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猫と土鍋と冷やし中華の塔

 桃色の金魚を初めて見た時のことは、今でもはっきりと思い出せる。

 五月の夕日の中、岡本先輩は確かに、教室で飼っていた金魚を桃色に染め替え、あまつさえ空中に浮遊させてみせたのである。

 取りに来たプリントのことも忘れ、僕は目の前を、当然の顔をして泳ぎ回る金魚に、ただただ目を奪われていた。

 岡本先輩も、ただ黙って僕の方を、じっと見つめていた。ややあって目が合うと、彼女はゆっくりとこちらに向かって歩いてきたのである。

 奇妙なことに、あの日の光景は、それこそ、その時飛んでいた金魚の体に反射する夕日の煌めきに至るまで、まざまざと眼前に浮かべられるというのに、その時の音声は、一切が忘却の彼方にある。

 あの時、僕に向かって先輩がなんと言ったのか、そして僕がどのように応えたのか。確かにあの会話のおかげで、僕と先輩は付き合い始めたはずなのだが、肝心な部分は、まるで朝霧でもかかっているかのように、全てが不鮮明である。

 記憶の中の先輩は、会話が終わると、それこそこちらの勘違いではないのか、と疑わしくなるほど幽かな笑みを浮かべ、スカートを翻して廊下の方に振り返ると、三匹の桃色金魚を連れて、音も立てずに教室を去って行った。

 そういえば、あの時はあんまりにも衝撃的すぎて、最後の一匹が廊下の外へ出て行っても、先輩の後を追うことができなかったっけ。

 今はどうだろう。僕はきちんと先輩の後を追えるのだろうか。

 霞がかった夕日の着物をはためかせ、金魚は僕の前を横切る。


 ○


「いや全く、たいしたもんだなあ」

 目の前にそびえる異様な建築物を前に、阿佐ヶ谷先輩と愉快な友人たちは、ただただ感心して酒を飲むばかりであった。

「どうなってんの、これ」

 一言で言えば、それは今まで夢に見た建物の、壮大なる寄せ集めであった。

 阿佐ヶ谷先輩の山車に、ぷっと息を吹き込んで何処までも膨らませたような塔に、木造の廊下が突き刺さったり、絡まったり、寄りかかったりして、時には廊下の先が切り落とされたかのようになっている部分もあり、そんな場所には、教室の形をした魚が、環状線の如く巡回している。至る所に「冷やし中華始めました」というけばけばしいネオンが輝いており、ほぼ全ての看板の横には、実に美味そうに冷やし中華を食べる猫の絵が描いてあった。

 その他、建物のそこかしこに旧字体で何事かが書きつけられていたが、読めそうなものを拾い上げてみれば、それは「心理學のレポオトについて」という、学校側からのお知らせであった。

「そういや出してねえな」

「あああ、なんで夢の中でまでレポートのことを思い出さにゃあならんのだ」

「呑め呑め、嫌なことを忘れるにゃあ、これが一番」

「おい、こぼすなよ、勿体ない。こんな安酒でも、俺達にとっちゃ貴重な」

「そうは言っても、さっきからなんだか、部屋全体が揺れてるんだもん」

「てめえ、もうべろんべろんじゃあねえか」

「違う、本当に揺れてるんだって。アッ、見ろ」

 ぱっと指さされた方向を見れば、何時の間にやら、部屋のそこかしこに猫が引っ付いていて、畳やら柱やら、区別をつけずに恐ろしい勢いで爪を研ぎ始めている。彼らが一掻きするたびに、部屋は目に見えて削れてゆき、今や炬燵とその周囲以外は、殆んど残っていない。

「まずいぞ、このままじゃあ墜落だ」

「おい、どうにかしてこいつらを振り払えないか」

「どうやってだよ、誰もこの部屋の操縦方法を知らないんだぜ」

「そもそもどうやって浮いてんだこれ」

「笹川なら分かるかな」

 狼狽えているうちに、鍋の中から桃色の金魚が飛び出したかと思うと、飛び掛かる猫たちから逃げるように高く浮かび上がり、ゆっくりと塔の頂点へと漂ってゆく。

 途端に鍋の中の出汁が、噴水の如く吹き上がり、がくりと部屋の高度が下がり始める。

「ああ、これで浮いてたのか」

「俺達、燃料で酒を呑んでたのか」

 刻々と部屋が崩れてゆく中で、炬燵の右側にいた大学生は、ぽつりとそう呟いた。

「どうりで舌も胃も、焼け付くみたいに辛い鍋だった」


 ●


 今や不思議な部屋は全く浮力を失い、僕と先輩、そして愉快な友人と猫たちは、無様に落下しつつあった。

「酒がこぼれる酒が」

「死ぬ死ぬ死ぬ」

「底が見えないのが怖すぎる」

 誰かが叫んだ通り、冷やし中華の塔は、地獄に向かって無限に続いているように思われた。けれども、下へ向かうに連れ、ラッパのように塔の下部が広がっているので、我々の旅の終焉は、そこまで遠くはあるまい。

「落ち着くんだ。笹川が言った通りに、何処でもいいから体をつねって目を覚まそう」

「イタイッ、てめえ、自分の体でやれよ」

「やりやがったな、この」

「すいません、それ、僕の足です」

「あ、いや、すまなかった」

 空の鍋と酒瓶と猫と部屋の残骸とが複雑に入り混じり、もはや何が何やら分からない。

「ウワッ、こいつ引っ掻いてきやがった」

「おい、その猫をこっちに寄せるんじゃあねえっ」

「先輩方すみません。さっき瓶の中身がこっちに飛んできて、思わずちょっと呑んじゃいました」

「ええい、器用なヤツ」

「俺なんかさっき畳の欠片食べちゃったよ。畳ってしょっぱいんだな」

「ああ、それたぶん、俺が座ってたとこだな。俺、汗っかきだから」

「やめろ、吐き気が増す」

「アッ、皆さん気を付けてください、教室っぽい魚が」

 皆まで言うことはできなかった。大口を開けて待ち構えていた魚の中に飲み込まれ、辺りが真っ暗になると、途端に何かやわらかいものに激突した。そのまま止まってくれれば良かったのだが、やわらかいものはやわらか過ぎたようで、衝撃に耐えかねたように我々を逆方向に跳ね飛ばす。

「ねえ、俺達もう死んだのかい」

「こんな騒々しい死後の世界があるかよ」

「あれ、何時の間にか猫がいねえ」

「あいつら、最初にぶつかった時に、華麗に受け身をとって着地してたぜ」

「なんて薄情な奴らだ」

「もともと敵みたいなもんだろ」

 なおも跳ね回っているうちに、だんだんと勢いが弱まってきて、そのうちに辺りを見回す余裕も出て来た。どうやら魚の内部は、床から天井まで、全てがトランポリンのようなもので覆われているようだ。

 しげしげと眺めているうちに、いきなり床に投げ出され、我々は少々痛い思いをした。

 ふらふらになりながらも立ち上がると、馴染み深い顔が四人、そろってこちらを見つめていた。

「聞いてくれよ蔦森」

 呆然とする僕の手を取り、佐伯はひょこひょこと飛び上がりながら、

「ついに僕は桃内に勝ったんだ。ちゃんと証人もいるぜ、なあ吾妻」

「ああ、そうだな」

 学校の机の上に座り、窓に寄りかかりながら、極めて面倒くさそうに彼は頷いた。その隣で、桃内さんと要さんがくすくすと笑っている。

「もう、お前の勝ちでいいよ」

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