速きものは石となる
心臓が大きく脈打つ。息が上がり、目の前がちかちかと瞬く。血が沸騰したかのような熱を放ち、一瞬忘我する。
「フィオドラ!」
鋭い声に呼ばれて、フィオドラは我に返った。紫紺の瞳が彼女を貫く。
睨みつけてくるアレクシスの双眸に頷きを返して、フィオドラは凶暴的なほど強い魔力の発生源に目を向けた。
数十メートルほど離れた位置で、フリードリヒが王杖を掲げている。そこからはいまだ赤い光が放たれ、彼の足下に広がった魔物の死骸を照らしていた。
秘宝の魔力に引き寄せられた魔物が彼らの所へ押し寄せたのだろう。それに耐えきれず力を使ったようだが、それは最悪の事態を招くものだ。
フィオドラは頭を抱えたくなるのをどうにか堪えた。
隣でシャロンも呆れたような溜め息を吐いている。
「あーあ、やっちゃったよ。あの人」
「分かってない、のでしょうけど。……最悪よ」
「最初っから引っ込んでればいいものを、ただの馬鹿だな」
アレクシスがざっくりと切り捨てるのを聞きながら、フィオドラはがっくりと項垂れた。
「まあ所詮は武闘大会とかでいい気になってるお坊ちゃんだからな。……ははっ、どうやら団体様のお出ましのようだぞ」
バルドが遠くを見るように目の上に手で当てながら、嬉々として笑った。
彼の視線を追うまでもなく、フィオドラはこちらへ向かってくる大量の魔力を感じていた。
ひとつひとつが大きいわけではない。ただおびただしいほどの数だ。
見通せない遠方の森や丘、岩の陰から最初に見えてきたのは黒っぽい染みだ。それはみるみるうちに地平線を埋め尽くし、肥大化していく。
一分も経つと、数え切れないほどの魔物が脇目も振らずこちらへ向かってくる姿が見えた。
周りの兵士たちから引き攣った悲鳴が上がる。彼らがなんとか逃げ出さないのは、魔物たちとはまだ幾ばくかの距離があるからだろう。
(百、百五十、二百、三百……まだ増える)
刻一刻と増えていく気配に、フィオドラは眉を寄せた。
かつて魔界では魔物討伐の際にもっと多くの魔物をおびき寄せたと言うが、それは事前準備を完璧に行い、彼らを迎え撃つ状況を十分整えてのことだ。
心の準備さえ出来ていない人間たちには、ひたすら絶望的な状況だろう。
狼狽える周りを一瞥して舌打ちしたアレクシスが、フィオドラを見下ろしてくる。
「フィオドラ、どれくらいの数が居る」
「目算、五百三十っていうところかしら」
「空から来るのが厄介だな。バルド、お前が行け」
「了解。久しぶりに血が踊るぜ」
「シャロン、俺たちの治癒は止めていい。自分の身は自分で守れるな」
「もちろん。こっちは気にしなくていいから好きに暴れておいで」
「フィオドラ、あんまり俺から離れんじゃねえぞ」
「分かってるわ」
それぞれに指示を出したアレクシスがあらためて剣を構え直したのを合図に、まずはバルドが動き出した。
他の魔物よりも先に到着した翼を持つ魔物に向かって強く地を蹴る。それに合わせてフィオドラが下から爆風を突き上げると、その風に乗ってバルドの巨体が宙を飛んだ。
彼は手近な魔物の首に剣を突き刺し、体勢を崩した翼を蹴って他の魔物に向かって跳ぶ。
その下では硬直している兵士の間を縫って、フィオドラとアレクシスが走り抜けていた。
アレクシスは押し寄せた魔物に正面から突っ込んで、パンを切るように魔物の胴を切断する。
速度強化の長靴を駆使して風を切るように走る彼の横を、フィオドラも魔法を使ってついて行った。
縦横無尽に振るわれるアレクシスの剣からなんとか急所を逃れた魔物を端から魔法で燃やしていく。傷を負わされ動きの鈍くなった相手に攻撃を当てるのは難しくない。
アレクシスが四本の手を持つ猿を切り捨て、その後ろから口がこめかみまで裂けた猿をフィオドラが焼く。
ときどき足場を失ったバルドに風を送り、ひたすら杖の先に火の玉を作り出していたフィオドラは、不意に後頭部を鷲掴まれ前へとつんのめった。
耳の後ろを巨大な爪が過ぎっていく気配を感じる。
「……っ」
「アレクシス!」
「うるせえ、大丈夫だ」
彼の手袋が裂けて血が出ているのに気づいて、庇われたことを知る。
青くなったフィオドラにアレクシスは手を振って見せた。彼の手の甲に光が集まっている。
「シャロンの奴、治癒は要らねえっつったのに」
アレクシスがぼやく頃には、彼の傷はすっかり消えていた。
近づいてきた魔物を吹っ飛ばしながら後ろを振り返ると、ようやく我に返り始めた兵士たちに守られたシャロンがこちらに手を振っている。
ほっと安堵の息を吐いたフィオドラは、ようやく追いついてきた兵士たちに合わせてアレクシスの袖を引いた。
独断専行している間はいいが、周りに味方が集まってきた段階で勝手な行動を起こすと不測の事態を起こしかねない。
まどろっこしそうに眉を寄せたアレクシスだが、一応は彼女の意を汲んでペースを落とした。
「勇者様、魔道士殿、申し訳ありません。臆してしまいました」
「もう足を引っ張るようなことはしませんので」
「ああ、期待している」
アレクシスの返事には多分に皮肉が織り交ぜられていたが、勇者の乱暴な性格を知らない兵士たちは、アレクシスの期待に応えようと顔を輝かせた。
そんな彼らに向かってフィオドラも微笑んでおく。英雄の素顔は、知らぬが華だ。
兵士たちの参入に余裕の出来たフィオドラは、魔物たちを見回して難しい顔をした。
「魔物の動きが速すぎね。もう少しゆっくりになれば……」
「どうした?」
「普通の人にアレクシスと同じ動きを期待する方が間違っていると思ってるところよ」
「当然だろうが」
訝しげなアレクシスにちょっと肩を竦めてみせる。
「魔物の動きを鈍らせるわ。長い詠唱になるけど、任せていい?」
長文の呪文を唱えるとき、魔道士はとても無防備になる。だから、こういう混戦の状況で使える魔法は小技ばかりだ。
それさえも、フィオドラが魔法に特化した魔人だから出来ることで、普通の人間の魔道士ではやはり後方支援がせいぜいだろう。
戦場の中心で大きな魔法を使うのは身を危険にさらす行為だが、フィオドラはそうすることに一抹の不安も覚えていなかった。
アレクシスが隣にいるのなら、それは危険なことではないから。
「ああ、任せろ」
フィオドラの信頼を受け取って、アレクシスは不敵に笑う。
それが満足そうな笑みに見えて、彼女も口角を上げた。
気を静めて、辺り一帯を俯瞰する。
迫り来る魔物の攻撃も意識の外、次々と敵を切り裂いていくアレクシスの立ち回りも意識の外。
かつて美しき娘がいた、美しさ故の傲慢さ、女神の怒りをかいて、醜き姿となる
毒蛇の髪、輝く瞳、見つめられれば石とならん
打ち勝ちたくば盾を持て、速きものこそ意味を為さん、決してその目を見るなかれ
石化を解けるは彼女の涙、けれど彼女はもういない
石になりては果てるのみ
呪文を唱え終わると共に、光の幻影の中から蛇の髪を持つ女の姿が現れる。
その彼女がかっと目を見開いた瞬間、四方に光が広がった。
目を眇めるほどの光が収まったときには、あれほど動き回っていた魔物の動きが鈍くなっていた。フィオドラの近くにはわずかであるが本当に石化した魔物もいる。
「おい」
ふぅっと息を吐いていたフィオドラにドスの効いた声がかけられる。
不機嫌を前面に押し出したアレクシスが、石化した魔物を邪魔そうに蹴っ飛ばしながら彼女を睨みつけてきた。
「いまのは、俺も対象に入ってやがっただろう」
「え、どうかしら」
確かに、先ほどのフィオドラの呪文は動きの速い者を対象とした魔法だった。
人間の速度では範囲に入らないよう設定したが、魔道具を使って風のような速さで動く勇者は対象内だったかもしれない。
アレクシスが魔法を無効化する剣で防いでいなかったら、彼の足の小指くらいは石になっていた可能性がある。
「確かに入ってたかも。でも、アレクシスなら絶対大丈夫だと思ったし、実際平気だったでしょう? その剣があるんだし、ね?」
フィオドラは笑って誤魔化した。
「アレク、フィオドラ。上、落ちてくるよ」
鈍足になった魔物の間を駆け寄ってきながら、シャロンが上を指さした。それと同時に頭上に影が差す。
一歩足を引いた間に降ってきたのは、全身返り血だらけのバルドだ。
膝を折って衝撃を和らげ、彼は顔を上げてにっと笑った。
「頭上の掃除完了。最後の一体の動きが急に遅くなって、ちょっと焦ったけどな」
「あれ? ごめんなさい」
フィオドラの魔法の範囲は、空にまで及んでしまったらしい。
バルドは立ち上がると共にうんと伸びをして、そのまま振り下ろした手で近づいてきた魔物の額をかち割った。返り血がさらにガキ大将のような顔を汚す。
アレクシスが顔を顰めた。
「おい、その汚い格好どうにかしろ」
「えー、ひとりで頑張ってた俺にあんまりな言い草じゃね」
「臭いんだよ」
「確かに、あんまり近寄りたくないよね。いつもいつも、もうちょっとどうにか出来ないの? 君の服だけ取り替える回数が多いんだよ。お金の無駄遣い!」
「酷えっ」
アレクシスとシャロンの悪態にも、バルドはけらけらと笑う。この辺りのやり取りは室内で寛いでいるときと変わりない。
フィオドラも苦笑した。バルドの戦い方は確かにやり過ぎな感がある。
四人になったところで最初の陣形に戻った。
アレクシスが先頭で、シャロン、フィオドラ、後方にバルドだ。
フィオドラは足下に這い寄ってきた緑色の鼠のような魔物を灰にしながら溜め息をついた。
先ほどからある人物の視線が痛いのだ。相手との距離はけっこうあるはずなのに、はっきりと感じ取れるほどである。そのことを一番近くに居るシャロンに愚痴る。
「なんだかさっきから視線が刺さっているのだけれど」
「うーん。さっきの魔法で、フィオドラのファンになっちゃったんじゃない?」
「……確かに熱烈な視線だけど、なんかもっと粘っこくて気持ち悪いわ」
「大丈夫だよ。戦闘が終わっても続くようなら、アレクが切り刻みにいくはずだから」
「なんで?」
理由が分からず首を傾げるが、確かにアレクシスの背中から漂ってくる不機嫌な気配はどんどん増している。彼もしっかりと視線を感じ取れているのだろう。
「まあ、その理由はいつかアレクから聞くといいと思うよ。……っと、ずいぶん大きいのが来たね」
前方から他の魔物を跳ね飛ばしながら一際大きな魔物がやってきた。
小屋ぐらいの大きさがある蛇のような魔物だ。ぎっしりと詰まった鋭い歯が剥き出しの口、小さすぎるせいか瞳がどこにあるか分からず、こめかみからは巨大な角が生えている。
「翼無竜」
フィオドラはごくりと生唾を飲み込んだ。




