魔王城
世界が人間界と魔界、正確には人間大陸と魔人大陸に別れておよそ三百年。
この二つは海を隔てた異なった大陸ではなく、一つの大陸だ。
頼りないほど細い川を境に、いつか誰かが決めた境界線。この手前は人間界、この先は魔界。
なんの効力もない川にもちろん交流が断たれるわけもなく、お互いが微妙な均衡を持って成り立っていた。
それが壊れたのは二十年ほど前だ。当代魔王の即位と共に、魔界に多く存在していた魔物が人間界のほうへと押し寄せるようになったのだ。
魔物の危険性を理解し自警団や砦を築くまでのあいだ、多くの人間が魔物に喰われていった。
老いも幼きも関係なく、数え切れない命が散り、無残な屍が山となった。
人々は絶望し悲嘆に暮れた。けれど怒りを向ける場所は明確である。
魔王は絶妙なバランスで保っていた平和を乱し、魔物に人間を襲わせたのだ。
子供を失った親が叫ぶ。
「魔人に同じ苦しみを!」
腕の無い兵士が叫ぶ。
「失った腕の代わりに、やつらの腕を!」
集まった民衆が叫ぶ。
「悪の根源、魔王の首を討ち取れっ!」
人間にはたくさんの国と王がいた。王たちは自国の実力者から勇士を募り、もっとも魔王を倒す力を持つ者を勇者とし、魔界へと送り出した。
そうやって勇者を送り出し続けて十数年、ようやく魔王城にたどり着いた勇者がいた。
***
魔王城の最奥、謁見の間にはほとんど人の気配は無い。
玉座に泰然と座する魔王は、微笑みさえたたえてやってきた勇者一行を見下ろしていた。
広間の床には息を飲むほどに美しく、精巧で複雑な魔方陣が描かれている。大きな円の中にいくつもの大きさの違う真円と三つの楕円があり、その中を踊るように呪文が書き連ねられている。
両端に等間隔で並んでいる大きな柱には精緻な蔓薔薇が彫られていた。もしも色が付いていたならば本物と見間違えただろう。それほどに花弁の一枚一枚、蔓のうねりや葉脈の一筋さえも活き活きとしていた。
高いドーム型の天井は硝子張りで、そこから少しの惜しみもなく星明かりが広間に降りそそいでいる。きらきらとまるで目視できるかのような光が、白石の床を滑って闇を暖めていた。
そこに陰鬱な気配は無い。あるのは静謐さと濃厚な魔力だ。
魔王城。その名の示すイメージからほど遠く、けれど一番しっくりくる謁見の間。
勇者が仲間たちを留めて、玉座に向かって歩を進めた。己の力に自信があるのか、なんの躊躇もなく魔方陣を踏む。
硬い靴が硬い床を叩く、固い音だけが響き、静寂の中、勇者の出す音だけが許されたようだ。
シャンと抜き放った剣の高い音が、神聖なもののように鳴った。
魔王は座したまま、微笑んで勇者を迎え入れた。
「これでいい」
低く澄んだ魔王の声が、不思議と離れた正面扉の前からでも聞こえてきた。場面に似合わないその声と言葉は不遜で、けれどとても静かだった。
勇者の剣が魔王の胸を刺し貫く。
魔王らしい漆黒の服に銀に煌めく刃が吸い込まれたその瞬間、玉座に座した魔王と目があったフィオドラは、──瞳から一粒、涙を零した。