飛沫に笑う
急に歩き出し、街中をどんどん進んでいく背は振り返らない。
人通りを抜けると、綺麗に整備された水路の脇を歩いて行く。このまま真っ直ぐ行けば、王都を囲む城壁にたどり着いてしまう。
彼がどこへ向かっていくのか、さっぱり分からない。いつのまにか周りに人気はなく、街中も抜けて河川敷になっていた。
その背から異様な気配を感じて、フィオドラは顔を顰めた。
「待って、アレクシス」
「うるさい。付いてくるな」
「なんで怒ってるの? ねえ」
まったく振り返らないアレクシスに、フィオドラはだんだんと苛立ってきた。
頭を撫でて欲しいというのは、そんなに怒るようなことなのだろうか。
フィオドラにそう言われたことが不快だったのか。それとも他になにか怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
そうだとしたら、言ってくれなくては分からない。逃げるように歩かれては、歩幅の違うフィオドラには彼の顔を見ることがかなわないのだ。
「待ってってば、もう!」
いい加減頭にきたフィオドラは、魔法で空気を固めて前を歩くアレクシスに投げつけた。
――当たるだなんて思っていない。ただ少し振り返ってほしかっただけ。
けれど空気の塊は、避けると思ったアレクシスの後頭部に直撃した。
バランスを崩した彼が、そのまま横の水路に落ちる。派手な水音と水飛沫が上がった。
「ええっ?」
驚いたのはフィオドラだ。夏には貧しい人たちが水浴びをするような綺麗な水路だとしても、冬と春の境目にあたるこんな季節に飛び込むものではない。
いや、ある意味フィオドラが突き落としたのだけれども。
「ちょっと、アレクシス。大丈夫?」
水路に座り込んだまま立ち上がらないアレクシスに心配になったフィオドラは、自分もスカートをからげて水の中へ入っていった。
水は刺すように冷たいが、水位はふくらはぎくらいまでの浅いものだ。座っているアレクシスの腰までしかない。
「くそっ……」
アレクシスが濡れた前髪を掻き上げた。紫の瞳で睨みつけてくる。
しかしフィオドラは、その眼光の鋭さよりも、頬や首筋を流れる水滴や、水に濡れた青年のまとう色気に当てられて息をのんだ。睫についた水滴が光を受ける。
「おい?」
「な、なんでもないわ」
不審な目を向けてくるアレクシスに、我に返って首を振る。
好きだと自覚したばかりでその姿は刺激が強い。いま見たものを、慌てて思考から散らした。
「ごめんなさい。本当に当たるなんて思わなくて。怪我してない?」
そう謝りながら手を差し出す。体格差的に引っ張り上げられるわけではない。気分の問題だ。
だからアレクシスが取った手に全体重を乗せてきたとき、フィオドラは踏ん張ることができなかった。
「きゃあ!」
体が引っ張られて水の中へ飛び込む形になった。冷たい水がいっきに体温を奪っていく。
「な、なにするの」
「人を突き飛ばしておいて、自分は濡れないつもりだったか」
「だから、わざとじゃないってば!」
彼女が叫んでも、彼はこちらを冷ややかに見るばかりだ。
「わざとじゃなきゃ、なんでも許されんのかよ。はっ、馬鹿が。そんな甘くねえよ」
「馬鹿って……。あんなのも避けられないアレクシスが鈍いのよ」
本当にへなちょこな攻撃だったのだ。魔王を倒すほどの勇者に当たったことのほうが奇跡的である。
そう主張したフィオドラだが、それを聞いたアレクシスのまとう空気がさらに低下した。まるで浸っている水が凍りそうである。
嫌な予感がしてフィオドラは立ち上がった。逃げだそうとした彼女の足を、彼はいとも簡単にすくう。
再度背中から水に飛び込んだフィオドラは、なぜかそのとき対抗心を燃やして、魔法で高波を作った。今度はアレクシスが頭から波をかぶる。
水から顔を上げてその瞬間を見たフィオドラは、唐突に思い至った。
いまの魔法だって、戦場でならアレクシスは軽々と回避しただろう。それを真っ向から受けてしまったのは、相手がフィオドラだからだ。
無防備な背中を見せるのも、いつまでも水の中で座り込んでいるのも、彼が彼女を信頼しているからだ。
──俺はフィオドラを信頼している。魔王の娘だと知ったいまでもだ。
ふいに魔王城で告げられた低い声を思い出した。アレクシスが魔王の前で言った言葉だ。
あのときは驚きばかりだったが、思い出すと胸の内に喜びがわき上がってくる。
睨みつけられて、そこに強い怒気を感じても怖くならないのが、敵意が微塵も込められていないからだと知れば、どうしても頬が緩んでしまう。
「アレ……っ!」
名を呼びかけた声が途切れた。
起き上がったアレクシスが、両手で彼女の顔面に水をかけてきたからだ。
「ちょっと!」
非難の声を上げたフィオドラも、意地になって応戦した。
バシャバシャと水音が続く。
河川敷に人通りがなくてよかった。いい年をした男女が子供のように水の掛け合いをしていれば、間違いなく奇異な目を向けられただろう。
次第にフィオドラはお腹が震えてきた。飛んでくる水を受けながら、こみ上げてくる可笑しさに、腹を抱えて笑い出す。
訝しげな目を向けてくるアレクシスに、言い訳しようにも笑いが止まらなくて声が引き攣った。
「だって、こんな。……可笑し、子供みたいっ!」
「ああっ!?」
「あははっ、ほんと……子供みたい。……ふふふ」
笑いはなかなか止まらない。目尻に涙まで浮かんできて、フィオドラは笑い転げた。
こんな感じだったかもしれない。魔王を討つ前のふたりの関係は、ちょっと頑固で大人げない言い合いをして、最終的にアレクシスが折れるか、フィオドラが笑い出すか、ふたりで疲れるかだ。
バルドやシャロンとのやり取りのように、お互いの独特のテンポ。それを思い出せたことが、ひどく嬉しくて笑える。




