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魔人と人間

 なかなか笑いやまないフィオドラに、アレクシスは呆れたように、けれど表情を緩めた。

「お前が笑うなら、なんでもいいけどな」

「ふふっ。何か言った?」

「何でもねえよ。さっさと立て。これ以上は風邪引くぞ、この馬鹿」

「なによ。水に浸かったのはアレクシスのせいじゃない」

 腕を掴まれて、笑みを残したまま水路から出る。

 魔法でふたりの服を乾かしきる頃には、日が傾き始めていた。

 河川敷を今度はゆったりした歩調で歩く。不思議と、もう帰ろうという言葉はどちらからも出てこなかった。

「アレックス」

「あ?」

 ふと、隣の青年の愛称を呼んでみる。いつだったか、城の中庭で彼がそう呼ばれていた。

「クリスティアナ姫がそう呼んでたわ」

「あー」

 アレクシスが首の後ろを掻いて眉を寄せた。

 心底どうでもよさそうな彼に、フィオドラは姫に同情すると同時に、くすくすと笑った。

 心の内でくすぶっていた微かな嫉妬が、ふっと軽くなる。そう感じてしまうフィオドラは意地が悪いのだろうが、自覚をしたばかりの恋心だから勘弁してほしい。

「でも、バルドたちはアレクって呼ぶわよね」

 どうして? と聞くと、アレクシスは立ち止まって顔を顰める。

 同じように立ち止まったフィオドラを見下ろして、彼は嫌そうに口を開いた。

「それが本当の名前だ」

「え?」

「だから、名前。親か誰かか知らねえが、付けた名前。もともとそっちが本名だ」

 目をパチパチさせるフィオドラに、アレクシスはますます嫌そうに顔を顰めた。

「勇者っていう肩書きに、途中でぶった切ったような短い名前は似合わねえって言って、あいつらが登城するときに勝手につけたんだよ」

 あいつらとはバルドとシャロンのことだろう。

 アレクシスというのは勇者としての名で、本当の名前はアレクだという。

 ぽかんとして見上げるフィオドラに、彼は舌打ちして顔を背ける。

 フィオドラは思わず吹き出した。

「おい」

「だ、だって」

 彼のふてくされた顔が子供っぽくて、なんだか笑いが止まらない。

 それは確かに、名前が似合わないなどと言われては、ふてくされたくもなるだろう。

「また笑うのかよ」

 疲れたように言われると、ますます笑いが止まらなくなる。

 どうやら水浴びをしたときから笑いの沸点が下がりまくっているようで、いまなら石に躓いても笑い出せそうだ。

 しばらく笑いの発作が止まらなかったが、アレクシスは呆れながらも彼女が落ち着くまで一緒に立ち止まっていてくれていた。ただそれだけのことが、なんだか嬉しい。

 だからだろうか、全て話してしまおうかという気になった。

「少し、座っても?」

「あ? ああ」

 水路脇の斜面を指さすと、彼は先の腰を下ろした。その横に座ることに、もう躊躇いは覚えない。

 近くに座りすぎたのか、何気なく置いた指先が触れあう。ぴくりと反応したのはアレクシスの方で、フィオドラは出発前にシャロンに言われたことを思い出して、その手を握った。

「おいっ」

 焦ったように声を荒げるアレクシスを、あえて知らない振りをする。

「シャロンの指令よ」

「あ?」

「デート中に、一回は必ず手を繋ぐこと」

「……」

 黙り込んだアレクシスは、徐々に言われたことを理解したのか、苦虫を噛み潰したような顔をして目を逸らした。繋いでいない方の手で顔を覆ってしまう。

「あの野郎。……帰ったら、絶対ぶっ殺す」

 なにやら物騒なことを言っているけれど、手が振り払われる様子はない。

 だからフィオドラは、その状態のまま「長い話になるのだけれど」と前置きをした。

「魔人の成り立ちがどういったものかという話からになるわ」

 魔人の起源。そもそもがなぜ、元々一つの大陸である人間界と魔界が区分けされたのかという理由。

「人間の世界では、もう伝えられることがなくなったようだけれど、もともとは魔人も人間も同じものだったのよ」

 フィオドラがそう言うと、アレクシスは覆っていた手を外して難しげに顔を顰めた。

 彼らにとって魔人とは生まれたときから憎むべき他種族として教えられてきたのだから、その話を呑み込むのは難しいだろう。けれど彼は口を挟むことなく聞いてくれる。

「遙か、昔。魔物の被害がもっと甚大だった頃、多くの魔道士たちが魔物に対抗する手段を得ようと、必死だった。そしてあるとき、大陸全土の魔道士が一挙に集まって召喚をおこなったの。喚びだしたのは、大いなる力を持つ魔の者たち。当時魔道士たちは、彼らを魔神と呼んでいたわ」

「魔神?」

 アレクシスの呟きに、フィオドラは頷く。

 小魚が跳んだのか、目の前で川の水が跳ねた。赤く色づいてきた空を映して、水面が茜色に染まる。

 僅かずつ、しかし絶えず変わり続ける景色に、フィオドラは目を細めた。

「魔神に知恵と力を授かった彼らは、魔物を引き寄せる宝石を作ることに成功したの。()(めい)(せき)と名付けられたその石を使って魔物をおびき寄せ、魔道士たちは計画的に魔物を討伐することが出来た。けれどそうやって少しずつ魔物の数を減らし平和になってくると、今度は新しい問題が起きたの」

 目の前の脅威は去った。しかし、魔道士たちが魔神に与えられた力はそのまま残る。

 それは当たり前のことと流すには、あまりにも大きな力だった。

「人間たちは魔道士たちを恐れた。いつか彼らが自分たちを支配するのではないかと、そう疑った」

 その結果、起こったのは迫害だ。人間は自分たちと違うものを恐れ、嫌悪する。

 アレクシスの手がわずかに強張る。離されたくなくてぎゅっと力を込めた。

「彼らは国を追われ、大陸の端へと追いやられたわ。もちろん抵抗はしたそうよ。だって、あまりにも理不尽な差別だもの」

 そして長い年月をかけ、いまの人間界と魔界の間にある川まで押し返したのだ。

「差別はどんどん酷くなっていった。魔神の力は魔道士たちの子供にも受け継がれ、けれど月日が経つごとに、もともと彼らが力を付けた理由が忘れられていった」

 それなのに、力だけが残る。人間はさらに恐れ、そして全て排除しようとした。

「大きな戦争が起こったの。勝敗は引き分け。魔道士側のほうがずっと力があるけれど、人間たちの方が圧倒的に人数が多かった。このままだとあまりにも多くの血が流れると、当時の人々は不可侵条約を結んだわ。数十年前、魔物によってその均衡を崩されるまでは、表面上は平和なときが過ぎた」

 人間たちは彼らのことを魔人と呼ぶようになった。自分たちとは違う、魔神と交わった忌まわしい化け物と。

 それも仕方のないものなのかもしれない。魔人の中には、外見的特徴さえも、人間から逸脱してしまった者もいるのだ。

 そこまでを一気に話し終え、フィオドラは息をついた。

 ふと顔を上げると、巣へと戻る途中なのか、高い声を上げた鳥が空を渡っていく。その影に手を伸ばしかけて、フィオドラは止めた。

 まだ彼女が家に帰るには早い。話は終わっておらず、取り返さなければいけない物は未だ手の中にはない。

「悔しくは、なかったのか」

 横から向けられた低い声に視線を戻す。

 いつのまにか、握りあう力はアレクシスの方が強くなっていて痛いほどだ。決して離さないというように込められた力は強い。

 こちらを見返してくる紫紺の瞳に強い怒りが揺れていて、フィオドラは困惑した。

「もともと力を必要としていたのは全ての人間だろう。それなのに必要がなくなった途端、手のひらを返して凶弾する。己の弱さを棚に上げて、差別することで安寧を得ようとする。そんな腐った奴らに虚仮にされて、お前たちはよく平然としてられるな」

 彼の激しい怒気は、誰に向けられたものだろうか。純粋にフィオドラへと向けられたものとはほど遠く、その頃の人間や魔人に対してと言うには確固としている。

 そう感じたフィオドラは、彼がもともと孤児だったということを思い出した。

 アレクシスたちは弱い立場を差別され、力を付けた途端に手のひらを返してすり寄られたのだ。いまの話とは逆だけれど、その過程に味わった憤りは通ずるものがあるのだろう。

 フィオドラは彼の怒りを受け止めるように微笑んだ。

 そんな反応をされるとは思わなかったのだろう。虚を突かれたように、アレクシスが目を見張る。

「すでに過去のことよ。人間が私たちを魔人と言って、差別が区別になったとき、それは私たちにとって脅威ではなくなったの。魔人の中にも憎悪を消せなかった者も居るけれど、そういう者も憎むより生きることを選んだ多数に淘汰されていったわ。だって魔物の脅威はまだ残っていたのだもの」

 魔界には多くの魔物が居た。それらに対抗するのに必死で、自分の中の負の感情に構っている暇はなかったのだろう。

 もともとが研究者気質の強い魔道士たちの血筋だということもある。負の感情に振り回されるよりは、魔法を極めることへの好奇心が勝ったのだ。

 フィオドラは一度深く息を吸った。いままで話したことは、ただの前置きにしか過ぎない。これから話さねばならないのが、なによりも大切な本題だ。


「魔物をおびき寄せ、討伐する力が魔人にはある。だから人間も、魔界に進行してくることはない。ずっとそう思っていたのよ」



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