Chapter XXI 誕生
「誰だ!」
ワインハルト=ジャネの怒声が響いた。ワインハルトとその隣りでトニオ=アルゲはすでに剣を中段に構えていた。広い一室といっても対壁が見えないほどではない。それでもすぐにその姿を確認できなかったのは、対壁が陰になっているように見えたからだ。
それは違う。陰になっているのではなく、そこに陰のような存在が立っていた。
「オマエガシルケンリハナイ」
陰だと思ったのは、それが黒かったからだ。全身漆黒の鎧を身につけた男。そして、この声……ワインハルトが忘れるはずがなかった。
「そんなばかな」
「フュー」
息を切る音を発しながら、その男はゆっくりと近づいてきた。アリスは今この場にいない……そんなことを期待する自分が愚かしく、恐ろしかった。
「ダガ、ヨクココマデコラレタモノダ」
「あいにく、運だけは強いらしくてね。おかげで僕はヴァンデルト国を裏切ることになってしまった」
「フリートノカタキモコメテ」
「サマセットか、ラゼルか?」
「サマセットダ」
声と同時に陰が掻き消えた。ワインハルトとトニオは同じタイミングで前転をすると、振り返った。後姿のサマセットが立っている。
「こいつが俺をフォルンの東で襲った奴だ」
「なるほど、前の奴より一回り強いな」
「後ろ!」
突然の甲高い声に二人は再び前転をした。振り返るとサマセットの剣が横になぎ払われている。
「アリスカ」
黒い冑だけがゆっくりと横に振れると、一室のすみを睨んだ。入り口だ。そこからアリス=リスタット=ハナユメが走りよってきた。
「目先の陰に騙されないで。サマセットはそれ以上に素早いのよ」
そのままアリスは二人とサマセットとの間に割って入った。すぐにアリスは一歩前へと踏み出す。アリスの背中を右真横からサマセットの剣が突き抜けてゆく。ワインハルトは我が目を疑うが、サマセットはすでに右にもいなかった。
上から、左から、右から、時になぎ払われ、時に突き刺すように繰り出される剣を、アリスはすべて紙一重でかわし続ける。
「上よ!」
甲高い声とほぼ同じ瞬間に、アリスはワインハルトに体当たりを食らわせていた。そこには、剣が床に突き刺さりこちらを睨んでいるサマセットがいた。
「油断してないでよ。狙いはわたしだけじゃないんだから」
「油断もなにも……」
ワインハルトは震えていた。それがアリスには感じられる。すでに剣は握られていない。トニオに視線を送ると、トニオの目にも恐怖が映っている。
「あんたたち、ヴァンデルトの優秀な騎士なんでしょ。ちょっとはその優秀っぷりをみせてよ」
「こんな化け物に、どうしろってんだよ」
アリスはワインハルトを右へと突き飛ばした。剣を下から振り上げたサマセットがそこにはいる。その足でアリスはトニオのお腹を思いっきり蹴飛ばす。と、すぐに跳ね上がり、横になぎ払われた剣を避けていた。
「分かる……」
トニオはお腹を抑えながら小さく呟いた。まだ視線は宙を漂っているようだが。トニオが体を屈めると、その上をサマセットの剣がなぎ払われた。続いてトニオは前転する。
「さすが、そうでなくっちゃ」
アリスは飛び上がると空間から剣を取り出した。そして一気に振り下ろす。
ガキンっという激しい音が響く。サマセットの剣がアリスの細い剣を受けていた。続いてトニオがアリスに切りつけるかのように剣を振り下ろした。再び響く音と共に、それはサマセットの剣によって遮られた。
「フュー」
サマセットは息を漏らした。と、陰は消え、離れた場所に剣をしまってサマセットは立っていた。
「フリートデハハガタタナイワケダ」
アリスは剣を握り締めると、サマセットに向かって一直線に突進した。だが、その剣の刃をサマセットは手によって弾いた。
パリンという音と共に、アリスの剣は折れていた。
「デハマタアイマミヨウ」
声が掻き消えるようにサマセットもまた、陰に掻き消えてしまった。
「どうなってやがるんだよ」
「本当、どうなってるわけ、あんた。死にたいの?」
アリスは振り返るとワインハルトに睨みをきかせる。
「あんたがちゃんと戦っていれば絶対勝てたのに」
「けどさぁ」
「あれは確かに素早いが、行動がパターン化されていた。特定の行動しかとれていなかった。となれば、次の攻撃の方法も自然と想像がつくものだ」
「そういうことよ」
まだ震えているワインハルトを立たせると、トニオはその肩を軽くぽんと叩いた。
「まあ、切られた恐怖がなければ、あんな奴相手じゃないってことだ」
その瞬間、城の中を何者かの絶叫が響き渡った。
・
アリスが部屋を飛び出ていき、すぐにソラ=ルトも部屋から飛び出したつもりだった。だが、左右どちらを見渡してもすでにアリスの姿はなかった。そして、ダルファ博士の姿もまたみえない。ソラは唇を噛むと、思考を巡らす。
どこへ行くべきか。
答えは明確だった。ダルファ博士はヴァンデルト国を滅ぼしたという報告に来たのだ。国王の元へと行ったに違いない。
ソラは走り、すぐに国王との会話ができる部屋へと移った。燭台に照らされた丸い玉がほんのりと赤らんでいる。息切らせてソラが玉に駆け寄ると、玉は激しく明滅した。
「ソラか。急ぎ姫の元へ」
「ダルファ博士は?」
「説明は後だ。後で姫とここへ参られよ。さあ、急げ!」
切羽詰った声の調子に、ソラはすぐにまた走り出した。キャロットは今一人彼女の部屋に眠っているはずだ。いや、起きているかもしれないが、柔らかいベッドに寝転んでお腹を擦っているだろう。ここのところずっとそんな調子だ。ソラもまだ西への旅の途中ではあるが、キャロットが動けるようになるまで、今は西へ行こうと思えなかった。
バタンと音を立てるように扉を開いてキャロットの部屋に飛び込んだとき、ソラの目には信じられないような光景が映された……まるで、夢、悪夢を見ているような、だが、現実だと頭は理解していて、それでも、信じることができない、恐ろしい、禍々しい、ありえない……光景だった。
扉から離れた位置にキャロットはベッドに寝転んでいた。キャロットにかかっていたシーツは床に乱れ落ちている。そして、キャロット自身はベッドの上で、体をエビのようにそらして横たわっている。その目が見開かれているのは、ソラの距離からでも分かった。
「キャロット!」
「黙っておれ」
叫び近づこうとしたソラは、まるで空間に拒絶されるかのように、透明な膜によって弾かれた。キャロットの足側の脇にはダルファ博士が片手をこちらに向けて立っていた。
「これからが至高なる瞬間なのだぞ」
「やめろっ!」
「愚昧なる子羊よ。ならば己の無力を嘆くがよい」
それだけを言うと、ダルファ博士の開かれた手はキャロットへと向けられた。
びくんっと体を奮わせると、キャロットは体をさらに仰け反らせた。八ヶ月の膨らんだお腹が着ている薄いワンピースを通してみても痛々しいほどだ。ソラは唇を噛み、何とか近づこうとするのだが、やはりそれ以上先へ進むことができない。
「双なる子を孕んだ姫の、賢者なる石はどちらに宿ることかな」
ダルファ博士の手は、キャロットの強調されたお腹に触れた、否、その手は留まることなく、キャロットの内部へと押し込まれていく。
「その賢者の石のせいで、オレの妹は……」
「賢者の石のせい? 違うな。愚昧なるウルのせいよ。賢者の石が何たるかも知ることなく、それを扱おうとした者のな」
さらにキャロットの体は仰け反ってゆく。
「さあ、次代なる姫の誕生の瞬間よ。この時に立ち会えたことを幸運に思うがよい」
ダルファ博士の手がキャロットから引き抜かれた。その直後、キャロットの反った体はいよいよ限界を迎えた。ワンピースはついに破れお腹が露になる。そして、まさにその子が宿っている位置が、さらに膨れ上がってくる。
刹那、キャロットが絶叫した。
キャロットのお腹が割れ、血が溢れるように出てくる。そこに真っ赤な血を被った塊が二つ浮かび上がった。
「ふふふ、男の子と女の子か。もう名前は決めてあるのかな?」
キャロットの口からも血が流れている。そしてソラの唇からも血が出ていた。己の無力さを痛感して。
くそったれとソラがダルファ博士を睨もうとしたとき、その塊の一方が激しく光り出した。そしてその光によって塊の姿がはっきりと確認できる。当然まだ眠っている胎児の姿だ。
「何事だ?」
驚きの声をあげたのはダルファ博士だった。
「この瞬間を待っていたわ、ずっと。今度は本物よね」
キャロットではない女の声が室内に響いた。いや、女というよりも少女のものだ。そのキャロットとは対照的な高い声をソラは聞き覚えがあった。ソラは声の主を探す。
と、その光り輝く胎児を抱くかのように、人の影が現れた。その姿を見間違えるはずがない。八年前ソラから奪われたものすべて……七年前その時を止めてしまった、深い眠りに落ちた少女……ルナ=ルトのものだ。
「ル……ナ?」
だが、明らかに違う点があった。
ルナの背中に真っ白な翼があるのだ。
「この子は頂いていくわ。これこそ居心地のよさそうな器ですもの」
「何者だ、おのれは。邪魔立てはさせぬぞ」
「あなたには無理よ。だってわたしは存在しないんだもの」
「ルナ!」
ソラの叫び声にルナが振り返る。その瞳は翼と同じで真っ白だった。
「ソラ……お兄ちゃん。まだこんなところにいたのね。早くアディーヌに向かうといいわ」
「ルナ?」
翼を折りたたむようにしてその身を隠すと、ルナは胎児と共にその姿を消してしまった。まるで空気に溶けてしまったかのように、初めから何も存在しなかったかのように。
ダルファ博士がかくんと、倒れるように膝をついた。ソラはさっきまであった透明な膜がすでにないことに気がついた。
ベッドに走りよる。
「どうしたの!」
部屋の入り口にアリス、ワインハルト、トニオの姿があった。先ほどのキャロットの叫び声をきいたのだろう。ソラは振り返ることなくキャロットの側に膝立ちをした。
キャロットの意識はある。その両手にもう一つの、血に覆われた胎児を抱いて。
「アナタスで待つ」
誰も振り向かなかったが、ダルファ博士はそれだけを残して姿を消した。
赤子の、壊れてしまいそうなほど小さな産声が、ソラの耳にも聞こえた。




