第二十章 10年前
ショコラ=ロリータが実年齢7歳になる前年、彼女の生まれ育った村グナはひどい凶作の年だった。いや、グナだけでなく地域全体が凶作であった。それゆえ、翌年の六月、何とかその年の豊作を願おうと大人たちは大規模な祭りを計画した。
グナはターシャで西の森と呼ばれる森から見て南東の内陸部に位置した小さな村だ。人口も数百人しかいない。大きな一つの共同体のようなもので、村中でお互いに知らない人などいないほどの小さな村だ。
ショコラは幼いながら凶作の恐怖を身をもって感じていた。
日に日に痩せて行く母の姿を見ていたからだ。
母はカフォレという。ショコラが7歳のときまだ25歳という若さだった。しかしショコラに父はいない。カフォレは誰が父親なのかショコラに教えなかった。幼心に聞いた話では、村の人ではないらしい。
14のときに身ごもったカフォレを、村長を含め村人は皆非難した。無理やり流産させようという話があったとも聞く。
そんな中ショコラが生まれた。
ショコラを愛してくれる人は少なかった。
「ママぁ」
それゆえ、ショコラはカフォレにのみ甘える子になった。
小さな村で周りに厭われながら、女手一つで小さな子供を育てるのは簡単なことではなかった。それでも、その年まではなんとかやってこれた。
しかし凶作である。
カフォレは自分の食べ物をもショコラに与えていた。
一年の凶作でカフォレはかつての美しさを完全に失い、あらゆる疲れが顔に表れていた。
そんな折に、6月の祭りの話が彼女の家にもまわってきた。
「はい、分かりました、はい、はい」
カフォレが何度も戸口でそのように返事をしていたのを、ショコラは部屋の隅から聞いていた。祭りに参加できると言うことで、村のみんなと遊べるものだとショコラは考えていた。
「祭りの日はうんとおしゃれしなきゃね」
その日の夜ショコラにそう言ったカフォレは、何だかとても哀しそうに見えた。
祭りの当日、ショコラがカフォレと一緒にしておめかしをしていると戸口が叩かれた。カフォレが戸口に向かうとショコラは、くるくると回って自分の姿を見ていた。真っ白な服に、腰のあたりを赤い帯で縛っている。帯は背中側で結ばれその端が回るたびにひらひらと待っていた。
「ショコラ、いらっしゃい」
「はーい」
カフォレの呼びかけに、ショコラも戸口に向かった。
「可愛いねえ」
戸口に待っていた大人たちに一様にそう言われた。
戸口には倉の付いた屋形車が待っていた。そこにショコラとカフォレは案内されて、2人は屋形の中に入った。入り口が閉められて、ゆっくりと屋形車が動き出す。
「すごいね、ママ」
興奮したショコラはカフォレの腕を引っ張っていった。カフォレはきちんと足を折って正座していた。揺られていることだけが、屋形車の動きを感じさせる。窓もなく、光は屋形を作っている木々の間から微かに漏れているだけだ。
「ちょっとこちらへいらっしゃい」
カフォレはそう言うと、ショコラを膝の上に乗せた。それからぎゅっと抱きしめる。ショコラは単純に嬉しかった。
屋形車の動きが止まった。
周りからは火が燃える音と、人びとの声だけが高く響いている。
「ママ、早く外に行こ!」
「ショコラ、外から開けてくれるまで待っていなきゃダメなのよ」
髪を撫でながらカフォレが囁く。ショコラは素直にうなずくと、ちょこんと膝の上に座り胸をどきどきさせていた。
屋形車の外からは、村長の演説と踊っているのであろう足の音と燃え盛る火の音と。祭りは滞りなく行われているようだった。
次第に屋形車の周りに人が集まっているような気配があった。
「ここに、今年の豊作を願って最後の式を執り行いたいと思う」
聞き覚えのある村長の声は厳格であった。それから屋形車が再び持ち上げられ揺れ始めた。ゆっくりと、ゆっくりと動いているようだった。
火の光が遠のいて行く。
屋形の中に入る光がどんどんと減って行く。
残るのは深い暗闇。
「ママぁ」
不安そうな声を出したショコラを、カフォレは力強く抱きしめた。
そのときショコラは漠然とながら理解していた。
それは絶望の暗さ。
嗚咽を繰り返し、今日食べたものを全部吐き出してもまだ足りないほどの吐き気。
思い出したくない、絶望の色。
どれほどのときが流れただろうか、村からはかなり離れただろう所で屋形車が下ろされた。それからほどなく屋形の戸が開かれる。
「ショコラ、出ておいで」
それは村長の声だった。月明かりはほとんどなく戸が開いても村長の顔は暗くて見えなかった。
「さ、お行き」
カフォレがショコラの背中をそっと押す。ショコラは一言も発することなく屋形車からぴょんと降りた。
「よし、いい子だ」
ショコラと同じ高さに視線を合わせて村長がショコラの髪を撫でた。
「ここは村からうんと北に来たところだ。ショコラの足じゃ普通に歩いても村には戻れない。これからわしはお前の母さんと大事な話をしなければならない。だからちょっとの間ここで待っていてくれ。一人が怖いなら、誰か共をつけさせる」
そう言うと、村長は屋形車を運んでいた男たちを見回した。
「いい」
村長が誰かを指名するよりも早くショコラは答えた。
「物分りのいい子だ」
そのまま村長は立ち上がると、再び屋形車の戸を閉めた。それから再び男たちが立ち上がり、ショコラをその場に残して歩いていってしまった。
そこは今までショコラが見たことのないところだった。もちろんグナの村から出たことのないショコラにしてみれば当然のことだったのだが。
草原と山の境のようで、ショコラは草原側に一人残された。山へは獣道が続いており、光の少ない遠くにまだなんとか屋形車の屋形だけが見えている。
「いい」
とは言ったものの、屋形が見えなくなると完全に独りぼっちになった。空を見ても星が微かに光っているだけで月が見えない。
遠くでは獣の遠吠えも聞こえている。
川が近くにあるのか、水が流れる音も聞こえている。
「んっ」
ショコラは鼻を鳴らした。それでも我慢できなかった。自然と目には涙が溜まり、溢れてくる。
泣きながら、目をこすりながらショコラの足は動いていた。
「ママぁ」
そう何度も何度も呟きながら。
山へ進んだのか、それとも村へ戻ろうと歩いたのか。あるいは全くの違う道へと進んでいたのか、ショコラは覚えていない。
ただ気が付いたら太陽が昇っていた。
おそらく7歳の少女の足で一夜歩いたとして、どこかの村にたどり着くことは不可能だっただろう。
そこに駐屯の部隊があったのは偶然だった。
「子供がいるぞ」
誰かが叫んだ。それから何かあわただしくて、青色をした一際立派な鎧をまとった男がどうしたものかと顔をうねらせた挙句、ようやくショコラに声を出した。
「どうしたんだ、こんなところで」
ショコラが泣いていたのが分かったのか、それともひどく痩せていたのに気が付いたのか、男はそれから無言でショコラの手を引くとキャンプの中へと連れて行った。
なお男は無言のまま、握り飯をショコラに渡した。
何の味もない、真っ白なお米だった。
昨日吐いたせいで胃が痛かった。
でも美味しいと感じた。
「ありがとう」
「なんでぇ、しゃべれるんじゃないか」
男は豪快に笑うと、すくっと立ち上がった。
「それにしつけもしっかりしている。こんなところで何をしてたんだ?」
ショコラは俯くと再び涙が溢れてきた。
「わ、悪かった、泣くなよ。いや、何も悪かぁないんだがな。したって、ほら、気になるじゃないか。近くに何もないし。家出か?」
取り繕うように男は捲し上げた。その様子が面白かったのか、ショコラは笑顔をこぼした。
「ありがと、おじさん」
「待った。まだお兄さんにしておいてくれ。ても、君からしたらおんなじようなもんか。俺はルエンス=ファルトてんだ。これでもな、青色の騎士団の官長やってるんだぜ。嬢ちゃんの名前は?」
「チョコラ」
「チョコちゃんね。美味しそうな名前だ」
「チョじゃない。チョ!」
ショコラはショと言ったつもりだったが、残念ながら彼女はショとまだ発音が出来なかった。それでも、それで完全にショコラの緊張は解けていた。それは不安と絶望とが光の中で次第に薄れたからかもしれない。
それでも夜になるとショコラは泣いていた。その駐屯の部隊に女性がいなかったせいか、ルエンスがショコラの面倒を見て、寝かしつけてくれていた。きっとルエンスはそうすることで、ショコラのことを知ろうとしたのだろう。
1週間くらいが経った頃になってようやく、ショコラは自分がグナの村から来たことや祭りのこと、カフォレと別れたことなどを全部話し終えた。それから移動するキャンプにも順応していた。
次の移動先は見覚えがある場所だった。
ショコラがカフォレと別れた場所だった。
「今からうちの若い衆がこの山の中をお前の母ちゃんを探しに行く。といってもそう大きくはない。明日には屋形車を見つけてやる」
その夜、ショコラはルエンスの胸の中で寝ていた。
キャンプの外が慌しく騒いでいる。
それでもショコラは安らぎを覚えいてた。
朝起きると、キャンプは移動していた。
「寝坊め」
ルエンスはそれだけしか言わなかった。
ショコラも何も聞かなかった。
その年、ターシャ国とラド国は戦争を開始した。




