Chapter VI 出会い
夢の中で、昔のことを見ていた。逃げて、逃げて、そして崖から突き落とされる。男だ。知っている人なのだろうか。
周りから締め付けられるような圧迫感があった。
覚めていく意識とともに、自分が寝袋の中にいることも思い出した。まぶたを通して太陽の光を感じることができる。もう太陽が登っているのだろう。こんなにも太陽の光を感じながら目覚めるなんて、何年ぶりのことなだろう。
うっすらと目を開けて首を回して辺りをうかがってみた。人影は見えない。そこでキャロットは体を動かして寝袋から這い出した。
「おはよう」
背後から声が聞こえた。振り返り相手を見る。
「おはよう、ソラ」
小さな岩に座り、青年が両足を組んでいた。短い髪がソラを若く見せている。
「ちょっとは顔色よくなったな」
「ありがとうございます」
ひょいとソラは岩から飛び降りた。そしてすたすたとキャロットの側に歩み寄った。
「どれくらい眠ってましたか?」
「丸一日近く。驚くほどに」
「すいません」
キャロットは頭を掻いた。
「いいよ。そんだけ疲れてたってことだろうし。お腹は?」
「大丈夫です」
「簡単なトーストならあるから食べてくれ」
ソラはまるで相手の反応を無視するかのように、キャロットの前に皿に載ったトーストを差し出した。
「ありがとうございます」
キャロットは素直に感謝の言葉を表すと、トーストを口へと運んだ。ただ焼いてあるだけだが、それでも美味しく感じる。ずっと昔を思い出すかのようだ。
「そういえば、あの人は?」
「それこそ大丈夫。すごい体力だ。よほど鍛えてたんだろうな」
キャロットは辺りを見渡す。だが、見当たらない。
「すぐ戻ってくるよ。心配ない。行く当てがないから。ちょっと回りの様子を見てもらってきてるだけ」
それからソラは、キャロットが求めていないのに説明を始めた。男の名前はワインハルト=ジャネ。何かの用事であの小屋まで来たらしい。用事の内容は覚えていない。おそらく切られたショックで忘れてしまったのだろう。切った相手も分からない。強い相手だということだけは分かる。ワインハルト自身も腕が立つからだ。かつてはヴァンデルト国の兵士長の一人であったのだが、解雇された。その理由も思い出せない。
まとめるとそのようなことだ。
「ようするに半分記憶を失ってるってこと。一時的なものだろうけどね」
ソラがまとめた。その頃にはキャロットの前の皿にトーストは残っていなかった。思った以上にお腹がすいていたようだ。
「ソラは休んだ?」
「充分休んだ」
実際ソラはしっかり休んでいた。キャロットが寝袋で眠ってすぐ、彼も寝てしまったからだ。朝の光で目が覚めても、キャロットはまだ眠っていた。その代わりにワインハルトが起きていた。不思議そうにこちらを見ていたので、とりあえず自己紹介と状況の説明だけをする。ワインハルトは頭を抑え、思い出せないと言った。
「少し周りを見てくる」
キャロットが起きるまで身動きができないと思っていた矢先、ワインハルトはそう言ってその場を離れた。
それだけだ。
「ソラってどこの人なの?」
キャロットは口を拭うとソラをまっすぐ見た。唐突な質問だが、それはソラもしたい質問だ。
「オレは、まあメメルの人間だった。あそこで生まれたし、生きてきた」
「何で過去形なの?」
キャロットが首を傾げる。本当に人形の首が重力でかくっと落ちたかのようだ。
「出てきたから。いずれは帰るだろうけど。あそこ、二十歳になったら兵役があるし。それが嫌てわけでもないんだけど、他にやりたいことがあるから」
唇をすぼめるようにして、ふーんとキャロットが呟いた。
「お前は? お前はどうしてあんなところに倒れてたんだ?」
「あたしは旅行中。ぷぷと一緒に旅してるの」
「どこへ?」
「さあ。とにかく、今は」
ふっと陰りがキャロットの顔を覆う。
「あたしも、メメルから出てきたの。生まれは違うけど。今はもう、ない。でもいつまでもメメルにはいられない」
「一人で?」
「ぷぷがいるから」
「あては?」
キャロットは首を振った。立場的にはソラと似たところがある。そうでなければ、わざわざ道を外れて歩く必要もないだろう。それからソラはフォルンを考える。あと十日も歩けばフォルンに着けるだろう。遠くはない。
「なら途中まで一緒に行こう」
キャロットは顔をあげた。太陽の光に照らされて、陰りが一瞬消える。それから顔に熱をもったのか、赤くなるとぷるぷると顔を振った。
「でも、迷惑かけられない」
「オレも一人だし。それにワインハルトをフォルンまで案内しておきたい」
ちょうどその時ワインハルトが戻ってきた。
「お帰り」
ソラはキャロットの返事を待たずにワインハルトに声をかける。
「道からだいぶ逸れている。近くを見てきたけれど、何もなかった」
「大丈夫。フォルンまでなら、頭に入ってるから」
「悪いな」
「あの、大丈夫ですか?」
「ああ、幸せそうなお人形さんもお目覚めか」
紫色の髪をかき上げるようにしてワインハルトはキャロットを見た。その表現が可笑しかったのか、ソラが声を出して笑った。キャロットは頬を膨らませる。
「もう大丈夫。あれくらいで倒れるほど軟弱じゃないんでね、僕は」
「ただ、フォルンまで十日くらいかかると思う」
「そうか。贅沢は言えないが、急いだほうがいいな。また黒い騎士に襲われたら、今度は自信がない」
顎に手を持ってゆきワインハルトが考える。
「フォルンに何かあるの?」
「小さな村だ。何もない。確か僕はそこへ行く途中だった。行けば思い出せるかもしれない」
「出発は明日の朝にしよう。日が暮れるまでそう時間もないし」
「分かった」
太陽が落ちると、光はほとんどなくなった。今は月の姿も見えない。魚をメインにした夜食を終えると、三人は近くに座った。するとワインハルトが声に出して、詩を歌った。
「西へ、太陽が沈む地へ。春に夏の息吹を感じるように、夏に秋の涼しさを感じるように、秋に冬の心地よさを感じるように、冬に春の暖かさを感じるように。夜に、太陽が沈むときに、希望が溢れる。西へ、希望が眠る地へ」
メメルで有名な子守唄だ。ソラは何も言わなかった。
「この詩に何か意味があるはずなんだ」
ワインハルトが呟く。
「何かは分からない」
俯いてワインハルトはソラの顔をのぞく。意味があることをソラは知っている。西にはアディーヌと呼ばれる伝説の地が広がっていると言う。希望が確かにあるのだ。黙っていたソラに代わって、キャロットの小さな声が聞こえた。
「今のメロディー、あたし、知ってる。あたしも小さな頃に聞いた」
それは鳴いている小鳥のような声だった。
「ト ルルエル」
聞きなれない言葉でキャロットが同じメロディーで歌い始める。
「バ ラエッサンド ラマハル エマ アルエル
ウルカ ア サフォル メーテ ラ エブレ クル セルマ
ウルカ ア セルマ メーテ エエムメ クル ファーレ
ウルカ ア ファーレ メーテ クイルラメ クル カッカーダ
ウルカ ア カッカーダ メーテ ホイルトメ クル サフォル
ア ニヒト
ア イ ラマハル エマ アルエル
ラウール フォルン
ト ルルエル
バ ラエッサンド ラウール エマ フォルン」
聞いたことがない言葉だったが、自分たちの言葉よりもはるかに心地がよかった。意味も理解できる。いや、同じ意味だから理解できるのだろう。
「今のは?」
キャロットは答えない。僅かに顔を横に振っている。ソラはメメルの図書館でこの詩を見つけたときを思い出していた。古い書物で、字は半分掠れていた。いくつもの見たことのない文字の羅列のあとに、ソラの知っているこの詩があった。もしかしたらキャロットが歌ったのは、そちらの知らない言葉の方なのかも知れない。
「間違ってるかもしれない。子供の頃聞いた歌だし。あたしのママが歌ってくれたの。夜、あたしが眠れないってぐずると」
あの日も、あの直前まで聞いていた気がする。キャロットは俯く。
夜は次第に更けてゆく。




