魔神の狂乱
魔王の娘が操った薔薇は国王にたどり着くことなく、城の魔道士が放った魔法で少女の華奢な体は吹き飛んだ。
大広間に女の絶叫が響き渡ったのは、人々を拘束していた蔓がゆるんだことに誰もがほっと安堵の息を吐いたときだ。
そこに居た者たちは最初、その悲鳴を倒れている娘か自国の王女のものかと思った。広間にいた女性はその二人だけだったからだ。
しかしその声は人に発声できる音量ではなく、またそこに込められた魔力は恐ろしいほどの力を持っていた。
城全体が震えるほどの震動。鼓膜を破るような音波。
誰もが大音響に耳を塞いでいると、次々と広間の窓硝子が割れ天井に吊り下げられているシャンデリアが粉々に砕け散った。
頭上から降り注ぐ硝子の欠片に悲鳴が響き渡る。
窓から風雨が吹き込み、室内を容赦なく荒らしていく。
無様に転倒した人間が散らばった硝子に刺さって呻いた。
王族を避難させようと、いち早く冷静さを取り戻した兵士たちが動き出す。
けれどそれを阻害したのは一度は萎えかけたように見えた蔓薔薇だ。動いた者を標的にしたように、蔓が兵士の体を横に薙ぐ。
それを目撃した人々は一様に絶句した。
先ほどまでは成長速度が速く魔女の意のままに動く薔薇だったが、それでも特別変わった薔薇ではなかった。
けれどいま目の前を蠢くそれは、とてもではないが薔薇と言えるものではない。
蔓は太いもので大樹の幹ほどもあり、花弁の一枚一枚が巨大である。
それが広間の中で縦横無尽に動き回り、人間たちを蹂躙していった。
先ほどまで倒れていたはずの魔女がいつの間にか蔓の上に立ち、広間を一望していた。
彼女の魔道服は血に染まり、彼女自身が一輪の薔薇のようである。
そして彼女の後ろに女の姿があった。
一糸纏わぬ姿は妖艶だが、その形相は憎悪と憤怒で直視するのも恐ろしいものだ。――だが、恐ろしいからこそその女は美しかった。
波打つ赤い髪をうねらせ、緑の瞳を爛々と輝かせている様は、筆舌に尽くしがたい。体を這う緑の文様が妖しい明滅を繰り返していた。
白い肌に緑の光がはしるたび、人間たちは発せられる魔力に圧倒されていく。
ただ呆然と見上げた人々が理解できたのは、彼女が自分たちと一線を画した存在だということだ。
――自分たちは決して触れてはならないものに手を出してしまったのだと。
誰もが薔薇の海に沈むのだと覚悟したとき、唐突に広間の天井が崩れ落ちた。
瓦礫が降り注ぎ、なにが起きたのか分からない彼らは逃げ惑うしかない。
それは蔓の攻撃ではなかった。荒れ狂う空の覗くその隙間に巨大な目が現れる。さらに壁が崩れ、暴風の中からその巨体が姿を現した。
それは滅多に目撃されることもない、特別な獣。額から伸びた二本の角。背に生えた巨大な翼。は虫類のような体皮に、鋭い爪。
「……ドラゴン?」
誰かが呟いた声が大広間を濡らす雨にまぎれた。
あちこちから新たな悲鳴が上がる。
「おい、どうなってんだよ。これは」
「うっわ、なにが起きたの?」
驚きを表しながらも余裕のある声が二つ、混乱に陥った広間に現れた。
振り返った人々を一瞥して、アレクシスとシャロンは広間の中へ進んでいく。
蔓が一本、牽制するようにアレクシスたちの前で床を打った。
ドラゴンが太い咆哮を上げる。
「うるせえぞ、ラギ」
アレクシスの一喝に、ドラゴンが喉を鳴らした。
このドラゴンは以前、アレクシスたちが立ち寄った村に退治を依頼されたドラゴンだ。
しかしドラゴンにはその場に留まっていた理由があり、それをアレクシスたちが解消するとともに契約をし、名を与えた。
それがラギである。
アレクシスたちは、呼びだしたラギの背に乗ってあっという間にこの城へ戻ってきたのだ。
ドラゴンの翼は力強く、一度羽ばたくだけで人間の領土一つ分は進んでしまう。
大人しく待つ姿勢になったラギから視線を戻し、アレクシスはずいぶん高い位置に立つフィオドラを見上げた。
彼女の顔を見て眉を寄せる。
「フィオドラの奴、意識がないな」
魔道着を濡らす血の広さから見てかなり出血量が多そうだ。半ばまで伏せられた瞼の下の瞳は、虚ろでなにも映してない。
「ねえ、あのフィオドラの後ろにいるのってなに?」
「魔神だ。フィオドラに憑いてるらしいぞ」
「なんか暴走してない」
「ああ。くそっ、役立たずじゃねえか」
アレクシスは舌打ちした。
フィオドラにあれほどの怪我をさせないと出てこないくせに、出てきたら出てきたで怒り狂って暴れているだけだ。
フィオドラの方へ行こうとするアレクシスに、それまで壁際で兵士たちに守られていた国王が声を上げた。
「勇者っ。勇者よ、よくぞ戻ってきた!」
わめく国王に、アレクシスは眉を寄せて視線を向ける。
「あの魔女を、化け物を殺すのだ! 報酬はいくらでも出そうぞっ」
「あ?」
「あれは人間の敵だっ。殺せばそなたの名声はさらに上がろう」
アレクシスは溜め息を吐いて、国王へ冷ややかな目を向けた。
「うるせえ呆け。それ以上喋んなら、三枚におろすぞ」
「な、なんだと?」
「ちょっとアレク、魚料理じゃないんだから。あんなおっさんの調理法なんかないよ」
「なら皮を剥いで丸焼きにでもするか?」
「生皮剥ぐなら剥製にして商品価値がある生き物がいいな。どんなマニアックだって、あんなのじゃあ買って貰えないでしょう。どっちにしろ食べたくなんてないし。不味そう」
「誰が食うか。せいぜいが魔物の餌だ」
アレクシスとシャロンの会話に、王宮側の面々は唖然として口を挟む様子もない。
勇者一行としての役を演じていたアレクシスたちしか知らない彼らには、この変貌ぶりは絶句させるのに十分だったようだ。
黙り込んだ人々を尻目に、アレクシスはフィオドラを乗せた蔓のそばに立った。
魔力の中心地である彼女に近づけば近づくほど、力の奔流は激しくなる。爆風が体を叩き、アレクシスは吹き飛ばされないように足を踏ん張った。
後から追いかけてきたシャロンに言う。
「シャロン、手を出すなよ」
「なにも?」
「ああ」
頷いて、どんな手助けも拒絶する。
シャロンは呆れたように見てきたが、了承して後ろへ下がった。
アレクシスは一度呼吸を整えてから駆けだした。
向かってくる者を全て敵と見なすのか、蔓が彼の進路を塞ぐように動き出す。
向かってきた蔓を蹴ってアレクシスはより上部の蔓へと飛び乗った。ときどき太くなった棘が腕や脚に痛みをもたらす。
暴風の中に鎌鼬のような風が混ざり、アレクシスはそれを見極め体を捻った。躱しきれずに細い傷が体中にできていく。
「フィオドラ!」
アレクシスの怒声は彼女に届かないようだ。
フィオドラを守るように後ろから抱きしめるアーロウディアスを睨みつける。
鳥肌が立つほどの魔力をまき散らしている魔神は正気を失っているようだ。向かってくる者が何者であろうとお構いなしで、昨日会ったアレクシスのことを認識していない。
大広間に広がる嵐は激しさを増している。室内にあるにも関わらず、幾筋もの雷が落ちて、下で右往左往していた人間たちを傷つけていく。
自分のもとに向かってきた雷を、アレクシスは剣で二つに割った。左右に分かれた稲妻が広間に落ちる。
鼓膜を震わす轟音にアレクシスは顔を顰めた。
「あの女、はた迷惑にもほどがあんだろ。いつか斬る」
そう心に誓いながら、アレクシスは目の前に迫った蔓を体を捻って避けると、通り過ぎるその蔓を掴んで体を持ち上げた。
振り落とそうとしたのか暴れ回る蔓を離さず、高い位置にいるフィオドラのさらに上部へと上がる。
「フィオドラっ!」
上から呼びかけると、フィオドラの指がかすかに動いた。
彼女は緩慢な動作で仰向く。
虚ろだった薔薇色の瞳に一瞬光が灯ったことを見逃さなかったアレクシスは、何度も何度も彼女の名を呼び続けた。




