る限り、薔薇の蔓だろうか。けれど、フィオドラの成長させた蔓薔薇とはあまりにも規模が違う。

 凄惨な状況になっている広間にフィオドラは眉を寄せた。

「ここ外じゃなくて、大広間よね。どうしてこんな大嵐になっているの。それに、とても寒いわ」

 酷い貧血と雨ざらしにあって全身が冷え切っていた。

 ぶるぶると震えるフィオドラの肩にアレクシスが自分のマントを掛け、ふらつく彼女の腰に腕を回した。

「あ、ありがとう」

 お礼を言って顔を上げたフィオドラは、そこで彼の頬に赤い筋があるのに気づいた。よくよく見てみれば、アレクシスの体は傷だらけだ。

 一番目立つ頬に手を伸ばす。

 触れた指先で治癒の魔法をかけようとするが、そのとき腹部にはしった激痛にフィオドラは顔を歪めた。

 自分こそが大怪我をしていたことを改めて思い出す。

 アレクシスは震えるフィオドラの手を離させ、水を吸って重くなった黒髪を、こびりついた血ごと指で梳いた。

 一瞬苦しそうに目を細めるが、しかし彼はフィオドラの髪を引いて目つきを鋭くさせた。

「とりあえずお前は、あの馬鹿女を止めろ」

「え?」

 アレクシスの視線を追って初めて、フィオドラは自分の背後にいる存在に気づいた。

 一目でそれが特別な存在だと分かる。

 吹き荒れる嵐の中、赤い髪を乱し、足下の人間たちを呪うかのように睥睨し、そしてその圧倒的な魔力で蹂躙していく。

 こんな強大な存在はいままで会ったことがない。けれど、彼女の存在はフィオドラの中でしっくりと馴染んでいた。

「まさか、魔神。……アーロウ、ディアス?」

「知ってんのか?」

「姿を見たのは初めてだけれど、幼い頃から傍にいたのは感じていたわ」

「んだよ、気づかれてんじゃねえか、あいつ」

 不機嫌そうに呟くアレクシスに、フィオドラは首を傾げた。

「アレクシス、彼女のこと知っていたの」

「……」

 アレクシスは視線を逸らして黙り込んだ。

 不思議に思って首を傾げていると、アーロウディアスの緑の瞳がこちらを向く。

 稲光に照らされて、その瞳は異様な輝きを放っていた。

 広間に蔓延していた魔力が凝縮され、真っ直ぐこちらへと向けられる。

 呼吸もままならないほどの圧。体を強張らせたフィオドラを、アレクシスがつよく抱き寄せた。

「あ、のやろう。見境なくなりやがって。フィオドラにまで攻撃する気か」

 舌打ちしたアレクシスが、ぴくりと肩を震わせ突然フィオドラの体を突き放した。

 驚く彼女の横からアレクシスの体が吹き飛ぶ。

「アレクシスっ!」

 アレクシスの体が広間の柱に叩きつけられる寸前、淡い光が彼の全身を包んだ。

 柱に激突し床へと落下したアレクシスだが、彼はすぐに首を振って体を起こす。

 彼のもとにシャロンが駆け寄っていくのを見て、神官の力で激突の衝撃を緩和したのだと知る。

 しっかりとこちらを見上げてきた紫紺の瞳に、フィオドラはほっと安堵の息を吐いた。

 心配しないでという意味を込めて頷いてみせる。

 座り込んでも十分広さのある蔓の上で、フィオドラは下の様子を見回した。

 散乱した硝子や瓦礫、端で身を寄せ合う人間たち、蔓に押さえつけられている兵士。

 人間たちの口が動いていることから、彼らが悲鳴を上げたり何事かを叫んでいることを察するが、吹き付ける風雨と雷鳴で意味のあるものはなにも聞こえてこない。

 これらすべてアーロウディアスがしたことだ。そして彼女にこれほどの力を使わせてしまったのはフィオドラである。

 フィオドラは顔を上げて、生まれて初めて見る女の姿を見た。

 彼女は子守歌の狭間で思い浮かべていた姿よりももっと美しく凄烈だった。それともいまは怒り狂っているせいで、本来的にはもっと穏やかなのだろうか。

 フィオドラはその姿を見たいと思った。自分に子守歌を歌ってくれる彼女は、いったいどんな顔をしているのだろうか。

「アーロウディアス」

 父がいつも呼んでいた名。それをフィオドラは初めて口にする。

 吹き荒ぶる嵐は彼女の悲鳴だ。ずっと共にあったからか、アーロウディアスの魔力にフィオドラの魔力が同調しようとする。

 フィオドラは引っ張られそうな己をぐっと堪えた。

 どんな嵐の中でも、己を見失ってはいけない。愛されていると知っているから、なにも怖くない。

「ディア」

 両手を差し出し、フィオドラはアーロウディアスを呼ぶ。

「ディア、私は大丈夫よ。ね、こっちを見て」

 ずっとフィオドラの名を呼び続けてくれていたアレクシスのように、彼女も大事な魔神の名を呼んだ。

「ディア、アーロウディアス。私はここに居るわ、ディア」

 呼ぶごとに、アーロウディアスの瞳に理性の色が戻ってくる。

 蔓の動きが緩慢になり、室内を荒らし続けていた風が弱まる。いつのまにか雷の音は遠雷のものだけになっていた。

 雨は相変わらず強かったが、フィオドラは額を流れる水をそのままに微笑んだ。

「ディア」

「……フィオドラ?」

 不安がる子供のような声で、アーロウディアスがフィオドラを呼ぶ。

 フィオドラの何百倍も生きているだろう魔神の弱さに、フィオドラは愛おしさがこみ上げた。

 少しずつ近づいてきた魔神の頬を両手で包んで、フィオドラは力の渦巻く緑の瞳を覗き込んだ。

「やっとあなたに会えた。私、ずっと会いたいと思っていたのよ」

「……妾もじゃ」

「嬉しい」

 フィオドラが破顔すると、アーロウディアスもつられたように笑った。その微笑みはこの世のものとは思えないほど美しい。

 彼女はフィオドラの額に口づけた。

 アーロウディアスの体が光の粒となって消えていく。けれど、居なくなったのではない。傍に寄り添ってくれる確かな気配を感じた。

 蔓はゆっくりとフィオドラをアレクシスたちの前に下ろすと、魔神と同じように光となって消えていった。


 ただ小さな一輪だけが、いつの間にかフィオドラの髪を飾っていた。




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