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再び吾妻と要さん、及び佐伯と桃内さん

 吾妻は、この教室魚の動かし方を知っているようで、窓に寄りかかりながら少し手を動かすと、教室全体が、ぐいと上を向き始めた。

「そこから顔を出して、てっぺんを見てみなよ」

 言われたとおりにすると、塔の頂点に、とてつもない勢いで満ち欠けを繰り返す月が浮かんでいる。

 その周囲には、色とりどりの鮮やかな帯が、月を取り囲むように渦巻いているが、よく見ればそれは、夢の中を漂う魚たちの群れであった。

「うわあ、気色悪い」

「でも、明らかに岡本さんはあそこに居るだろ」

 でなけりゃ、あんな不気味なもんがあるわけがない、と吾妻は笑う。

「蔦森、お前、それで岡本さんに会って、どうするように言われてんの」

「別に何も」

 ぎらぎらと光る冷やし中華のネオンを横目に、僕は何も考えずに笑った。

「会えたら分かるって、それだけしか言われてない」

「随分信頼されてるんだな」

 ひとしきり笑った後、ふう、とため息を吐き、

「ああ、俺も佐伯とかお前みたいに、そんくらい彼女から信頼されてえなあ」

「佐伯は、あれは信用されてるっていうのかな。ゲームにも負けっぱなしだし」

 ああ、でも一度は勝ったんだっけ、と言うと、彼は先程とは違った笑みでこちらを見て、

「桃内の方が手加減してやったんだよ」

 やわらかい壁を、ぐにぐにと押して見せる。

「この変な壁も、あそこの床が無駄にやわらかいのも、あいつが妙な遊びを考え付いたせいでさ、何て言ったかなあ」

 トランポリントランポリンと呪文のように唱えてから、

「まあ名前はどうでもいいや。とにかく、俺がお前と別れて、この魚の中でうろうろしてたら、急に外が騒がしくなってさ」


 ●


 無用のトラウマを抱え込みかけ、事情を知っている友人ともはぐれ、意中の人は見つからず、このまま目を覚ますまで魚の腹の中で、はらわたのようにじっとしているしかないのか。

 無意味に負った心の傷が、過去に遡って記憶のささくれを引っぺがしはじめ、吾妻はネガティヴ的思考の無限廻廊へと順調に迷い込み始めていた。夢の中で一番やってはいけないことである。

 そうやって暗鬱とした気分でいるというのに、反対に体は浮き上がるように軽くなる。いよいよ己の体までままならなくなったかと、更に陰々たる領域へ入り込もうとしたところで、ふと机や椅子が、場違いにふわふわと浮いていることに気が付いた。

「それで窓の外をみたら、この教室がとんでもない速度で落下してることに気付いたわけ」

 気付いてしまえば重力と言うのは非情なもので、教室魚は加速度を上げて、底知れぬ暗闇へと一気に落ちてゆく。こうなればトラウマもへったくれもなく、吾妻はただただ慌てるばかりであった。

 やがて無いと思っていた底が、窓の外で爪楊枝の先でつついたくらいに見えたと思ったら、たこ焼きくらいになり、六個入りのパックになり、凄まじい勢いで近づいてくる。

 目の前を女児向けのアニメにはまった諸悪の根源たる幼稚園時代、姉の蔵書に手を出して凄惨な思い出をこしらえた精神的暗黒期たる小学校時代が横切り、ああこれが走馬灯かと気付くよりも早く、吾妻は地面に衝突するはずだった。

 走馬灯はいよいよ佳境の中学生時代に突入し、未だ記憶に新しい様々な思い出が、灯を入れたシャボン玉の如く、鮮やかに浮かんでは消えてゆく。その中の一つに、決死の覚悟で要さんに告白したあの夕日を見、吾妻はついに叫んだ。

「要さん!」

 教室と夢の底とは、今や目と鼻の間よりも近くにあった。

「あんた今一体何処にいるんだ?」

「ここに」

 そして、それよりも少し長いくらいの距離に、要さんの顔があった。

 つい先ほどまで走馬灯だと思っていたものが、今目の前に(夢の中でこういうのも変な表現ではあるが)現実となって現れ、なおかつそれが返事をしたという事実に驚き、吾妻は今再び重力のことを完全に忘却した。

 しばらく見つめあったまま教室ごとぷかぷかと浮いていたが、ふと落ち損なった地面のことを思い出した途端、まず教室が底に着陸する轟音が響き、続いて机が落下する騒音が背後からして、最後に吾妻が顔面から着地すると、堪えきれなくなった桃内さんが爆笑する大音響が聞こえた。


 ●


「何故佐伯たちと要さんが一緒に?」

「それがさ」

 佐伯が言うには、僕に放って置かれた後、なおも彼と桃内さんとの一騎打ちが続けられたものの、当然の如く負けがかさみ、ついに四十二回目の敗北の後、彼は「審判が必要である」と宣言した。既に夢の中で過ごすコツを掴んでいた桃内さんは、最初に佐伯と勝負する際、何時の間にか二人の間にトランプやらの道具があったのを思い出して、

「二人で念じるなりなんなりすれば、きっと審判も出てくるんじゃあないの」

 なんてったって夢なんだから、と呟く彼女に、佐伯は大いに同意して、

「よし呼ぼう。今すぐ呼ぼう」

 そう言うなり、その場に胡坐をかいて、何やら真言のようなものを唱えだした。笑いをこらえながら、近寄って耳をすませば、

「なるべく公正な審判を。そして、問い詰める時気まずくない様に、できれば顔見知りの審判を」

 さながらインフルエンザで学年閉鎖になるのを願う小学生の如く、あまりにも必死なその様子に、桃内さんはただひたすら笑いを堪えていたが、不意に気配を感じて、振り返ると、今まで誰もいなかったはずの黒板の横に、華奢な女性が佇んでいる。

「へえ、まさか」

 本当に呼べるとは思ってなかった、と言い終える前に、凄まじいまでの勢いで佐伯は彼女に詰め寄ると、

「要さん要さん。ああ、本当に要望通りの人が来てくれるなんて!」

 きょとんとしたままの彼女に、一通りの状況を説明してしまうと、再び素早く踵を返し、桃内さんの前に座り込んでトランプを構えて、

「さあ、審判を!」

 要さんはしばらく彼を見つめていたが、やがてぷっと吹きだすと、そのまま桃内さんと二人で、お腹を抱えて笑い出した。

 散々笑った後、裏切られたかのような表情の佐伯の前で、尚も笑顔を浮かべたまま、彼女はこういったという。

「せっかく御呼ばれされたんだし、審判をやってもいいけど」

 でも今まで全敗してるんでしょう、とさりげなく彼の傷を抉ることも忘れない。

「それだったら、いっそのこと、ゲームのジャンルを思いっきり変えてしまいましょう」

 そうねそれがいいわ、と女子二人が盛り上がる。当然、佐伯に発言権はなく、ただトランプを握ったまま、茫然とするばかりである。

「ほら、昔児童館にさあ、トランポリンクラブがあったの、覚えてる?」

「ああ、あのクラブ会員以外使えなかった奴」

「あれをさ、うんと大きくして、そこで鬼ごっことかするの、どうかしらん」

「ちょ、っと待ってくれよ。(ぼか)ぁ体を動かすような遊びは苦手で」

「でもそんな大がかりなの、どうやって用意するの?」

「大丈夫よ、だってここは夢の中なんでしょう」

 必死の講義を続ける佐伯を背にして、要さんは彼女の手を握ると、いたずらっぽい笑顔をして、

「思えばきっと、なんでも出来るわ」

 やにわに二人の腕を取ると、細身なその体のどこにそんな力があったのか、そのままひょいと黒板の方に二人を放り投げた。

 続いて、轟音が響き、後は吾妻が体験した通りである。

「俺が立ち直った時には、もう女子たちが教室の中に入り込んでてさ、何時の間にか壁も床も、この通り」

 と、何度か壁を殴って見せると、ぽふぽふと気の抜ける音がする。

「で、ここで、ええと、そうだ思い出した。トランポリン鬼ごっこっていうのをやり始めてさ。俺も参加させてもらったけど、結構面白かったぜ」

「楽しんでいるようで何より」

 ぐいと壁を引っ張ってから離すと、ぐにゃりと歪んだまま、壁はゆっくりと元の位置に戻る。

「しかしこれは、控えめに言っても、決してトランポリンではないよ」

「だろうな」


 ●


 不意に後ろの方から「なんだありゃあっ」と叫び声が聞こえて、振り返ると阿佐ヶ谷先輩が窓の外を指さしている。

 つられてそちらを見ると、塔から突き出したネオンの上で、サバトラ模様の猫が大きく口を開けて、いかにも天下泰平と言った様子で欠伸をするのが見える。目を凝らせば見え無いこともない、塔のそこかしこに居座る多くの猫との違いは、その口が、そのままこの教室を呑み込んでなお、お釣りがくる程度の大きさであることだけだ。

 くわん、と小さく鳴いて口を閉じると、サバトラ猫は我々をじっと見つめる。頂上まで辿り着くには、どうしてもその横を通らなければならない。

「皆、なるべく動くなよ」

 縄文期の埴輪の如き芸術的な体勢のまま、阿佐ヶ谷先輩は静かに忠告した。

「うちで飼ってた猫は、とにかくちょこちょこ動き回るものなら、なんでも口に入れようとする癖があったんだ」

 サバトラ猫との距離は、ゆっくりと縮んでゆく。比例して、その瞳の瞳孔が広がってゆくのが見える。

「うちの猫は違いましたよ」

 顔を見なくても分かるほどに引きつった声で、佐伯が応えた。

「ピートっていうんですけど、あいつ、食べ物だって分かったら、動いていようがなかろうが、全然関係なかったです」

 瞳孔が開き切り、サバトラ猫が教室魚を叩き落とす寸前に、桃色の金魚が猫の右耳辺りを飛んでいるのを、僕は確かに見た。

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