不安な恋文にキスを
全ては、その一通の無骨な白い封筒から始まった。
見るつもりはなかった、と言えば嘘になる。忘れた6限目の現代文の教科書をふたつ隣のクラスのりんこから借りて、国語の教師に言われた通りのページを開こうとしたとき、ひらりとそれは俺の机の上に落ちた。笠間鈴子様、と角ばった字の手書きの宛名と、裏返したときに見えた坂東秋夜、といういかにも男物な名前を見た瞬間、目の前で教師が言ったことが何も頭に入らなくなった。
告白だろうか。
そう思った瞬間、考える暇もなく右手が糊付けされていない封を開けていた。
急な手紙になったことを謝罪する分から始まった丁寧なそのラブレターは、ありがちにも彼女のことをずっと見ていて、好きだと書いてあった。
“裏門のそばのイチョウの木下で待っています”
そんな言葉とともに、明日の放課後を指定して手紙は締めくくられていた。読んでから、ぐるぐると頭の中をどす黒い何かが駆け巡っていった。
りんこは高校生になってかわいらしくなったと思う。中学時代はふたつにくくっていた髪をふわふわと踊らせて、無邪気な顔でよく笑う。愛想もよければ気遣いもできる。自分の恋人ながら、彼女がモテない理由を見つける方が困難だ。
それでも、付き合っているのは俺なのだ。
教師の言葉などひとつも頭に入らぬまま、手元のノートも真っ白なまま、45分間は静かに、悶々と過ぎてゆく。
***
「鈴子、桜川きたよ」
放課後、なんとなく上がらない気分のままふたつ隣のクラスまで彼女を迎えに行くと、教室でりんことしゃべるふたりの友達のひとりがふとこちらに気がついた。その声に顔を上げたりんこはぱっと顔を輝かせた。
「お疲れ様!もう帰る?」
「ん、ああ。……あと、これ」
もう一度あの白い封筒を挟み直した現代文の教科書を突き出した俺の表情はどう考えてもむっすりしていたはずだ。
「はい、ありがとうね。もう、教科書忘れちゃだめだよ?」
もやもやとした俺の心なんて知るよしもなく、ふわふわとりんこは笑ってみせた。
「悪かったな。……助かった、さんきゅ」
教科書を手渡して返すなんていうささいな行為に対しても“ありがとう”と返すりんこはすごいと思う。借りた分際で感謝のひとつも言わないのもいかがなものかと反省してぼそりと付け足すと、さっきよりもっと嬉しそうな笑顔をして、りんこはその教科書をかばんにしまった。
「あたしさ、初めて鈴子と桜川が付き合ってるって知ったとき、冗談じゃないかって思ってたんだ」
一連の流れを頬杖ついてにやにや眺めていた彼女の友達がふとそんな言葉をこぼした。
「え?」
きょと、と目を丸くしたりんこに彼女は続けた。
「だって、あんたはこれだけぽやぽやしてるし、桜川はなんか目つき悪くてガラ悪そうだし」
「ああ、たしかに。人ひとりくらい殴ってそう」
ひとりめに同調するようにもうひとりも頷いた。
「ひろくんは眉間のしわがすごいからね」
直さないとね、と言いながら眉間に伸びてきた手を交わしていると、でもね、とふたりの友達は笑った。
「そういうところ見てると、やっぱりお似合いなんだよね」
「わかる。空気っていうのかな、正反対のわりになんかふたりが一緒だとしっくりくるんだよ」
そうかな、とりんこも嬉しそうに破顔した。
「鈴子も鈴子よ、桜川が来るたびに安心しきった顔しちゃって」
「もう帰るぞ」
なんとなくむずむずして、照れを隠すように彼女の手を取った。
「あ、うん。じゃあね、また明日」
ひらひら、手を振る友達に手を振り返すりんこのもう片方の手を引いて、教室を後にした。
***
どうしたの、と唐突にりんこが声をかけてきてのは、家に帰って夕飯を終えてからだった。施設の公共スペースの縁側で話しているときに、なんの脈絡もなしに出されたその言葉に眉をひそめると、
「なんかひろくん、変」
そんな言葉が返ってきた。
「学校で何かあった?」
「……なんも」
「うそ」
「…………なくは、ない」
つつじが咲く庭を見下ろす縁側に座ったまま、むすっと告げる。
「……悪い」
「なあに」
「教科書ん中に封筒入ってて……悪い、見た」
りんこはくるりと目を丸くして、息を飲んだ。
「……そうなんだ」
「悪い」
「ううん、大丈夫!」
りんこが言うには、今朝隣のクラスの男子から例の手紙をもらったらしい。
「読んでください! としか言われなかったから、その場で断ってしまうのも失礼だし……。そのとき教科書に挟んだままだったの忘れて貸しちゃって」
「ふぅん」
ごめんね、嫌な思いしたよね、と眉尻を下げて謝るりんこがたまらなくいじらしい。
「明日、行くのか」
「うん」
ただ、その返事は揺るがなかった。
「きちんとお返事しなきゃ」
明日放課後少し待っててくれる? と俺を見上げたりんこの唇にそっと口づけた。
「……待ってる、けど。不安にさせたぶん、くれよ」
至近距離での言葉はりんこの目を丸くさせて、それからまたはにかませた。
「ひろくんも、不安になるん……んっ」
「うるさい」
呼吸を奪うように唇を重ねて、柔らかくてあたたかいそれを何度も食んで、舌を絡め合う。
お互いの呼吸が少し乱れて、閉じた目をふと開けると、とろりと潤ませた瞳とかち合って、まずい、とまた目を閉じて彼女を首を支えていた手を胸元に下ろしかけるのを必死で止めた。
「……んぁ、ふ」
たまらなく色めいた声で理性をぐらぐら揺らす彼女は、たぶん何も考えてなどいない。俺が頭の中で必死に額を吹くハンカチでカツラをずらす校長を思い浮かべているなんて知りもせず、ただ目の前の気持ちよさにゆらゆらと身を任せているだけなのだろう。
一度口を離すと、色っぽい息を吐いたりんこは、物足りなそうな顔をして今度は自分から顔を近づけてきた。
くそ、どうなっても知らないからな。
ここが公共スペースだということも忘れかけて、重ねた唇の甘さに身を任せかけた。
そんなとき、不意にスパンといい音がして急激に現実は襲ってきた。
「あんたたち、仮にもここ共同スペースなんだからな! 放っておいたらどこまでするつもりなのよ」
「……いってぇ……」
首をそらして後ろを見上げると、眉をひそめた千葉センセが雑誌を手に仁王立ちしていた。
「んなこと言ったって、もうすぐ異性の部屋立ち入り禁止の時間じゃん」
「場所考えろって言ってるんだよ猿! リビングから見える縁側で堂々と濃厚なやつするバカがいるか」
へいへい、と叩かれた頭をさすりながらりんこを見ると、ようやくとろけた頭から戻ってきたようで、顔を真っ赤にさせていた。
「おまえもだよりんこ、流されんな」
「う……ごめんなさい……」
俺にしたそれよりもいくらか軽い力で頭を叩かれたりんこは素直に頭を下げた。
「さっき風呂が沸いたよ。今日は男子からだろ。博基いってこい」
早々に千葉センセに追い出されて、そそくさと部屋に戻って風呂に入った。
狭い風呂の中で、センセの怒鳴り声から事情を察した政良から睨まれたのは、少し居心地が悪かった。
***
坂東という男は、誠実そうな、政良をもう少しへたれにしたような、そんな容姿をしていた。
昨日りんこの友達が言っていたように、本当は彼女に見合うのはああいう真面目そうな男なのかもしれない。それでも、やっぱり似合うと認めてくれた彼女たちの声や、快楽に身を委ねて甘い顔を見せてくれたりんこのことを思い出してどうにかやさぐれたくなる心をとどめた。
「笠間さん、来てくれてありがとう」
「ううん、こっちこそ、その、手紙ありがとう」
高校生の告白シーンらしい甘酸っぱい場面に思わず首をかいた。かゆい、かゆすぎる。
俺が物陰に隠れて見守っているのは、別に彼女に頼まれたからではない。かといって男がどんなものなのか物見遊山しにきたのでもない。
ただ、不安なのだ。
いくら好きと言われても、何度キスをしても、「もしも」があったらどうしよう、と格好悪くうじうじとしている。
「読んでくれたと思うけど、俺、笠間さんのことが好きです」
「……ありがとう、ございます」
「もしもよかったら、その、俺と付き合ってくれませんか」
「ご、ごめんなさい!」
りんこは思い切るように頭を下げた。
「私、付き合ってる人がいるんです」
「……そう、なんだ。どんな人?」
予想もしてなかったのか、目を丸くしたりんこはこちらからもわかるほどに顔を赤らめた。しばらく考え込んで、何度かためらってから、
「誤解されやすいけど、すごく素敵な人だよ。何度も助けてもらった」
とはにかんだ。その表情にごくり、息を飲んだのはどうやら俺だけではなかったようだ。
さすがにいてもたってもいられなくなって、気がつけば物陰から足を伸ばしていた。
「悪い、そういうことだから、諦めてくれ」
「ひろくん!?」
「さ、桜川!」
ふたりとも驚いて目を丸くしている。りんこのうしろからそっと肩に手をまわすと、ぶわっとつかんだそこが熱くなった。
「笠間さんの彼氏って、もしかして」
「俺だよ」
「でもたしかふたりって」
同じ施設に住んでるよね?
声にならないその言葉に、思わずため息をつきたくなった。
「それって結局傷の舐め合いというか、刷り込みみたいなのも混じってない?」
その言葉にほんの少しだけ混じる嘲りに、苛立ちが頭をもたげた。ぎゅ、と彼女の肩を思わず強くつかんで目の前の男を睨みつける。
「そんなの関係ないよ」
冷たい声が隣から聞こえた。さっきまでうろたえていたりんこがすっと目をすがめている。
「笠間さん……?」
「恋愛するのに、親がいないからとか一緒に住んでるからとか、そんなの関係ないよ」
彼女は静かに、だが確かに怒っていた。珍しさに思わず何も言えずに俺は反抗のために開きかけた口を閉じることを忘れた。
「何回か言われたことあるよ、そういうの。でも私はひろくんだから好きになったし、たぶんひろくんだってそうだよ。それがたまたまふたりとも同じ家に住んでたって、それだけのことだよ」
それを周りにとやかく言われたくない、と彼女は締めくくった。
坂東は豆鉄砲でも食らったかのような顔をしてただ立っていた。俺もしばらく何も言えずにいたが、やがて細い方がかすかに震えていることに気づいた。
「りんこ」
「ん」
「帰るぞ」
「ん」
かばん取ってくる、と駆け足で去っていったあとは、若干の気まずさの中で男2人が残された。
「……あのさ。俺みたいなのじゃおまえも納得いかないかもしれないけど、一緒に住んでることを理由にだけはしないでくれないか」
たぶん彼女は、彼氏である俺のこと以上に、俺も含めた家族のことについて何か言われるのをひどく嫌う。
しばらく坂東は黙っていたが、やがて
「本気、なんだな」
とぼそり、つぶやいた。
「まあ、他の男にされた告白の返事しに行くのに、不安になってうしろから覗いてるくらいには、本気だよ」
「そうか」
そう返せば、彼は吹き出した。
「桜川、そんな悪い目つきしておいて、彼女のことになると不安にもなるんだな」
「当たり前だろ、釣り合ってる自覚なんてねえんだよ」
これはかなわないな、と彼は小さく笑った。
「仕方がない。俺が好きだったのはおまえに恋する彼女だったんだな」
「そういうことらしい。まあ諦めてくれ」
「そうするよ」
けらけらと笑っていると、かばんをとって帰ってきた彼女がきょとんとこちらを見ていた。
「笠間さん、さっきはごめん」
坂東はりんこに向かって頭を下げた。
「酷いこと言った。桜川とのことはそうそう認めたくはないけど、仕方がないじゃないか」
「え……」
「桜川と幸せなら、それでいいよ。そうだろ?」
目を丸くした彼女は、ふわりと最上級の笑みを浮かべた。
「うん」
「そうか。じゃあ、な。ありがとう」
「あっ、こちらこそ、ありがとう!」
気持ちは嬉しかったよ、とりんこは最後に声をかけてから、俺を見上げた。
「帰ろうか」
「ん。じゃな」
少しだけまだ痛そうな顔の坂東に背を向けて歩き出す。今日はセンセに見つからないようにキスをしよう、なんて思った。