Chapter XXII 覚醒
アナタスの歴史は古い。その原始はヴァンデルト国の首都であるメメルに匹敵する。それゆえ、ヴァンデルトの第二の都市として現代でもなおその発展が止むことはない。だが、都市すべてが一様に発展しているわけではない。石畳と左右に伸びる建築物の列。窓から窓へと渡されたロープとそこにかかっている洗濯物。アナタスの住民は一所に寄り添うかのように住宅地を築いている。一方、住民がめったに足を踏み入れない場所がアナタスにはある。アナタスの歴史とともに建てられたとされる、いくつもの尖塔が伸びた古びた建物を中心とする一角だ。高さこそが強さなのだという認識が作り出した、ヴァンデルト国立図書館によく似た構造の建物の一群がそこにはあった。
その建物群の一角に、周りと比べ遥かに見劣りする建物があった。おそらく何も知らない者がそこを訪れたとしたら、それが建物だとは気がつかないだろう。高さもわずかに人の丈を越えているにすぎない。正面(と呼んでいいのか分からないが)には両開きの扉らしきものがついている。だが、鍵がかけられているようでその扉を何も知らない者は開くことができない。アナタスの遺跡の中で、未だに歴史が分からない建物の一つである。
その建物の前にメリッサ=V=ディバル、ディトス=アーバニア、サルメ=ムトゥーはいた。メメルがダルファ=ガイ博士らに襲撃されたとき、彼らの裏を書くようにメメルから脱出した王族のメリッサと、彼女の保護を担う南の兵士長ディトスと、ワインハルト=ジャネ元兵士長の直属の部下にあたるサルメの三名だ。
「これはちょっと、あまりかんばしくないんじゃない?」
ディトスは扉の前に屈みこむように立っている。
「まだ誰も来ていないようだ」
「そうみたい……」
「ここに間違いないんだよなぁ」
「ええ、それはそうよ」
メリッサは口元に手を持っていき、不安そうに呟いた。アナタスのここに来るように、昔から言われていたことだ。
「サルメ、お前は読めるか?」
親指を使ってディトスは扉を指した。扉には文字らしきものが刻まれている。ヴァンデルト国の識字率は高くない。だが、王侯貴族や、王城に仕えるものであれば嫌でも文字を学ぶことになる。だが、ディトスにはそれが読めなかった。つまり、ヴァンデルト国の文字ではないのだ。
「これと同じ様式の文字をヴァンデルト国の図書館で見た。確かこれは……」
「イルカ国の古代の文字ね」
サルメの言葉を引き継ぐかのようにメリッサが答える。
「へぇ。なんでこんなところにイルカ国の文字が入ってるんだろうね」
ディトスが呟く……確かに、ここにイルカ国の文字があるのは不自然なことのように思われる。サルメはそこに書かれた文字を読み始める。
「イ ラドム マダムラ エマ ホイルトメ
ラエル イルテ! リット クル ラドム ローフ ラミウメ
ラエル メーテ! ラウール エマ フォルン」
「へぇ、さすがだね。で、どういう意味なわけ?」
「いや、意味は分からない。最後の部分は、詩歌によく使われる語句で、溢れてくる希望ってことは分かるけど……ホイルトメはホイルトが名詞になった形で温かいってことか?」
「それだけじゃだめだね。意味が通らない」
「メリッサ様はお分かりですよね」
サルメはメリッサを振り返った。メリッサは小さく頷く。
「その……その温かき国の滅びんとき
未来のためにその国の名を唱えよ
希望が溢れるのを感じよ」
「さすが姫さんだ。よくご存知で」
「幼少の頃より学んで参りました。ええ、どうしてでしょう」
「つまり、このような事態に陥るだろうことを常に国王は想定していたのでしょう。これが読めなければここに来ても意味がないということです」
「そういうこった。で、温かき国ってのは?」
「ヴァンデルト国のことでしょう。東風に吹かれて、暖流からいつも温かい空気が運ばれて来ますから……そして、滅んだ」
「ヴァンデルトって唱えればいいのか? てか、唱えるだけだったらもう開いててもらわないと困るんだけどな」
「ヴァンデルト……」
メリッサは扉に向かってもう一度国名を発した。だが、扉が開かれる雰囲気はない。
「もう壊れちまってんじゃない?」
「ヴァンデルトはヴァンデルトの言葉です。ヴァンデルトをイルカの言葉で唱えるとどうなるのですか?」
サルメはメリッサに言った。少し考えるようにしてからメリッサが答える。
「ファンドール」
と。
カチッという音が微かに聞こえた気がした。やはりだめだったかと三人の顔に諦めが漂ったとき、今度はギシッという音がした。確実に扉が音を立てた。三人の視線は一様に扉に集まった。音と共に、両開きの扉がゆっくりと手前に開き始める。何百年もの埃がパラパラと落ち、扉の先に暗い空間が見え始めた。
否、空間の先は白かった。
否、それは僅かな間の光だった。
まぶたを閉じたその直前に三人は目撃した。光の中にあったのは翼に思えた。何かが、その瞬間に飛び去ったのだ。
「……何が?」
光も衰え、ようやく目が通常に慣れてくると、そこには開いた扉があった。扉の先はやはり暗い。そしてそこには地下へと続く階段があった。
メメルの王城が落ちていくのを、そこに住まう者たちはなすすべもなく見守ることしかできなかった。次々と倒れていく騎士団と、国のシンボルである国旗を頂いた像の破壊と、まるで風の前の塵であるかのように、すべては一瞬のできごとであった。
だが記憶に焼きついたその映像は、時が経つにつれて一層濃厚になっていく。いっそのこと王城と共に命を落としてしまったほうが楽だったのかもしれない。儚い思考だが、非常に的を射ている。
ヴァンデルト国は滅んだのだ。
この事実を受け入れるのに、メメルの都市民は一ヶ月のときを要した。秩序のなくなったメメルはまさに荒れた世界であった。略奪と殺戮と強姦と、強者の傍若無人なる世界となっていた。
もしもここに騎士団が一つでも残っていたならば、そうはならなかっただろう。もしもフォルンが滅んでいなかったならば、ここまでひどい状況には陥らなかっただろう。だが、今メメルは周りから完全に孤立していた。王城のなくなったメメルに、秩序を求めることは不可能なことだった。もともとメメル内には国王の内へと向かった欲望の犠牲者に溢れていたのだ。まさにそれが爆発したと言ってもよいだろう。
新たなる支配者の出現が、小市民の、弱き者たちから望まれていた。
その一人がリカ=トールだ。今年二十歳を迎えた、黄色の髪の毛が特徴のソラのかつての友人だ。リカは自分の家にいることが危険だと、すでに身をもって体験していたため、今は別のところに身を隠していた。ソラの家だ。
「いつもすいません」
「何を言っているんだい。こんな時代だ。互いに信頼を置ける相手には手をさし伸べておかないとね」
「イドネおばさん、わたし、悔しいんです」
椅子に座り俯き加減にリカの黄色い瞳から涙が溜まっていた。リカがソラの家に着てから、何度となく繰り返された光景だ。
「ああ、そうだろうね」
「わたしの友達は、みんな、王城に徴兵されて、だから、わたしのなかで、ソラだけが、もしかしたら」
「あれは頭はいいが、てんで弱いからね、兵隊になってもなにもできやしない」
「でもソラだけは徴兵されなかった……ソラは、生きてますよね?」
「さあねぇ。家を飛び出て何ヶ月になる? 便りの一つも届きやしない。時期的にね、フォルンがああなったのと同じ頃だろう」
「おばさん!」
「ああ、生きていると思うよ。だいぶ前だがトニオという第一騎士団の隊長が尋ねてきてね、まだ生きていると確信した」
「そうですよね」
俯いた表情が少しだけ明るくなった。
と、突然バァンという音がしたかと思うと、家の扉が激しく開けられた。そこに男が三人立っている。
「へっへっへ、上玉発見!」
「ようやくありつけましたね、兄貴!」
「な、なによ、あんたたち」
リカが立ち上がったときに、すでに男たちは戦闘体制に入っていた。男の一人は素早くリカを押さえつけ、一人はソラの母親を威嚇する。
「それ、その瞳が好きなんだよねぇ」
「兄貴、奥の部屋にもいますぜ。まだ子供ですがね」
「構うもんか。買い手はいくらでもあるんだ。一通り頂いてから売りさばくとしますか」
「外道め」
刹那、奥の部屋が激しい光を発した。ルナが眠っている部屋だ。あまりの眩しさにそこにいるすべてのものの動きが止まった。光は次第に一箇所に収束されていく。声を出すものは誰もなく、みながその光の収束点を見ていた。ルナの眠る部屋の入り口だ。
次第にその光は人の形をなしてきた。
「ルナ!」
最初に叫んだのはソラの母親だ。
真っ白なその姿はルナそのものだった。幼い姿のまま時を止めてしまったルナの。ただ違うところがあった。ルナの背中に、真っ白な翼があったのだ。
「おいおい、これはとんでもない上玉じゃないかい?」
「ルナ、それが私の名前?」
ルナが呟く。
「おかしいわね、名前なんてないはずだけど……それに何かしら、このみすぼらしい佇まいは?」
「ルナ?」
「もしかして間違えちゃったかしら。でも、賢者の石は確かにあるし」
ルナはお腹を擦った。その場所が彼女の中でもっとも白かった。
「ふーん、面白いこともあるものね。どれくらい眠ってたのかしら」
「ルナ、大丈夫?」
「リカ=トールとイドネ=エリコね……」
ルナの、瞳まで白い目がリカとソラの母親の顔を順番に見る。
「いいわ。あなたたちが望む新たな支配者になってあげる」
ルナは小さな体を動かすと、一瞬にしてそこにいた男たちを殺していた。目の前で確かに起こったことなのに、リカは何が起きたのか理解ができなかった。ただ、ルナの真っ白な体に男たちの赤い血がかかっている。床にも血が飛び散っている。それだけだ。
「これくらいの町なら一週間もあれば完全に支配できるわ。あなたたちはここで待っていなさい。これは命令よ」
そういうとルナは、飛ぶように家から出て行ってしまった。




