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緋命石

「その心の臓、抉り取ってやろうか」


 アレクシスの背中に戦慄が走る。女の指先一つで、呆気なく命を落とす自分の姿が想像できた。

 しかし彼はその幻影を一笑に付した。訪れていない死など、恐れるに足りない。

「やれるもんならやってみろ。その手が届く前に、貴様の首をへし折ってやる」

 女の手を払いのけて、その華奢な首を睨みつける。

 フィオドラと同じくらい細い首だ。アレクシスの片手に納めてしまうことも出来るだろう。

 一触即発の空気が部屋の中に漂う。先に引いたのは魔神の方だ。

「そう殺気立つでない。この子が寝ている前でそう血生臭いことをするわけがなかろう」

「先に仕掛けてきたのは貴様の方だろうが」

 語気強く吐き捨てたアレクシスは、このやり取りの間もまったく目覚める気配のないフィオドラをちらりと見て眉を寄せた。

「なぜフィオドラに憑いている」

「なぜとな。愛しているからじゃ。この子の魂、この子の魔力、この子の思想。この子を育てた環境、この子の母の祈り。この子の母は、死の間際ただただこの子の幸福を祈った」

 フィオドラの母親はもともと体が弱く、彼女を産み落とすとともに亡くなったと聞いている。

 アーロウディアスは先ほど彼の命を削ぎ落とそうとした指先で、優しくフィオドラの髪を梳いた。その仕草は慈愛に溢れ、本物の母親のようだ。

「フィオドラは知っているのか? お前の存在を」

「知らぬよ。知る必要もない。お前が言ったように魔神は過去の遺物じゃ。過ぎたる力、過ぎたる知恵はときに禍を招く。人が人間と魔人に別たれたときのようにな」

 なにかを懐かしむように、アーロウディアスは遠い目をする。

「長く人を見てきた。人は愚かしく、愛おしい。その本質を歪めぬ為には妾のような存在は邪魔じゃ。けれど愛おしいと思うものを側で見ていたいと思うのが、妾の欲。なればこそ干渉はしない。見守ることが妾に許されたことじゃ」

「……なら、もしフィオドラを殺そうとする奴がいたら」

「そのような輩、即刻その首を切り落としてくれる!」

 アレクシスの仮定に、アーロウディアスは殺気立って叫んだ。

 言っていることが違いすぎる。そのあまりの変わり身の早さに、アレクシスはくっと嘲笑った。

 アーロウディアスが胡乱な目を向けてくる。

「笑っていられる立場か? お前が魔王を討ったのはこの子たちの策略じゃ、多めに見てやろう。だが、もしこの子に手を出したなら、妾は迷わずその心の臓を握りつぶすぞ」

「傷つける? 俺がフィオドラを? あり得んな。俺は惚れた女に剣を向けなきゃならんような立場にはならない」

 先ほどまで見ていた夢を棚に上げて、アレクシスは言い切った。

 実際、この魔神と相対していて、頭の中に残っていた夢の残像は吹き飛んだ。万に一つ、自分がフィオドラの敵に回ったとしても、最後に死ぬのは彼女ではなく自分だ。

 傲然と口端を上げるアレクシスを、アーロウディアスは意外そうに見た。

「随分と素直よの。お前のような男は、色恋に対してもっと捻くれているものと思っておったわ」

 本当に驚いているのか、いまだ感じる魔力に込められていた棘がすっかり抜けている。

 こてんと首を傾げる様はフィオドラに似ていた。

「お前にとやかく言われるいわれはない。俺の心は俺のものだ」

 誰からも顧みられず、虐げられていた孤児時代、唯一己の感情だけは誰にも支配されることはなかった。欲しいものには手を伸ばし、嫌いなものは全力で排除した。

 大人になったいま、全てそれで通すことは出来なくなったが、あの頃に培われた根っこの部分は変わらない。

「心に素直なのか、欲望に忠実なのか」

「うるせえよ」

「褒めておるのじゃ。この子にも少し見習って欲しい所だの」

 仕方なさそうに首振る姿はどうにも人くさい。始めに感じていた得体の知れなさはすっかりなりを潜めてしまっていた。

「嵌めた相手に好かれたいなど、思うこともおこがましいと思っておる。自分の中の恋情を自覚しながら、一生それをお前に言うことはなかろうな」

「……あ?」

 アレクシスはアーロウディアスの愚痴とも言えそうな呟きを、咄嗟に理解しかねた。

 自分の中の恋情? 好かれたい? 嵌めた相手とはアレクシスのことか。しかしそれではまるで、フィオドラがアレクシスのことを。

「まあ良い。それなら、お前はこの子を守ってくれるのじゃろう」

「……こっちが守ってやんなきゃいけないほど、弱かねえだろ。フィオドラは」

 話を切り替えたアーロウディアスに、思考が遮られた。深く考えると混乱しそうで、魔神との会話に意識を戻す。

「弱くはない、故に哀れじゃ。妾たちの気まぐれが、魔王という哀れなものを作り出してしまった。乞われたからとは言え、それは妾たちの罪じゃ」

「……哀れ? 魔王がか」

 アレクシスは死んだ魔王の姿を思い浮かべた。

 人間界で噂されるような極悪非道とは違い、普通の人、普通の父、普通の王だった。

 国のために己を投げ出す覚悟。王の重圧はさぞかし重苦しいだろう。けれど王とはこうあるべきだと体現するような誇り高さは、敵ながら天晴れと感じてしまうほどの強さで、哀れみを誘うものでは無い。

「明確な理性を持たぬ魔物のほとんどが強い魔力に惹かれる性をもっておる。妾たちが人へ教えたのは、魔力の結晶を作り出す方法。それがあの子も話していた魔人の秘宝、緋命石じゃ。それ程の魔力の塊、お前はどのようにして作るか想像できるか?」

 訊ねられ、答えに窮す。

 もともと魔道士でもないアレクシスは魔法に詳しくはない。それでも、生半可なことでは出来ないという直感はあった。

 そうでなければ、魔道士たちはみなそこへたどり着くだろう。人間がわざわざ危険を冒してまで魔人から奪う必要もない。

 もともと彼の答えなど期待してなかったのだろう。アーロウディアスは首を振った。

「命の変換。己の全てを魔力へと換え、次代へと引き継ぐ秘術。お前もあの子の父親を殺したとき見たであろう」

「……」

 告げられた言葉に、瞠目する。

 魔王を討ったとき、アレクシスの手に落ちてきた赤い結晶。帰還してからそれはログゴート王の手へと渡った。

 魔王だけが死んだとき、その結晶を作り出すという。

 それをなぜ、アレクシスは知っていた? それは、魔王討伐のために城を発つとき、ログゴート王に教えられたからだ。

 ならなぜログゴート王はその結晶の存在を知っていたのか。奪ったことがあるのだ。先代の魔王から。

 では、アレクシスが献上した結晶はいま、どこにある?

「魔王とは、魔物と戦うための生け贄じゃ」

「……生け贄」

「魔物は魔王の中にある緋命石の力に惹きつけられる。自分の存在全てが魔物をおびき寄せる道具、囮じゃ。魔王とはそのためにこそ存在している。だから代々の魔王が少しずつ大きくしていった石が奪われたとき、新しい王は一から秘宝を作り直さねばならなかった。しかし魔物は強き力にこそ惹かれる。人間界にそれがあるのに、魔物を己に引き留めることは、魔王には出来なかった。だから魔物は人間界を目指すし、その過程に存在する生き物を食い散らかす」

 だからフィオドラたちは、なんとしても奪われた緋命石を取り戻す必要があったのかと納得する。

 そして先ほどバルドが疑問に思ったものの答えも察した。

 国王が勇者の凱旋報告のさい、緋命石を持っていなかった理由。自分の持っているものが魔王の命と同種のものだと、気づかれたくなかったのだろう。

 アーロウディアスは、眠るフィオドラの額に口づけを落とした。

「この子は自身の安全よりも、緋命石の、代々の魔王の命を取り戻すことを優先するじゃろう。それが己に課した定め。止めることは出来ぬ。この子が強いか弱いかなど関係ないのじゃ。お前は、この子を守ってくれるか?」

 疑問の形にしていても、アーロウディアスの声音には拒否を許さない強さがある。

 アレクシスは、はっと嘲笑した。魔神の脅しなど、何の意味もない。

「強いも弱いもどうでもいい。惚れた女だ」

 だから守る。それ以外の理由はない。

 愉快そうに笑う魔神にアレクシスは背を向けた。これ以上この女と話していても疲れるだけだ。

 戸口のところでふと振り返ると、あれほどの魔力の痕跡もなくすでにアーロウディアスの姿は消えていた。

 フィオドラの寝顔を見ながら夢でも見ていたかと思うが、かすかに汗ばんだ自身の手の平が、先ほどまでの緊張を示していた。

 暗い夜の帳に沈んだ少女の寝顔はもう見えない。アレクシスはそっと扉を閉めた。



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