表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

猫と冷やし中華、ついでに笹川氏

 思いのほか軽い音と共に、教室魚は衝撃をもろに喰らって、そのまま塔に突っこんだ。

 窓の外で、古い木材の軋む悲鳴のような音やら、思っていたよりも大きかったネオン管の砕ける音やら、とにかく様々の音が一斉に弾けたが、僕らは耳を塞ぐことも出来なかった。

 やがて、教室全体がため息を吐くように止まると、がたりと壁掛けの掲示板が落ちて、佐伯の潜りこんでいた机に当たった。

「さて、どうするよ」

 教卓の下から這いだし、服を払いながら、吾妻は僕を見た。

「どうするもこうするも、こうなったらお手上げだよ」

 窓の外には、ぎっしりと木材が詰まっている。最早、桃色の金魚を探すことも出来ない。

「夢の旅もここで終わりか」

 阿佐ヶ谷先輩は空になった土鍋を持ち上げ、しばらく顔の前で振ってから、興味をなくしたように、それをやわらかい壁の方に放った。

「意外とあっけない終わりだったな」

「ううむ、安心したら腹が減ってきた。何か麺類が食べたいぞ。鍋のシメに食べるような奴が」

「厄介な腹をしている奴だ……しかし、鍋を喰ってる途中で、猫どもに邪魔されたからな」

 お腹を擦りながら二人がそう言うと、別の場所からきゅるきゅると音がして、それから一拍遅れて、大きな咳ばらいが聞こえた。

「だって良い匂いがするんですもの」

「要さん。お腹が鳴るのは生理現象だから、下手に言い訳する方が恥ずかしいですぜ」

 掲示板を蹴飛ばし、ここぞとばかりににやにやしながら佐伯は立ち上がったが、ふと顔をしかめて辺りの匂いを嗅ぐと、

「本当だ、なんだか出汁っぽい匂いが」

「妙に甘ったるい感じだが」

「それに変に安っぽいぜ」

 そうやって全員で鼻を鳴らしているうちに、何処から入り込んだのか、猫が教室のドアの前で、扉をかりかりとひっかいているのに気が付いた。

「アッ、こいつ、俺たちの部屋を墜落させたヤロウだ」

「笹川のだろ」

「ドアを開けてほしいのかしら」

 散逸する椅子をひょいと飛び越え、桃内さんがドアを開けると、猫はするりと彼女の足の間を抜けて、そのまま真っ暗なドアの外に消えていった。

 暗闇からは、ぷんと甘い香りが漂っている。

 もう一度、「どうする?」と吾妻が訊いた。


 ●


「さあさあ御立合い。遠からぬ者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。桃源郷たるこの塔に、冷やし中華は数あれど、一口食べればヒゲが張り、二口食べればしっぽも撓る。三口食べれば瞳は輝き、そこから先はお楽しみ。霊験あらたか海内無双、天下一品名声赫々。冷やし中華の満月堂、まだ食わん猫はお早めに」

 と、そこでぐるりと半身を捻り、

「はい三番テーブル様、満月中華二つ。はい十二番テーブル様、三日月一つに上弦三つ」

 オウ、と威勢の良い声が厨房から挙がり、金色の光が花火のように煌めく。暗闇を抜けた先、「冷やし中華専門店 猫屋満月堂」は、すぐ近くに教室が突っ込んだにもかかわらず、引きも切らずの大盛況である。

 店の壁にあいた大穴から、ぼーっと店内を眺め、僕らはしばらく呆気にとられていたが、やがて我慢が出来なくなったようで、まず阿佐ヶ谷先輩と友人たちが、どかりと席に座り込むと、続いて佐伯がお品書きを手に取り、桃内さんの手を引いて「とりあえず満月二つ」と、常連のような馴れ馴れしさで厨房に叫ぶ。

「佐伯、お前金あんの?」

「当然無い」

 傲然とそう言い返すと、にやりと笑って、

「良いじゃあないか。どうせ夢だ。それに、いざとなったら」

 慣れた手つきで、割り箸を割る。

「カツオブシでも渡してやればいいのさ。なんてったって、客も店員も、皆猫なんだから」

 ニナーオ、と声が挙がって、新たな猫が入り口から入ってくるのを横目で見ると、吾妻は観念して近くの席に座った。厨房が煌めく度に、ふわりと甘い出汁の香りが、春風のように吹き付けてきて、そういえばお腹が減ったなあ、と吾妻の隣に座って中毛仕様としたが、彼の向かいには、既に要さんがいて、二人でお品書きを眺めている。流石にその間に割って入るのは憚られるので、僕はくるりと踵を返すと、阿佐ヶ谷先輩たちの席に向かった。

 先輩は既に注文を済ませていたようで、僕が近くの椅子に腰かけると、ひょいとお品書きをこちらに渡し、

「さっきの宣伝通り、マジで冷やし中華しか出して無いみたいだぜ、この店」

「よくこんなニッチな商売が成り立つよなあ。冬場とかどうしてんだろ」

「温め中華とかだしてんのかも」

「なんてまずそうな響きだ」

 話しているうちに、一際出汁の匂いが強くなって、顔を上げると、給仕さんが冷やし中華を持ってくるところだった。

「お待たせしました。こちら満月中華が二つに」

 そう言いながら、一つ目の冷やし中華を机に置いたところで、彼の動きがぴたりと止まった。どういう訳か、先輩の方も、目を丸くして彼の方を見つめている。

 ややあって、恐る恐るロ言った様子で、阿佐ヶ谷先輩の方から口を開いた。

「何やってんだ、笹川」

 笹川氏はそれに答えず、残っていた法の満月中華をぞんざいに置くと、僕を見つめながら、出し抜けに、

「ひょっとして、君が蔦森君かい?」

「はあ」

 応えるや否や、彼は素早く僕の手を取ると、空いている方の手で阿佐ヶ谷先輩の満月中華を奪い取った。

「アッ、何しやがる」

「ゴメン阿佐ヶ谷、皿なら後で返すから!」

「いるか、そんなもん」という罵声を背に、笹川氏は僕を引っ張って厨房に押し入る。何事かと振り返る料理猫たちの前には、キャベツサイズの月が浮かんでいて、その外殻からは、金色の糸のようなものが、何本も垂れ下がっている。

「あれが、この店が繁盛している秘訣さ」

 調理台を飛び越え、月を退けながら、何故か笑いつつ笹川氏は説明する。

「ああやって小さな月を、小さくひも状にしたのが、この店の冷やし中華に乗せる錦糸卵になるんだ」

「あなたは、僕にこれを見せるためにここへ引っ張ってきたんですか?」

「まさか」

 片手に持った冷やし中華を落とさない様、奇妙な動きをしながら、笹川氏は裏口の戸に手をかけた。

「岡本さんに頼まれたんだ。君が来たら、私の所まで連れてきてほしいって」


 ●


 幅の広い木製の階段を、音を立てて登ってゆく。店を出ても尚、しつこく追いすがってきた出汁の匂いも、今は黴臭い階段の臭いに取って代わられ、前を走る笹川氏の手にある満月中華から、時折淋しく漂ってくるだけだ。

「一体いつまで登ればいいんですか?」

「さあ、僕にもちょっと分からない」

 二人とも、随分前から息を切らして、それでも何かに突き動かされるように、先の暗い階段を上ってゆく。数段進むごとに、壁に埋め込まれた猫の形の瓦斯等に、ぽうっと灯が点るのがありがたかった。

「それにしても、岡本先輩はなんで僕を呼んだんだろう」

「さあてね、それこそ本人に聞いてみるしかない」

 うわっ、と小さな声を上げて、笹川氏は壁にぴたりと背を寄せると、そのままかに歩きで階段を上り始める。何事かと目を凝らして見れば、階段と同じようにカクカクと曲がりくねった形のドアが、ぽかりと口を開けていた。

「とにかく、こんな非常識な塔にも、てっぺんはあるんだ。二人はそこにいる」

「二人?」

「君と岡本さんの探している、月を削った犯人さ」

 ドアの横を抜け、体勢を戻した途端、右手の満月中華を取り落しかけ、慌ててバランスを取る笹川氏を見ながら、不意に僕は口を開いた。

「笹川さんは、一体何処まで知ってるんです?」

「一応、大体のところは知ってるつもりだぜ。なんてったって、僕は犯人と同居してるんだから」

「よくそんな恐ろしい人と一緒に居られますね」

「僕だって好きで一緒に暮らしてるわけじゃあない。ただ居座られただけだ」

 再び調子よく階段を上がりながら、彼はため息交じりにそういった。

 しばらくは二人とも、足を動かすことだけに集中していたが、やがて上に進むにつれて、木の軋む音が大きくなっていることに気付き、足を止めた。結構な高さまで上ってきているし、こんなところで床が抜けたりして、なんてことは、いくら夢でも避けたい。

 ところが、軋むような音は、我々が立ち止まっても尚止むことはなく、むしろ先程よりも大きくなって、階段中に響いている。何やらひどく嫌な予感がして、ふりかえると、階下の暗闇の中に、二等星くらいの怪しい光が二つ、等間隔に並んでいる。

「やばいッ」

 小さくそう叫ぶと、笹川氏はぐいと僕の手を引いた。

「急ごう、サバトラに気付かれた」

 今や辺りに響く音は、軋む音などではなく、めりめりと気をひきちぎる破壊音であり、それはまぎれもなく背後のあの二等星から発せられていた。二つの光も今は、ヘッドライト程度に大きくなっている。

「アッ、見ろ、てっぺんだ」

 ぱっと前に向き直れば、前方の遥か彼方に、小さな天窓のようなものがあって、そこから白銀の光が明滅しているのが見える。恐らく、満ち欠けする月の光だろう、と見当をつけると、僕と笹川氏は脇目も振らずに駆け出した。

 音はいよいよもって大きくなる。恐怖やら気合やら、色々のごたごたとした情感が綯交ぜになって、僕と笹川氏は、言葉にできない様々なことを叫びながら走っていたのだが、すぐ隣のその叫び声さえ、背後から迫る無慈悲な音のせいで、殆んど聞き取れなかった。

 必死に走っているせいで、猫型瓦斯等が点る前に階段を駆け抜けていたが、暗さに困ることはなかった。今やすぐ後ろに迫る巨大な猫が、床やら天井やら区別することなく、平等に破壊して突き進むせいで、足元を照らすのに十分なほどの月光が、我々の周りには降り注いでいたのである。

 教室魚の中から見た銀色の帯は、今では殆んど手の届くところにあって、月光を浴びて大河のように夜空を流れるその姿は、夢の中だからこそ夢のように美しかったが、それに見とれている暇はない。

 生臭い鼻息が肩にかかり始めたその時、原稿用紙程度の大きさになった前方の窓を、不意に黒い影が横切った。それが一匹の大柄な猫だと分かるよりも前に、影は掻き消えて、瞬間、何か重く温かいものが僕の肩を蹴り、笹川氏の頭の上に、のっしと居座っていた。

唐突な頭部への衝撃に驚き、「ひえっ」と叫んで転倒しながらも、右手の満月中華を取り落さなかったその職人技は、後世に伝えられるべきであろう。

 彼の頭上の猫は、くわっと柘榴口を開いて、

「ええいやかましい、止まれッ」

 思いがけない大喝に、僕も笹川氏も、僕らを追っていた巨大なサバトラ猫も(ふりかえってみてようやく気付いたが、この猫の口は、僕ら二人を易々と丸呑みにして尚余裕がある程の大きさであった。走っている最中に気付かなくて、本当に良かったと思う)ぴたりと停止してしまった。

 ぽん、と弾みをつけて笹川氏の頭から飛び降りると、サバトラの二つの光の前で猫は振り返り、口の周りを一嘗めしてから、

「随分と遅かったではないか。満月堂も、サービスが悪いな」


 ●


 塔の頂上は、思いの外殺風景だった。教室よりも一回り大きいくらいの、床も天井も、何もないその空間の真ん中に、岡本先輩は胡坐をかいて座っていた。

「やあ、これを待っていたのだ」

 笹川氏が冷やし中華を置くと、腕に抱えられていた猫は、彼の胸を蹴って満月中華に飛びついた。

「駄目よ、私だって食べたいんだから」

 先輩はあわてた様子もなく、ひょいと皿を取り上げると、何処から取り出したのか、やけにリアルな魚の絵のあしらわれた小皿に、麺の上の錦糸卵だけを取り分けて、

「早く、早くせんか」

「はいはい、これでいいんでしょう」

 小皿を床に置くが早いか、猫は皿ごと食べてしまいかねないような勢いで、卵にがっつく。錦糸卵って猫が食べても大丈夫だったっけ、とつらつら考えている僕の前に、先輩は二つ目の小皿を出して、

「蔦森君も食べましょう。この夢から覚めたら、しばらくは食べらんないわよ」

 促されるままに、僕と笹川氏は満月中華をいただいた。実に奇妙な味であった。一口食べるごとに、何か得体のしれない、ぴりぴりとした甘い匂いのようなものが、体の隅々にまで広がってゆく。

「何だこりゃあ」

 首を捻りながら、それでも笹川氏は食べる手を止めようとはしない。

「なんか、不安になるような美味さだなあ」

「それはそうだろう。なにせ満月堂の料理は」

 真っ赤な舌でぺろりと、口の周りをなめてから、猫はにやりと笑った。

「月の光をゼータクに使っておるからなあ」

「コノヤロウ、何の説明にもなってねえぞ」

 笹川氏が凄んで見せても、猫は余裕を崩さない。機嫌よさげに尻尾を振るたびに、風を巻き込む音がする。

「さて、と」

 一足先に満月中華を食べ終えた先輩は、きちんと手を合わせて「御馳走様でした」と言ってから、

「それで、蔦森君、何か私に聞きたいことはある?」

「それじゃあ、まず、月を削ったのは誰なんですか?」

「それは余である」

 小皿をぺろぺろ嘗めながら、猫が応えた。

「どうしても錦糸卵が食べたくてな、まあ寛容な心で許せ」

「錦糸卵?」

「こいつは、月を錦糸卵の塊だと信じてるんだよ」

 苦々しげにそう答えたのは、麺をすする笹川氏である。

「二週間くらい前かな。コンビニで買った冷やし中華の錦糸卵を、こいつに横から食われちゃって、それ以来、そう信じてるんだ」

「往生際の悪い奴め、現に満月堂では、月を削って錦糸卵にしていたではないか」

 証人もいる、この女子がそうだと言い返す猫に、笹川氏は噛みつく。

「やかましい、猫の王だか何だか知らんけど、どうせこれもお前の夢なんだろう。だったらなんでもありじゃあねえか!」

「何を生意気な、このひょうろく玉!」

「言いやがったな! っていうか、ひょうろく玉ってなんだ?」

 口論を始めた二人を横目に、「他はないの?」と先輩は尋ねる。

「どうして月を削ったんでしょうか」

「月の……錦糸卵の味を知りたかったんですって」

 そう言って、先輩は上空を仰いだ。明滅していないなと思っていたら、何時の間にか、月は満月の姿で安定していて、その周囲を、銀色の大陸のように、魚たちが周回している。

「知ってどうするんです」

「さあ? ただ知りたかっただけ、って言ってたけど」

「そんな適当な」

「酷い話よねえ!」

 おかげでこっちは大迷惑だわ、と先輩は笑った。僕はただぼーっと、彼女の笑顔を眺めていた。

「それで、他は何かあるかしらん」

 聞きたいことは、沢山あった。

「一つだけあります」

 ふと、桃色の金魚が、月を囲む銀の大陸から、ゆっくり降りてくるのが見えた。

「先輩は、こうして夢の中を歩いてみて、どうでしたか。楽しめましたか?」

「全ッ然」

 先輩は即答した。

「だって、何処を探しても蔦森君がいないんだもの。しょうがないから、こんなに目立つ塔まで作って待ってたのに、来たのはもう目が覚める頃だし」

 ふわりと立ち上がると、先輩は僕の傍に駆け寄って、手を取った。その方には、金魚がちょこんと鎮座している。

「だから、ね。蔦森君」


 ○


 その後、先輩は僕に二言三言囁いた。それは、あの日の夕方、僕に呟いた台詞と、一言一句変わらない言葉だった。分かってみれば、なぜ今まで思い出せなかったのか、そのことに驚くくらい、単純な言葉だ。

 目を覚ますと、僕はやはり自分のベッドにいて、手には先輩の書いてくれたメモを握り締めていた。

 窓からは既に朝日が差し込んでいる。

 僕は起き上がると、もう一度あの言葉を呟いた。

 だらしなく頬が緩むのを感じて、僕はいそいそと立ち上がると、洗面所へと向かった。



面白かろうがつまらなかろうが、しょせん夢は夢、朝が来れば目は覚める、というのは、先輩が書いてくれたメモの、一番上に書かれた言葉だ。

僕と先輩と、それから吾妻や佐伯、桃内さんや要さんや、とにかくあの日、あの夢の中を彷徨った愉快な仲間たちは、この出来事を嚆矢として、カーマ・スートラ大運動会事件とか、メカニックヤーさん口述事件とか、色々厄介な出来事に巻き込まれた。

しかし、それらはまた別の機会に語らせてもらおうと思う。

それから、僕と先輩の仲は、少しだけ進展した。少なくとも。僕はそう思っている。

桃色の金魚は、今も時折視界の隅に入ることがある。

その時、僕は少しだけ微笑んでみせるのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ