魔女の薔薇
たん、たたんと軽く窓硝子を鳴らすだけだった雨が、絶え間ない音となって硝子を震わすようになるのにほとんど時間は掛からなかった。
暗い雲が空を覆い尽くし、地上へ差そうとする太陽の光を拒絶する。かわりに大地に落ちるのは、恵みにも脅威にもなり得る天の涙だ。
まだ昼間だからか、頭上のシャンデリアに火は灯っておらず、壁際の燭台と申し訳程度の魔法光が点いている。ときどき起こる稲光が、広間の床に強烈な影絵を描き出していた。
たくさんの人影、その中央で一つだけ歪な形をしたものがあった。
腹部から全身に回った痛みに体を丸めているフィオドラだ。
大きく息を吸うと刺すように痛むので、浅い呼吸ばかりを繰り返す。痛みがしだいに痺れに変わってきたのを感じながら、フィオドラは転がされている大理石の床からどうにか顔だけを上げた。
最初にログゴート城へ来た日に祝宴が開かれた大広間。
中心に這いつくばっているフィオドラを遠巻きに囲むように、重臣らしき男たち、そして王族が顔を揃えている。
まともに動くことも出来ない彼女の側には、槍先をこちらに向けた兵士たちが何人も立っていた。
フィオドラは磨き抜かれた大理石に広がる自分の血に手をついて、どうにか上半身を起こした。
「……皆様お集まりで。私、夜会に招待された覚えなんてありませんけれど?」
どうにか意地を張った言葉が出た。ついでにぎこちないながらも笑みらしきものを浮かべておく。
もちろん親愛なる人間たちに、たっぷりの嫌みを込めて。
気味の悪いもの見る視線にいい気味だと思っていると、体に衝撃が走って痛みが全身を駆け回った。
横にいたフリードリヒが彼女の肩を蹴っ飛ばしたらしい。
痛みに呻く彼女の上に嘲笑まじりの声が落ちる。
「黙れ、魔女が。よくも我々を欺いて懐に入り込んでくれたな」
フリードリヒの言葉に同調するように、周りが憤りにざわめく。
「しかし間抜けも良いところだ。単身飛び込んできてくれたおかげで、我らはお前を人質にして魔界へ乗り込むことが出来る」
もう全てフィオドラの正体も目的も知られているらしい。
「……そんなこと、出来ないわ」
「そうかな?」
「魔人のみんなには、万が一私に何かがあっても決して揺るがぬように言い聞かせているもの。私を人質にすることに、意味などないわ」
「本当にそう思うか? 事前に言われていようと動揺するのが人の性。魔人は情が深いという。魔王の一人娘を人質に取られて、奴らが怯まないわけがない」
魔王の娘だということまで知られているようだ。
バルドが色々教えたのか、もしくは昔から魔界に乗り込もうと調べてきたのだろう。
フィオドラは細い息を吐きだした。不自然にならない仕草で腹の傷に触れる。
指先に触れた固い感触に、内心ほっとした。あふれ出た血が固まり始め、傷口を塞ぎ始めている。
フィオドラは大きな戦闘になる前は、かならず自分の体に魔法をかけていた。一定以上の血が流れた場合、それらが体外に排出されると同時に凝固する魔法だ。
大量出血は魔道士にとって命取りだ。血が流れつづければ、治癒の魔法さえままならない。だからこうやって、無理矢理にでも止めてしまう必要があった。
完全に止血が済むまでまだ時間がかかる。時間稼ぎをしようと、貧血でふらふらする頭を無理矢理に上げた。
兵士たちの壁の向こうに、国王の姿がある。その背に隠れるようにしてこちらに蔑むような目を向けているのはクリスティアナ姫か。
かすむ視界を瞬きでどうにか凝らしながら、フィオドラは国王の手にある王杖を見据えた。
「たとえそうだとしても、あなたたちでは魔人に叶わないわ。絶対的な力が違いすぎる。数で押し切れるほど、魔人の力は容易くないわよ」
それまで黙っていた国王が、顎髭を撫でながら薄く笑った。
「そう思うかね? 種族など超越する力が儂の手にはある。そなたが一番よく知っているだろう。この中には、そなたの父親の魔力も入っているのだ。まあそなたの父の結晶はずいぶんと小さきものだったがな」
国王が最後に付け足した言葉で周りに笑い声が広がった。
フィオドラは不快なざわめきに血が沸騰するような怒りを覚えた。塞がりかけた傷が開いてしまいそうだ。
父が作り出した結晶が小さいのは当然だ。もともと人間が奪っていったのは歴代魔王の積み重ねられた力で、父が形にしたのは彼自身の魔力のみのものなのだから。
だからこそ、フィオドラにとってはある意味、魔人の秘宝よりも特別なものだった。
父とともに彼女自身が決めたことだけれど、結晶が勇者の手から国王の手に渡ったときの、胸を張り裂かれそうな苦しみは生涯忘れられないだろう。
あのとき、反射的に返してと泣き叫びそうになるのを堪えるのに必死で、顔を上げることさえ出来なかったのだ。
その場面を直接に見てしまえば、冷静な表情など保ち続けることは無理だっただろう。
これ見よがしに杖を振ってみせるログゴート王を睨み上げる。
鷲の嘴に捕らえられている赤い宝。
どうしても緋命石に焦がれる目を向けてしまうフィオドラを、人間たちは愉しげに眺め見た。
フィオドラは両手をついて体を起こした。広がりつづけていた血はもう止まっている。
血だらけの女をせせら嗤うことしか出来ない人間たちなど怖くはない。自分の優位を信じて慢心する愚か者など、恐れるに足りない。
フィオドラは血に濡れた顔で艶然と微笑んで見せた。
「滑稽だこと。敵の威を借りて威張るなど、己の弱さを誇示しているのだと気づかないのかしら」
冷淡に告げてやると、人間たちは顔を引き攣らせた。
凄烈な笑みに呑み込まれたのか、場が一瞬しんと静まりかえる。
雷鳴が轟く。あまりの強風に、城が怯えるかのようにかすかに振動している。
人々は怒りか屈辱に、顔を赤黒くさせていた。しかし、稲光に照らされたフィオドラの青白い頬と、ぺたんと座り込んだまま動く様子のない姿に、彼らはどうにか余裕を取り戻したようだ。
そんな中で最初に口を開いたのは、一番経験値もなく、感情的になってしまったのだろうクリスティアナだった。
「お黙りなさい! こちらには比類なき力を持った勇者様がいらっしゃるの。お前たちのような化け物、すぐにでも退治してくださるわ」
傲慢な仕草で胸を張る王女に、フィオドラは苦笑した。
同じ相手に恋をする者として、彼女には哀れみさえ感じる。
フィオドラもこの城に着いた頃なら、彼を騙した罪悪感でクリスティアナの言葉に動揺しただろう。
しかし、アレクシスがどういう人なのかを再認識したいま、彼が魔人を化け物と蔑み、一方的に攻撃を仕掛けることを善としない人だと確信できる。
彼は人間だから魔人だからと差別をしない。
人を平等に睥睨し、人を平等に見ていてくれる。目の前の相手と真摯に向き合ってくれる優しい男だ。
けれどクリスティアナは、彼の本質を知らない。彼に素のままに接してもいい相手として思われてもいなかった。
いや、アレクシスの本性を知ったなら、クリスティアナこそが彼に恋などしなかっただろう。彼女が恋をしているのは、夢物語に出てくるような強く優しく格好いい、そういう勇者なのだから。
そこのところを兄であるフリードリヒも分かっているのか、苦虫を噛み潰したような顔で妹を窘めた。
「クリスティアナ、お前は黙っていなさい」
「でも」
「黙れと言っているんだ。勇者の力などなくとも、我らが魔人に負けることなどない」
彼の声音に滲む辛辣な響きに気づいて、フィオドラはフリードリヒをうかがい見た。
怒りと悔しさと嫉妬。
もしかしたら彼は、武道大会でアレクシスに惨敗したことを根に持っているのかもしれない。
「父上、いますぐにでも魔界へ進軍を。いまこそ魔人を討ち滅ぼすときです」
フリードリヒが雄々しく声を張り上げると、兵士たちが一斉に槍を打ち鳴らす。
床を打つ振動は止血しかしていない腹に響く。顔を顰めたフィオドラは、盛り上がる周囲を冷ややかに見回して青い唇を開いた。
「そうしたいなら、好きにすればいい。けれど、それは返してもらうわ」
口の中で呟いた言葉は、誰の耳にも届かなかった。
しかし、すぐ横にいて音だけは拾ったのだろう。フリードリヒが訝しげに見下ろしてくる。
フィオドラにはもうなにも出来まいと高をくくっているのだろう。それでも不穏なものを感じた王子が伸ばした手が届く、その前に。
フィオドラは耳飾りを外して己の血の中に落とした。硝子の飾りが割れて、中身が飛び出す。
角張ったいくつもの黒い粒。それはかつて父から贈られた薔薇の種だ。それをフィオドラは肌身離さず常に持ち歩いていた。
フィオドラの魔力に染め上げられた種は、彼女の意のままに成長をとげる。
血の中で一瞬のうちに芽吹き、蔓を伸ばし、まずは一番近くにいたフリードリヒの体を拘束した。
「……なにっ!?」
「殿下!」
「っ、誰か早くその蔓を切らんか!」
「魔女を拘束しろ。いや、殺せ!」
広間を罵声が飛び交う。
フィオドラは全神経を蔓薔薇に込めた魔力に集中させた。
血の凝固に使っていた魔法が解けかけ、再び出血し始める。
激しい耳鳴りが起こる。ひどい眩暈を歯を食いしばって堪え、フィオドラは薔薇を成長させつづけた。
宝玉を取り戻し、最後の魔力で魔王城へ転移さえできればいい。その後に力尽きることになってもフィオドラは一向に構わなかった。
大事なものをたくさん失った。後悔することさえ許されない。
自暴自棄と紙一重の感情と理解しているけれど、もう後戻りは出来ない。
耳鳴りの中に親しんだ声を聞く。どうか逃げてと懇願する女の声。
(ごめんなさい。出来ないの)
フィオドラは心の中で謝った。
誰かを傷つけてでも、為したいと身勝手に思う。
だってそうしなければ、いままで犠牲にしてきたものが無駄になってしまう。
次々に蔓が広間にいる人間に巻き付き、動けなくしていく。足を取られ、腕を捕らえ、胴を締め上げる。あちこちで悲鳴と呻き声が上がった。
薔薇の芳香が蔓延する中で、とうとう蔓の先端が国王の腕にたどり着いたとき、両足を拘束されて転倒した魔道士が苦し紛れに放った魔法が、フィオドラに直撃した。
体が吹き飛び、大理石に叩きつけられる。
視界が白く塗りつぶされ、暗転する瞬間、フィオドラは雷鳴と共に甲高い女の悲鳴を聞いた気がした。
***
「フィオドラ、覚えておいで。君にはとても強い加護がある」
「かご?」
「そうだよ。とてもとても強力な加護だ。彼女はなんとしても君を守ってくれるだろう。けれどそれは諸刃の剣だ。決して当てにして行動を起こしてはいけないよ。呑み込まれてはいけない」
「……とうさま、分かんない」
「じゃあこの二つだけ覚えておいで。どんな嵐の中でも決して己を見失わないこと」
「おのれを、みうしなわないこと。もう一つは?」
「君が愛されているということ。たくさんのものたちにね」




