魔神
フィオドラの寝顔を眺めていたアレクシスは、ふと室内の気配に違和感を覚えて少女に触れていた手を離した。
次の瞬間、風を切る微かな音と布を切り裂く鋭利な音。
見れば着ている服の袖が裂けていた。手を動かさなければ、被害に遭ったのは服ではなくアレクシスの指だろう。
ぶわりと膨れあがったのは、空気を満たす圧倒的な魔力。
物質的な圧力にもなりそうな濃厚さの中に、アレクシスへの明確な敵意が混ぜ込まれ、彼を押しつぶそうと纏わり付く。
アレクシスは足を引きそうになるのを寸前で堪えた。
すぐそこにはこれだけの力が側にありながら、なぜか目を覚まさないフィオドラがいる。彼女を放置して下がるわけにはいかない。
「何者だ」
誰も居ない空間に誰何すると、目の前の空気が歪み、一つの形を作っていく。
咄嗟に腰元に触れて、アレクシスは舌打ちした。あいにくと剣は部屋へ置いてきている。
眠るフィオドラに覆い被さるような形で現れたのは赤い髪の女だ。惜しげもなく晒された裸の肢体、闇の中でも輝く緑の瞳。四肢には絡み合った緑色の刺青が這っている。
その姿はひどく艶めかしいのに不思議と卑猥ではなく、息をのむほど凄烈だ。波打つ豊かな髪が胸もとからフィオドラの肩にかかる。
その様子に顔を顰めて、アレクシスは女を睨みつけた。
「そこから退け」
低い声で告げると、女は小さく首を傾げる。きつめの目元からは何も読み取れない。
アレクシスは声音を強くした。
「フィオドラの上から退けと言っているんだ」
敵か味方かも分からない者に、フィオドラを囲うようにいられることが苛立たしい。いますぐフィオドラの体を引き寄せたいが、アレクシスは直感してもいた。
自分程度の人間が、この女に勝つことは出来ない。
それ程の実力差が、空気を渡ってびりびりと伝わってくる。この存在感は、人間でも魔人のものでもない。
女が紅を塗ったような真っ赤な唇を開いた。
「生意気な口を利きよるの。なぜ妾がお前の言うことを聞かねばならん?」
蜜を垂らしたような蠱惑的な声だ。
耳の奥をじんじんと痺れさせる声音に、アレクシスは眉間に力を入れた。声にさえも魔力が籠もり伝わってくる。
横目で扉を見る。部屋の外からは物音ひとつしない。これほどの魔力の発生に誰も気づいていないというのだろうか。
アレクシスの視線に、女は彼が何を考えているか察したらしい。口元が薄く弧を描く。
「この部屋はすでに妾の領域じゃ。誰も気づきはせぬ、誰も助けには来ぬよ」
「……フィオドラに何をした。なぜ目を覚まさない」
部屋の外からの干渉がないというのは分かった。だが、一向に目覚めぬフィオドラにも焦りを覚える。
優秀な魔道士である彼女が、この異様な状況に眠り続けているなど尋常ではない。
しかし女は、アレクシスの焦慮にくすくすと笑った。
「妾はこの子が生まれたときから共におるのだ。すでにこの子にとって妾は自身の一部。妾の存在がこの子に危機感を与えることはない」
そう告げる女の瞳を真っ直ぐ見据える。嘘はないか、裏はないか。
アレクシスはほんの少し体の力を抜いた。
この人外がフィオドラの脅威にならないのなら、アレクシスが警戒しなければいけないのは、自身に向けられた敵意のみでいい。
「それで、てめえは何者だ?」
「名か? アーロウディアスという」
「……名前なんて聞いてねえよ」
「では、その質問の答えなら、もうお前も知っておろう。気づかぬほど鈍くはなかろう? 妾は誰じゃ?」
面白がるように笑う女に、アレクシスは舌打ちした。からかわれているようで気分が悪い。
アレクシスの本能は、この者を人間でも魔人でもないと訴えている。さりとて、魔物ともとうてい思えない。魔物にどれほど多様な種族があれど、これほどの力を持つものが居るとは思えない。
ならば、導き出される答えはひとつだ。今日初めて知った存在。
「魔神か」
「その通りじゃ。妾はお前たちとは次元の異なるもの、異質なる存在じゃ」
「魔神は過去の存在だろうが。カビの生えた生き物がいまさらこいつに憑いて何をしてる」
「妾がどこに居ようが、妾の勝手じゃろう。お前になんの関係がある」
「不愉快だ。今すぐ消えろ」
アレクシスの即答に、アーロウディアスはころころと笑う。
「無礼な男よの。その口、二度と開けぬように喉を掻ききってやろうか。それとも……」
そう言ってアーロウディアスは、寝台についていた片手を上げた。
伸ばされた手がアレクシスの心臓の位置で止まる。尖った爪先が彼の服に触れた。
「その心の臓、抉り取ってやろうか」




