Chapter XVI ガベドから西へ
夢を見ている。
「後ろを振り向くな!」
と、あたしの手を握る男は言う。だからあたしは振り向かない。振り向かないでただ走る。煙の臭いが後ろからする。
嫌いだ、嫌いだ。
反対の手にあたしはウサギの人形を持っていた。
(そういえば、あの人形、どこにやったんだろう)
夢の中で(夢の中だから?)あたしは冷静に考えていた。
やがて崖にたどり着いた。
ここからあたしは突き落とされるのだ。
どんっとあたしは背中を押された。
落ちていく中、あたしは男の顔を見ようとした。
けれど炎の光が逆光となって、男の顔はただ黒かった。
落ちていく。
長い時間の後、あたしは海に落ちた。
そこであたしは気を失った。
(それからどうなったんだろう)
(どうしてあたしは生きているんだろう)
(誰が助けてくれたの?)
夢の中であたしの意識はゆっくりと薄れていった。
薄れる意識の中で、あたしは温かいものを近くに感じていた。
キャロットはゆっくりと目を覚ました。しばらくぼーっとしていたが、はたと気がついたように顔をあげた。
ソラにもたれかかったまま眠ってしまったようだ。隣りを見ると、ソラは背面の壁にもたれて眠っている。横を見ればベッドがあるのに、おかしなことだ。
キャロットは立ち上がると、崩れた毛布をソラにかけなおした。
窓の外はまだ暗かった。
窓から見える月が懐かしかった。少しだけ欠けた月が夜空に浮かんでいる。
「キャロット、起きてたの?」
振り返ると、ソラが目をこすりながら立ち上がっていた。
「ソラ、あたしね、メメルにいたときもこうやって月を眺めてたの」
「あそこは光がありすぎるから、夜空がだいぶ薄らんでいた」
「そんなことないよ。あたしは端にいたから。ほんとはね、あたし……」
「オレ、最初はキャロットのこと邪魔なお荷物だって考えてた。だって、本当人形みたいだったんだぜ」
「ソラは強いよね。あたし、ソラがいなかったらきっととっくに諦めてたと思う」
「オレにはどうしてもやりたいことがあるから、ね」
「うん」
「オレの妹、ルナっていうんだけど、ルナのために、どうしても」
「ルナ?」
「ああ。そういえば、ルナって月っていう意味があるらしいよ」
「ルナ……ルナ……」
キャロットがその名を繰り返していたとき、突然部屋の扉が開いた。
「おっ、まだ起きてるんじゃないか」
「ただいまぁ」
「ワインハルト、アリス!」
振り返るとそこにはワインハルトとアリスがいた。その後ろにはソラとキャロットを連れてきた兵士がいる。彼は二人を部屋に押し込めると、再び扉を閉めた。
「なんだってんだよ。これでもヴァンデルトの鎧を着込んでるってのに、にべもなく連れてこられた。トニオたちが来るまで監禁だとよ」
「無事だったんだな」
「当たり前よ、私がいるんだから」
キャロットも振り返っていたが、頭の中は別のことに支配されていた。ルナ……今まで思い出しもしなかったが、絶対に知っている名前だ。あの塔でルナに会った……それで?
「まあ、あいつらなら明日にでもここに到着するだろうが、やはりまずいよな」
「オレは追いつかれたくない」
「第一騎士団が大打撃を受けているのは確か。僕が考える限り、しばらくこの砦で戦力を回復させるだろうよ」
「私はなんとかトニオを仲間に加えたいけど」
「ああ、なんだかこいつ、トニオに惚れちまったみたいだぜ」
「違うわよ!」
「待つか、脱出するか」
「キャロット?」
ソラは、キャロットがボーっとしているのに気がついた。名を呼ばれ、気がついたようにキャロットは顔をあげた。
「なに?」
「そろそろ、キャロットのことを考えないといけないな」
「……待とう」
ワインハルトの決断に反対するものはいなかった。
翌日、お昼過ぎ頃に扉が開けられて四人は部屋を出るよう言われた。兵士の言うとおりに部屋を出て、別の大きな部屋へと移動すると、そこにはトニオが待っていた。
「外で待て」
人払いをすると、トニオは四人に椅子を勧めた。大きなテーブルを挟んでトニオは一際立派な椅子に腰掛けている。
「昼はもうすんだか?」
「ああ。律儀にもちゃんと僕たちにも飯を運んでくれたよ」
「まさかガベドにまだいるとは、驚いたよ」
「一人身重な女性がいるものでね、あまり無理はできないんだ」
トニオはキャロットに一瞥を与えたあと、その視線をソラに向けた。
「君がソラ君か。噂はかねがね聞いていたがね」
ソラの心臓が跳ね上がる。
「君なら立派な学者になれただろうに、惜しまれるよ」
「オレはヴァンデルトの学者になるつもりなんてない。学者ならどこでもなれる」
「はっはっは。嫌われたものだな。だが、ヴァンデルトほど進んだ研究機関を兼ね備えている国はないだろう。あれほどの蔵書を誇る図書館もね」
トニオの視線は続いてアリスへと移った。
「先日は世話になった。あらためて礼を言おう」
「こちらこそ、ありがとう」
「さて、何か理由があるのだろう。ここで俺を待っていたのには」
「もちろん。まず、キャロットに服を買ってきて欲しいのよ。そろそろお腹のところがきつくなってきてるみたいだから」
「あたしの?」
「いいだろう。だがこの都市にはそれほどしゃれたものはないだろうがね」
「それからワインハルトの剣も仕入れたいのよね。この人、剣がなかったら何もできないんだから」
「何!」
「だってそうでしょ?」
「それも用意しよう」
「ありがとう」
続いてトニオはワインハルトを見た。
「さて、俺の任務は二つある。一つはティシン国へと遠征すること。そしてもう一つはワインハルトを捕らえることだ」
「遠征するには兵力不足だな」
「その通りだ。ここで兵力を養わなければならない。ちなみに宰相カサは本気でティシン国に戦争をしかける気はないようだ」
「つまり、僕を捕らえることが最優先だと?」
「ただし、任務を終えたワインハルトでなければ意味がない」
「……いつか、フォルンで会ったときに僕は言ったよね。任務の片方はもう片付いたようなものだ。西の塔に囚われていたビアンカ姫の居場所は分かっている」
ワインハルトの言葉にキャロットとアリスの表情が凍りつく。
「そうだ。どうなった?」
「姫はすでに故郷にたどりついたようだ。イルカ国……歴史上すでに存在しない国だ」
トニオは肘をつき、その手を額へ持っていった。
「だから僕はこれからイルカ国へ向かうことにする。彼らと一緒に」
と、同時にトニオは声を出して笑い出した。
「俺が知らないと思ったのか?」
アリスの手が熱くなる。いつでも剣を取り出せる状態になっている。
「だが、面白い。その茶番に俺も混ぜてくれるんだろ?」
「もちろんだ」
ワインハルトもトニオと同じような笑い声を上げて立ち上がった。
「お前が逃げ出すといけないからな。俺が監視役としてお前についていくことにしよう」
トニオも立ち上がるとその手を前に伸ばした。そしてワインハルトと握手をする。安堵のため息が三人から同時にもれた。
「もう、どうなることかと思ったよ」
言いながらアリスが立ち上がった。
「はっはっは。最初から俺はこうするつもりだった。そうでなければ服や剣などそろえてやるものか」
つられるようにしてキャロットとソラも立ち上がる。
「カサだって分かっている。敵はティシンじゃない。黒騎士だ。そのためにはアリス、君と手を組んだほうがいい」
「ありがとう」
「それにヴァンデルト国の人間として正式にイルカ国に謝罪しなければならないことがある」
トニオの目はキャロットを見ていた。
「姫に直接ね」
キャロットは俯いた。それを見るとトニオは肩を竦めてから口元に笑みを浮かべた。
「よし。俺たちは仲間だ」
よく朝早く、五人はガベドを後にした。ワインハルトは大剣を与えられ、それを背負っている。大柄なワインハルトの身の丈をさらに上回るほどの剣だ。トニオが扱っている剣と比べても遜色がないものだ。キャロットはワンピースを着ていた。以前のものに比べるとサイズが大きい。妊娠用の服が見つけられなかったため、トニオが買ってきたものだ。知らない者が見れば、キャロットが妊娠しているとは思わないだろう。もともと細身なキャロットはお腹が大きくなっているとはいえ、目立たない。ときどき幸せそうにお腹を擦っているくらいだ。
ガベドから西への道はあまり整備がされていない。だがエンダス山系へと消えていく道はある。その道をずっと行けば、ティシン国までたどり着けるはずだが、それを利用しているものはいない。今は南の海洋ルートが一般的な国交手段となっているからだ。
五人はその、もはや遣われなくなった道を西へと進んでいった。




