阿佐ヶ谷先輩と先生
阿佐ヶ谷先輩には、例えば全身から強烈に発せられるその妖怪的雰囲気のせいで、「人間の癖にナマイキ!」と本物の妖怪に捕まり、今も鞍馬山の中腹で天狗やらぬらりひょんやらを相手に大局将棋に打ち興じているとか、重要な論文の作成中におかしくなって「高等遊民になる」と叫び、作りかけの論文を放り出して万年筆と原稿用紙、吉本隆明著「共同幻想論」を行李にぶち込んでひなびた民宿へ遁走、文学の境地を目指して呻吟苦悩した挙句未完の大作を文机に残したまま竹林へと駆け込み、その日からその竹林には人食い虎が出るようになったとか、単位の大幅な未修得ぶりがついに郷里の両親にばれ、かねてより進学を快く思っていなかった父親から「お前マジでこのままでいいのか」と切実に説得され、ついに埼玉の県北にある実家に帰省したとか、とにかくさまざまな噂があり、そしてそのどれもが、「でも阿佐ヶ谷先輩ならありえるわ」と言えるものばかりであった。
つまり、阿佐ヶ谷孝臣とは、そういう人だったのである。
「ひでえ噂も立ったもんだ」
件の先輩は、控え室で水筒の中身を一息に呑んでしまうと、げっぷ混じりにそういった。
「たった半年来なかっただけじゃあないか」
「だって阿佐ヶ谷先輩、何処となく人間らしからぬ雰囲気があるんですもん」
半年間もいなけりゃ、そりゃあ山籠もりでもしたのかと思われますよ、と佐伯は平気で言ってのける。
「こっちだって大学の方で色々あったんだよ、心理学の単位を落としかけたり、闇鍋会でぶっ倒れたり」
大体、俺はOBなんだから、来ない方が普通なんだぜ、とぼやくと、
「でも、学校から交通費は出てるんでしょう」
「まあな」
「で、それを着服するために、自転車でこっちまで来てるんでしょう」
「着服とはひどい。いいかね、この金は、俺が公共交通機関を使用せずにここまで来たことに対する、報奨金のようなものなのだよ」
「絶対普通にバイトした方がいいですって」
「俺は、彼女持ちのお前らと違って、自分の趣味にしか金を使わんからいいのだ」
中学生の癖に色気づきやがって、と大げさに首を振って見せる。
「いいか、今のうちに教えておいてやる。男女の関係には、二種類しかない。赤の他人か、奴隷だ」
「またそんなこと言って。僕ら知ってるんですよ」と佐伯はこちらに話を振る。
「前にボランティア委員会で、近くの幼稚園に読み聞かせに行った時、若い女の先生と阿佐ヶ谷先輩が仲良くしてたの。僕らも去年、やっぱり読み聞かせで行きましたけど、美人だったよなあ」
「バカヤロウ、ありゃ幼馴染だよ。そもそもあの読み聞かせ自体、あいつに無理やりやらされたんだから。主催者と責任者が話すのは当然のことだろ」
「じゃあ先輩は、OBとしての立場を利用して、幼馴染にイイトコ見せようとしてたんですか」
にへらりと佐伯が笑みを浮かべる。「職権乱用だ、先生に言ってやろ」
○
「実際の所、あの幼稚園の先生と先輩は、どうなんですか」
「どうもこうも、幼馴染だよ」
山車のへりにぶら下がる、フグの形の風船をもてあそびながら、阿佐ヶ谷先輩は唇を尖らせた。
何時の間にか雨は止んでいて、外の景色は、夕暮れの商店街に変化している。むやみやたらと山車が豪華なせいで、担い手の姿が、小粒のたこ焼きくらいにしか見えない程高いところにいることを除けば、今までで一番現実的な光景である。
「それ以外のなんでもない」
「さっきあの先生の夢を覗いたんですけど、その夢の中に先輩もいましたよ」
途端、フグはひしゃげて、情けない顔をこちらに見せた。
「冗談ですよ。僕、あの先生の名前すら知りませんもん」
そんな人の夢を見つけられるわけがない、と笑って見せたが、阿佐ヶ谷先輩は眉をひそめたまま、
「お前、なんかキャラ違くないか」
「目を覚ましたら、夢の中で経験したことも、全部忘れちゃうらしいんで、好き勝手やってるんです」
面倒くさそうに、ぽん、とフグを放ると、千載一遇とばかりに、フグは慌ただしく山車の外へと泳いでゆく。
「しかし、お前も大変だよなあ。彼女の勘違いのために、わざわざ夢の中にまで付き合わされるって」
「勘違いじゃあないと思うんです」
はっきりとそう信じてるわけじゃあ無いけど、と前置きをしてから、
「先輩、日記ってつけたことありますか」
「ない。毎日自分の生活を顧みるだなんて、そんな拷問、やりたくもない」
「僕もです」
その僕らにとっては未体験な代物を、岡本先輩は毎晩つけてるんです。
「で、その日にあった出来事とかと一緒に、毎日欠かさず記録してるのが、その日の月の形なんですって」
「面倒だなあ。普通、日付と本文以外に書くっつったら、その日の天気とかじゃあないのか」
「なんでも、いちいちその日の天気を思い出して書くのが、たまらなく面倒らしいですよ」
「さよけ」
「月の満ち欠けって、周期的でしょう。だから、パターンさえ掴んでしまえば、絶対に間違えないと思うんです」
「なのに、現実の月とのずれが発生してしまった、と」
「いえ、日記の中でも、あの日は立待月だったそうです」
自分の筆跡で、はっきりそう書いてあったそうです、というと、阿佐ヶ谷先輩はいよいよ呆れたような顔をして、
「じゃあマジで勘違いじゃねえの。本当に、よく付き合ってられんなあ」
「結構楽しんでますよ」
「にしても、だよ」
ぐわらり、と山車が大きく揺れ、遥か下の方から、蛸の面をつけた担い手たちの困惑した声が聞こえてきた。
「月が削れるとは。女性はロマンチックで敵わんね」
「ロマンチックかなあ」
ゆっくりと山車全体が傾きはじめ、仕方なく僕と先輩は屋根の外側に出た。
山車の端から数メートルの所に、小汚い部屋が浮かんでいて、その中心には、辺りが夏の盛りだというのに炬燵に足を突っ込み、どてらを着た二人の男が、地獄の怨炎よりもなお赤い鍋を、ふうふう言いながら食べている。どうやらこの部屋にぶつかったせいで、山車はバランスを崩してしまったらしい。「誰ですか」と尋ねると、忌々しげに「大学の友達」と答え、じろりと空中の部屋を睨み付けた。
「アッ、出やがったぞ、この裏切り者」
「てめえ、俺たちに内緒で彼女作るとか、ずるいぞコンチクショウ」
「心理学単位苦労組の四人でこの鍋を囲ったあの日の誓いを、もう忘れたのか、薄情者め」
「しかし、君の彼女は随分男っぽいな、聞いた話と違うぞ」
「それに大分小さい」
「阿呆か、こいつは後輩だよ」
もはや倒壊寸前の山車の頂点に立ち、阿佐ヶ谷先輩は腕を組んだ。
「おい、笹川はどうした。不恋人の誓いなら、あいつも立てたろ」
「さあ。さっきまでは一緒にいたんだが、さて何処へ消えたのやら」
「この部屋も、もともとは笹川が持ってきたんだ。なんでも、冷やし中華と交換したんだと」
「ほら、最近あいつ、冷やし中華にはまってたろ、それが高じて、夢の中でも、ひたすら冷やし中華を食べ続けてたんだと」
「そしたら見知らぬ女の子がいきなり現れて、どんな願いでも叶えてあげると誘惑を……」
「違う違う、有無を言わさず食ってた冷やし中華を取り上げられて、これを貰う代わりに、なんでも出来るようにしてやろうっつって」
「駄目だな、大分酔ってやがる」
二、三度足元を確かめてから、やにわに先輩は山車から飛び出し、部屋の縁にしがみついた。炬燵の二人は、おぼつかない手つきで彼を引っ張り上げようとしたが、彼らの手が届くよりも早く、先輩は自力で部屋に上がり込んで、振り返ると、
「おい、蔦森、そこ、もう崩れるぞ」
慌てて距離をとると、一気に走り寄って部屋に飛びつく。
三人に引っ張り上げられる時に、鍋の中から桃色の金魚がふわりと浮かび上がって、赤い水面の上で宙返りをするのが見えた。