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赤い宝玉を乞う


 視界を覆う砂塵の向こうに、赤い煌めきがはしった。


(ああ……!)

 魂が震える。

 ずっとずっと求めていた物。探していた物。父が死を選んでまで取り返したかった物。

 王族や国賓のいる貴賓席。その中央に座ってこちらを見下ろしている国王の手に、華美な杖があった。

 その上部に据えられている赤い玉から目が離せない。

 埃にまみれた空気が動く。

 のど元へと突きつけられようとしているフリードリヒの杖の存在を感じていても、フィオドラは防御することを放棄した。

 審判の試合終了を知らせる声。観客の大声援。何も耳には入ってこない。

「おい……」

 フリードリヒが何か言っているようだが、フィオドラに返事をする余裕はなかった。

 ふらりと闘技場に背を向けて、観客席の下にある出口に向かう。

 燭台からの明かりだけの薄暗い通路を歩きながら、目の奥に残る赤い光に思いを馳せる。

 だから横の通路から出てきた人間に突然体を壁に押しつけられても、反応することができなかった。

 反応できたとしても、相手がアレクシスだと気づいた時点でフィオドラは動かなかっただろう。

 それほどに心に衝撃を受けている。

「なんだ、さっきのは」

 怒りを無理矢理抑え込んだような低い声は、彼の本気の憤怒を伝えてくる。

「アレクシス」

「なんだと聞いているんだ!」

 アレクシスは、彼女の胸ぐらを掴んでいる手とは逆の拳で、顔横の壁を殴りつけてくる。

 鈍い衝撃が背から伝わってきて、かすかに抉れた外壁がぱらぱらと肩に落ちた。

「なぜ最後のとき防御をしなかった。もし相手に殺す気があったなら、お前は死んでいたんだぞ! どうして気を抜いたっ」

 もともとフィオドラが負ける気でいたのは、アレクシスも承知していただろう。

 彼が怒っているのは、彼女が戦闘中に他所へ意識を反らせたこと。戦意をなくしたことだ。

 けれどあのとき、フィオドラは戦意を失ったわけではない。

 死を感じさせない茶番への意欲よりも、もっと激しい意識が燃え上がったのだ。

 それはいまでも胸の内を焼き続けている。

 切り裂くようなアレクシスの眼光を真っ直ぐ見つめかえす。

 魔物と戦っていたときよりも恐ろしい彼の形相に、しかしフィオドラは恐怖を覚えなかった。

 そのことにどうしてか、かっと頭の中が沸騰した。

 判然としない感情に頭の中をぐちゃぐちゃにされたようで、目の前の男がひどく憎らしく思えてくる。

 力の入らなかった体が、急速に強張っていく。ただの八つ当たりだ。そうは分かっていても、息苦しくなるほどの思いが胸中で渦を巻く。

「フィオドラ?」

 あえかな吐息を零すだけの彼女に、アレクシスが訝しげな声を掛けてくる。

 掴まれたのど元が苦しいのかと手を緩めた彼をフィオドラは突き飛ばした。

 彼が半歩後ろへ下がったのは、フィオドラの行動に驚いたからだ。彼女が叩いた程度ではびくともしない厚い胸板に苛立ち、アレクシスを睨み上げた。

「あなたには関係ないじゃない! なにも知らないくせにっ。なんでアレクシスが怒るのよ。なんで……」

 なぜそんな怒った顔でフィオドラの心配などするのだ。

 自分は本来人間の敵で、勇者の敵で、彼を騙して人を殺させた酷い女だ。

 だから、もっと突き放し冷たく軽蔑すればいいのだ。そうすれば、フィオドラだって人間なんてそんなものと、冷めた目で彼らと共にいられるだろうに。

 どうして彼と普通に喋れないのだろうと、どうしたら前のように戻れるだろうと思い悩む必要もなくなるのに。

 困惑したように見下ろしてくるアレクシスの顔が、水膜を張ったように歪む。

 フィオドラは決して泣くものかと唇を噛みしめた。

 八つ当たりをしている身で、勝手に怒って勝手に泣くのはあまりにもみっともない。

 けれど言葉だけはどうしても止まらなかった。

「どうしてそんな顔をするのよ。私のことなんか放っておいて。クリスティアナ姫や、外であなたを待っているご令嬢方に愛想でも振りまいてきたらどうなの」

 アレクシスに駆け寄るクリスティアナの姿が脳裏に浮かぶ。彼に向けられるたくさんの黄色い声援。笑い返す彼の柔和な顔。

 そのどれも、本当は気分が悪かった。

 その理由が分からない。分かりたくはない。

 フィオドラは物事を理路整然と考えるのが好きだ。だからいまのこのアレクシスに向けている意味の分からぬ怒りが、本当はまったく違うものから受ける悔しさをすり替えただけだと気づいている。

 彼に当たるのは筋違い。だから止めるべきだ。

 分かっていても、どうしてか言葉が止まらない。

「そんな目で見ないで。お願いだからもう向こうへ行って! これ以上……っ!」

 

 ――惨めな思いをさせないで。

 

 フィオドラは息を切らせて壁に寄りかかった。

 理不尽な言葉を投げたことは分かっている。どうしようもなく自己嫌悪。

 けれど、まったく的を射ていない言葉は、彼を傷つけることは出来なかっただろう。そのことに心の冷静な部分がほっとしている。

 こんな風に誰かに感情を思いっきりぶつけたことなどフィオドラは殆どない。当たり散らしたおかげか、少しだけ頭がすっきりした。

 顔を上げるとアレクシスが呆然とこちらを見下ろしていた。

 彼の珍しい表情に、気まずい思いが膨らむ。フィオドラが彼に剥き出しの感情を見せたのも初めてだ。

 気恥ずかしくなったフィオドラは、一歩踏み出してアレクシスに抱きついた。

「……おいっ」

 いきなりのことに焦ったような声を無視して、フィオドラは先ほど苛立たしいと思ったたくましい胸板に額を押しつける。

 宙をさまよった彼の手の気配を後頭部に感じて、そのまま撫でてくれればいいのにと思った。

(慰めて欲しいんだ、私)

 なにに心乱しているのか教えもしないのに無理な相談だ。

 そうでなくても、アレクシスは意味の分からぬフィオドラの挙動に混乱の最中だろう。

 感情の爆発の原因はアレクシスではなく、瞼の裏にいまだちらつく赤い光だ。

 

 どうしても欲しい物は、安易に手を伸ばしてはいけない。けれど、その価値を分かっていない者の手にあることが、悔しいのを通り越してひどく腹立たしい。

 

フィオドラはアレクシスから離れてその顔を見上げた。

 困惑と不機嫌、そして心配を混ぜた紫の瞳を見据えて、フィオドラは怒りの発露の代理を頼むことにした。


「あの王子様、徹底的に叩きのめしてきて」




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