一条の憂鬱
庭の散歩は気持ちいい。そう思いながら、彼は軽い足取りで庭を歩く。
何も考えず、ただ、歩くことはなんとも素晴らしいことだ。
ああ、こんなことがずっと続けばいいのにな
「今日も、坊ちゃんはお美しいですね。風に揺れる髪は、糸のように細く、愛らしいお顔も、肌が透き通るように白く、さらにお美しさが増し……」
……こいつがいなければ
「安斎、何故お前がここにいる……」
と、呆れて溜息を吐く少年。金髪ショートに翡翠と思わせるような緑の瞳。顔立ちも人形のように整っており、女性に見えてしまう。
「申し訳ありません、坊ちゃん。あまりにも坊ちゃんが愛らしくて、いつ、不審者が出てきて坊ちゃんに手を出すかと考えるといてもたってもいられなくなりました」
安斎と呼ばれた黒髪オールバックの執事は深々と頭を下げた。
「いやいや、過保護過ぎる。俺、男。一応護身術は使えるから」
安斎の言葉を否定する少年。その言葉に安斎は顔を上げ、黒炭のように黒い瞳で少年を見る。
「何を仰いますか。坊ちゃんは世界有数の財閥一条グループを束ねる一条家当主、一条千坊ちゃんなのですよ」
『一条グループ』その言葉を聞いたことのない者は日本にはいないだろう。いたとしても、人口十人ぐらいの田舎あたりだろう。それだけ一条グループは有名なのだ。そのグループの頂点に立つ当主はこの少年、一条千である。
「…あのな、当主は父さんだろ。俺は当主でもなんでもない……まぁ、跡取りではあるけど」
千は呆れた顔で否定する。自分はそんな大それた人間ではないと自分に念を押すように。
「確かに、坊ちゃんの父である旦那様は一条家のご当主であらせられます。しかし、今や旦那様は奥様と共に海外へと仕事で長期滞在中。その際、一条グループが束ねている企業すべてを坊ちゃんにお任せになった。すなわち、坊ちゃんがご当主として認められたのと同じです」
「いや、それは跡取りだからだよ。第一、俺には……」
「まぁ、あんな下品なデブ狸がご当主より、世界一愛くるしい坊ちゃんがご当主の方がより企業は回り大きく成長し、私の心が満たされ、『愛の坊ちゃんメモリー』がまた増えるのです」
「それが本音じゃないかーー‼︎」
千の叫び声が空高く響き渡った。
「あっはっはっは!!」
白を基調とした埃一つもないキッチンで右目に大きな傷がある茶髪のメイドが男のように大笑いをしていた。そんなメイドに溜息を吐く千。
「もが姐、笑い事じゃないよ。こっちは精神を抉られるほど疲れているんだ」
「ははは、いや〜、あの上司も相変わらずだなと思ったんだよ」
もが姐と呼ばれたメイドは腹を抱えながら涙を指先で拭った。
「坊ちゃんも毎回ご苦労なこった。今日もまた、ここに避難したんだってね」
千は安斎から逃れるため、いつもキッチンへと避難する。今日も叫んだ後、ここへ避難したのだった。
「ああ、誰かあいつの頭を今すぐに治して欲しい」
そう言って、頭を抱えて沈む千。
「……最上、坊……ここを溜まり場にするな」
千ともが姐もとい、最上に向けて海より深い青い瞳をした金髪のシェフは言った。
「いいじゃないか柚鈴。ここには俺たち三人しかいないんだから」
「……確かにそうだが、だからと言って……」
柚鈴と呼ばれたシェフが苦い顔をした。
千の父は外国へ行く際、多くの使用人を連れて行ったため、この屋敷には千と安斎と最上と柚鈴しかいないのだ。
「だから、いいだろ?」
「……全く、お前という奴は……」
そう言って、千の前に綺麗に盛り付けられたスイーツを置いた。
「わぁ、今日も美味そうだな」
千は嬉しそうにスイーツにフォークを刺して食べた。口に入れた瞬間、スイーツの甘みが口の中で広がった。
「うん、美味い。流石柚鈴だな」
「……そうか」
嬉しそうに食べる千を見て、柚鈴は少し微笑んだ。その時、最上が食べている千に話しかける。
「なぁ、坊ちゃん。上司が言ってたのと同じ気持ちで、あたしも、あんたが当主だったらいいなぁと思ってるさ」
「……俺は跡取りだから、いつかは当主になる。だけど、俺にはそうなる器がない」
食べる手を止めて、否定する千。
「どれだけ勉強ができても、どれだけ色んなことを習得しても俺には背負う覚悟がない。だから、なれる資格がない」
「そんなことはないさ」
自分を否定する千に対して、最上は髪色と同じ茶色の瞳で見つめた。
「それ以前に、なれる資格とか覚悟とか、そんなの関係ないさ。坊ちゃんは陸軍上がりで女のなりそこないのあたしをメイドに、ヨーロッパで暗殺仕事をしてた感情がなかったこの朴念仁をシェフに雇ったのは他でもないあんただ」
「……誰が朴念仁だ……」
柚鈴が不機嫌そうに言ったが最上は無視して千の頭を撫でる。頭を撫でられて恥ずかしそうに顔を赤くする千を見て可愛らしいのか、クスリと笑った後、続けた。
「だから、資格とか覚悟とか関係なく、あたしらは誰でもないあんただから仕えたいのさ」
最上の言葉を聞いて千は胸が暖かくなるのを感じた。資格とか関係無しに自分だから仕えたいと言われて嬉しく思ったのだ。
「……それだったらあの上司も……そう思っているかもな……」
「そう、かもな……あいつは変態だが、なんだかんだでいい奴だからな」
脳裏に自分に微笑みかける安斎の姿が浮かんだ。
食べ終わったら、お礼を言おう
千はそう思った。
「坊ちゃんが、私のことを、そのように思って下さっていたなんて……」
「……は?」
千は聞き覚えのある声がする方を見る。柚鈴の後ろで安斎が感動で涙を流していた。
「えっ、安斎⁉︎お前、いつからここに」
「……お前が頭を抱えて沈んでいた時からここに」
「かなり前からいたのか‼︎というか、なんで教えてくれなかったの⁉︎」
「……作ったスイーツがあったから」
柚鈴の思いがけない言葉に千は「なんでだ‼︎」と、叫ぼうとしたら、安斎が自分の手を取った。
「坊ちゃん、一生ついて行きます……‼︎」
「あっはっはっは!やっぱり面白いなぁ」
「……片付け」
感動している安斎の後ろでまた、腹を抱えて笑う最上と片付け始めようとする柚鈴がいた。
結局、こうなるのか
呆れて溜息を吐く千だった。