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吾妻と要さん

 目を覚ますと、桃色の金魚が飛び去ってゆくところだった。

 辺りはうすぼんやりと暗く、生暖かい風が頬を撫でる。しばらく上空を漂う無数の魚たちを、口を開けたまま眺めていたが、やがて自分の目的を思い出し、亀の如く首を伸ばして、あたりを見回した。

岡本(おかもと)先輩は何処だろう」


 ○


 岡本先輩は、いわゆる「変な人」だ。

 刷毛で乱暴に描きなぐったようなぼさぼさの頭は、いつも肩のすぐ下くらいまで彼女の顔を覆っているし、髪の毛の下の目には、墨で塗りつぶしたみたいなクマが、ずっと居座っている。

 何処をとっても、万人に好かれるという感じじゃあない。吾妻(あづま)にはよく「蔦森(つたもり)は何で岡本先輩とつきあってんの?」と訊かれるが、それにきちんとした答えを返せたことは、一度もない。

「分からない。でも、嫌いってわけじゃあないんだよ」

「情熱のないヤツ!」

 そんなんだと、いずれ愛想を尽かされるぞ、と不安になるようなことを言う。

「じゃあ吾妻はどうしてるのさ。君がB組の(かなめ)さんと付き合ってんの、もうバレてるんだぜ」

「そりゃあお前、簡単なことさ。行事の度に彼女と二人でその日を祝い、さりげなくプレゼントを渡す。これに限る」

「よくそんなにお金が続くなあ」

「いや、かなりカツカツだ」

 最近は自分のためのものを全然買ってない、と吾妻がため息をついたので、僕は少なからず驚いた。

 人の為に出せと言われたら、舌を出すのだって嫌だ、と自ら語ったとさえ言われる極めつけの吝嗇家だった彼が、他人の為に自腹を切ることはおろか、その為に己が生活を切り詰めるとは、恋とはかくも人を変化せしめるものなのか。

「なに他人事みたいな顔してるんだ」

 最悪、クリスマスくらいは一緒に祝わんと、とけしかけてから、すぐに顔を曇らせ、

「でも、クリスマス程度じゃあ喜ばないかも。あの人、全然感情を外に出さんからなあ、喜んでんだかどうだか分からないと、張り合いがないよなあ」

 お前、先輩が喜んだところとか見たことあんの、と聞かれ、再び答えに詰まる。

「喜んでるのは、まだ見たことないけど、慌てた声なら聞いたことある」

「へえ、あの人でも慌てることがあるのかね」

「うん、なんでも月が欠けたとかで、夜遅くに電話をかけて来たんだよ」

「随分当たり前のことで驚くんだな」


 ○


 金魚の後を追っているうちに、足元の感触が変わって、気が付くと僕は、ひたすらに長い木造の廊下に立っていた。両手を横に伸ばせば、手首まで壁についてしまうような狭い廊下である。

 両側は窓になっていて、その両方ともに斜陽が差し込んでいる。

 窓の外に浮かぶ、名前も知らない無数の魚を眺めながら歩いて行くと、不意に見知った顔がその中に混じっているのが見えた。

 吾妻はだらしなく笑いながら、魚群の間を歩いていた。隣にいる女生徒は、エラと鱗があることと、全体的にやけに青っぽいことを除けば、要さんにそっくりである。

「吾妻よーい」

 窓の一つを開けて彼の方に顔を出すと、吾妻はすぐに振り向いた。惚けた顔だったのは一瞬だけで、あっという間に詰め寄ると、

「蔦森、こんなところで、一体、なんで」

 しばらくの間、喉の奥から我先にと飛び出そうとするいくつもの言葉と格闘していたが、ややあって吾妻は「どうやってそんなとこから顔を出してんだ」とだけ言った。

 言われて気付いたが、窓の外は繁華街になっていて、僕は何もない空間から上半身を突き出しているのだった。

「まあいろいろありまして」

「だってお前、これってつまり」

「そんなことより、要さんにエラがあるんだけど、それは大丈夫なの?」

 再びぎょっとしたような顔をして、振り返ると、要さんだったものは、今や完全に魚と化していた。

 顔の部分に居座っていた一匹が、ふわりと浮かび上がると、たちまち服の中から何十匹もの小魚が飛び出し、気付いた時には、彼女の服だけがその場に残されていた。

 吾妻は長い間、飛び去って行った魚たちと同じく、口を開閉させていたが、やがて悪鬼の如き形相でこちらに向き直ると、

「てめえ、せっかくいい感じだったのに、あっという間に悪夢にしちまいやがって」

 トラウマになったらどうしてくれる、と身を乗り出すと、窓枠に足をかけて、ひょいとこちらに飛び降りた。後ろ手で器用に窓を閉めると、外の繁華街は消え去り、再び魚群しか見えなくなる。

「悪かったよ、だけど、魚といちゃいちゃしてたから、つい」

「ナニッ、最初から魚だったのか」

 振り向いた瞬間、日差しをまともに見てしまったのか、ぎゅっと目を細めると、大きなため息を吐いた。

「すると俺は、魚とパフェを食べて、魚とボウリング場に行って、魚とプレゼント交換なんてしてたのか」

「良い雰囲気にならなくて良かったね」

「馬鹿にしてるのか?」

 恨みがましくこちらを睨むと、がらりと窓を開け、吾妻は大声で叫んだ。

「チクショウ、二時間もかけて選んだキーホルダー返せっ、俺の胸のトキメキを返せっ」


 ○


「だから、今夜は絶対満月のはずだったの!」

 半分眠りながら聞いていたせいで、珍しい岡本先輩の大声に驚き、危うく受話器を取り落しかけた。

「それなのに、さっき月を見てたら、急に端の方からそぎ落とされるみたいに欠けちゃって、それが三回くらい続いて、立待月くらいになっちゃったのよ」

 なるほどタチマチヅキですか分かります、と答えながら、急いで小学生向けの「よいこのうちゅう」をめくる。

「お母さんもお父さんも、今夜はもとから満月じゃなかったっていうし、でも私が最初に見たときは、確かに満月だったのよ」

 膝で本を支えているせいで、何度もバランスを崩しかけたが、どうにか立待月の項目を引くことができた。どうやら、新月から数えて十七日目の月のことらしい。

「そりゃあ不思議ですね」

「ねえ、蔦森君はどう思う?」

「どうって」

「私が立待月を満月と見間違えたか」

 それとも、誰かが満月を立待月に変えてしまったか。

 しばらく考えてから、僕はゆっくりと答えた。

「たぶん、先輩の方が正しいんだと思います」


 ○


「つまり、どういうことなんだ?」

 木造の廊下を二人で歩きながら、僕は先輩の言葉を思い出す。

「だから、今ここにいる吾妻が、吾妻本人の夢の中から出て来た吾妻かどうかが分からないんだって」

 ひょっとしたら、誰か他のクラスメイトの夢の吾妻かも、と言うと、彼はしばらく考えた後、

「いや、俺は本人だと思う」

 歩き続けながら、吾妻は組んでいた腕を解いた。

「俺、さっきキーホルダーのことを喋ったろ。あれ、俺が現実で、一人で買いに行った奴なんだ」

 親にも話してないし、と何故か恥ずかしげに笑う。

「それに、二時間も悩んで買った、なんてこと、俺をストーカーしてない限り、分かりっこないことだろ。だから、俺はきっと本人さ」

「どうだろう、もしかしたら本当に熱狂的な吾妻のストーカーの夢から、僕は君を引っ張ってきたのかも……」

「怖いことを言うなよ」

 しばらく歩いているうちに、再び足元の感触が変わって、今度は教室の中にいた。

 窓の外には、鏡写しになった教室があり、その教室の扉を開くと、また教室がある。「やな感じ」と吾妻は呟いた。

「そういや、俺はお前に会ったから、これは夢だって気付いたけど、蔦森はどうして夢の探索なんて言う、けったいなことが出来るようになったんだ」

「先輩のおかげだよ」

 そうして僕は、儀式のことについて説明し始めたが、「まず先輩の部屋に僕が訪ねて行って」と言ったところで、急に吾妻がにやにやしはじめて、

「なんだ、淡白な奴らだとは思ってたけど、きっちりやることやってんじゃあないか。もう俺が教えることなんか、一つもねえや。エエッ、隅におけないな、コノヤロウ!」

 何かとんでもない誤解をされているようだ、と僕が気付いた時には、既に彼は次の教室の中心辺りにいて、気味悪く全身をくねらせている。

「ホント、うらやましいくらいだ。おい、恥ずかしがるなよ、なにもそんな遠くまで行かなくても」

「いや、僕はさっきから一歩も動いてないけど」

 気が付くと、僕のいる教室と、吾妻のいる教室とが、ゆっくりと分離してゆくところであった。

 離れてゆくにしたがって、教室の壁に鱗が生えてゆく。

「おおい、こりゃあどうすればいいんだよう」

「危ないと思ったら、ほっぺたをつねるなりなんなりして、とにかく目を覚ませば大丈夫」

 話している間に、ドアがエラになり、小さな掲示板はヒレになり、窓にまで鱗が生えはじめ、とうとう完全に魚に変化してしまうと、もう吾妻の姿は見えなくなってしまった。

 ややあってひとりでにドアは閉まり、僕はまた一人になった。振り返れば、窓の外には雪がちらついている。

「寒いのは好きじゃないしなあ」

 しばらく考えた後、もう一度ドアを開くと、今度はちゃんとした廊下になっていた。こちらの窓の外では雨が降っている。

 その中を、見覚えのある桃色の金魚がふわりと飛んでゆくのを見て、僕は決心を固めると、窓を開けた。


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