第8話 セントフィリア一の大馬鹿野郎
その後の情報収集ではあまり目ぼしい成果はなく、わかったのはセントフィリア女学院卒業後の進路ぐらいだった。
卒業生には大きく分けて二つの進路がある。
一つは正規の魔法少女になる道、もう一つは一般社会へと帰る道。
「あとは王国に居住する人もいるみたいだけど、外部から来て魔力摘出を終えた人は、帰国する人が多い系」
「まあ、主目的はそれですからね。大方の人は帰るでしょう」
命も目的を終えれば、速やかに引き上げる予定である。わざわざ我が身を危機にさらしてまで、王国に居着く理由もなかった。
「でも、少なからず残る人がいるのは不思議系。住めば都の典型なのかも」
「そうですね。外部の人が居着くような土地であれば、治安は悪くないのかもしれません」
世界各国の魔法少女の原石が入り乱れるだけに、一概に治安が良いとは言いがたいが、少なくとも悪くない。それが命の漠然と考える、セントフィリア王国の姿だった。
「というか魔法少女の国がスラムだったら、かなり嫌だよね。夢がなさすぎ系」
「ごもっともです」
その言葉には、命も全面的に同意した。
ヒャッハーと奇声を上げながら、無法のままに略奪行為を働く魔法少女。そのような輩は、願わくば見たくなかった。
「それにしても、だいぶ近づいてきましたね」
窓の外に広がる大海原を眺めて、命がつぶやいた。
空も海も青一色だった風景にも変化があらわれ始め、命の視界の隅には小さな緑色の島国が映った。連なる山の向こう側は、海抜0メートル地点からは見えそうになかった。
「無人島っぽいよね。魔法で自給自足生活かな」
「どうでしょう。山の向こう側はよくわかりませんし」
未だに謎は残るものの、二人は進路方向から、近づきつつある島国をセントフィリア王国だと判断した。迫る上陸のときが待ち遠しいのか、根木は左右の足バタつかせていた。
「後三十分ぐらいで到着かな。ほんの数時間だったのに長かった系」
「この道のりもずいぶん濃かったですから。小旅行みたいでしたね」
命はすうっと瞼を落とした。思い返せば短い道中だが、様々な出来事があった。
初めて遭遇する、二人の魔法少女。
一瞬にして世界を移動する、大規模転移魔法。
そして、魔法少女が死に至る病であるという衝撃的な事実。
(なんだか、ずいぶんと遠くに来た気がしますねえ)
三時間にも満たない旅はあまりにも濃密で、命には少し疲れの色が浮かんでいた。特訓を積んだとはいえ、実践慣れしていない女装姿である。体力面よりも、精神面に疲労が蓄積されていたようだ。
(このあと、まだ入学式があるとか考えたくないな)
しばし休憩を取ろうとした命だったが、グイと制服の裾を引っ張られた。
「えー寝ちゃうの、八坂さん」
「ええ、少し疲れましたので」
不満気に裾を引く根木は、餅のように頬を膨らませていた。
「もう少しお話しようよ。さっきから難しい話ばかりだよ」
「難しい話ですか」
情報収集に徹した命の話は、根木にとって退屈なものだった。
彼女が会話に求めるのは、もっと能天気で意味が無いもの。友達との仲を深める、他愛のない話がしたかったのだ。
「ねっ、ねっ。良いでしょ。私は八坂さんのこともっと知りたい系!」
肩を揺らす根木の申し出は、命にとってあまり好ましいものではなかった。
(正直、これ以上情報を持っているとは考えにくい。無益な会話を続けるのも面倒ですし)
「うーん」と、命が悩ましい顔を浮かべていると、根木は袖を引っ張ったまま上目遣いで命を見つめた。
「……ダメかな」
「そうですね。楽しいお話をしましょうか」
半ば諦め気味に、命は根木の要望を聞き入れた。
この辺りが命の甘いところでもある。たとえ乙女の教育を受けようと、命の根っこの性別が変わるわけではない。どうしても、女性の甘える行動やワガママには弱い。
「本当! なら何の話からしようかな」
「根木さんの好きなお話に付き合いますよ」
殺風景な電車内に、根木の笑顔が咲いた。その表情のあまりに眩しさから、命は思わず目を背けた。人を利用しているという罪悪感が、心のなかでささくれ立つ。
(最後ぐらいワガママを聞いてあげますか)
命は、これで根木と那須とは別れようと考えていた。
誰とも関わることなくひっそりと、三年間の女学院生活を送るつもりだ。それは寂しい灰色の青春ではあるが、もっとも生存率が高い道のりである。卒業を待たずして死ぬ可能性まで浮上してきた今、自分はもっとストイックになるべきだと、命は己を律した。
(覚悟を決めるだけでは足りない。覚悟の総量を高めるぐらいでないと)
自分が生きるためには、ときには誰かに嘘をつかねばならない。ときには誰かを騙さなければいけないし、ときには誰かを傷つけなければいけない。場合によっては、口封じをする必要だってあるかもしれない。
(そういう意識が、そういう覚悟が、私には圧倒的に足りない)
現に命は根木を騙しているこの状況に、わずかばかりに罪悪感を覚えている。それでは甘いのだ、利用して切り捨てるぐらいでなければ。そう命は自分に言い聞かせた。
「八坂さんの趣味は?」
「強いて言うなら、ゲームと映画ですか。ゲームは古典的なRPGが好きですね。こつこつレヴェル上げするのが好みです」
「へー意外。もしかして女勇者や女魔法使いに自分の名前を付けちゃう系?」
命は曖昧な笑みを浮かべて、お茶を濁した。
根木の推測は惜しい。命が名前を付けるのは男勇者と、男魔法使いだった。
(ふふっ。そう言ったら、どんな顔しますかねえ)
目の前の人物が"災厄の象徴"と呼ばれる存在だと知ったとき、この向日葵のような温かな笑顔はどのように変わるのだろう。その笑顔は消え、失望され、忌避される存在に成り下がるのか。
(私は……何を考えているのですかね)
それが嫌だと思う自分が、心のどこかにいた。
(こんなことを考える私が、甘いのでしょうか)
笑えば笑うほど、どんどん命の表情は嘘臭くなる。鏡を見る必要などない。心のなかからでも自分の顔がハッキリわかる。
「じゃあ映画は、映画。どんなのが好きなの? 甘酸っぱい系、アクション系?」
「雑食なので何でもいけますが、たとえば――」
命は通学カバンからクリアファイルを取り出すと、それを根木へと渡した。
「わあ。半券がいっぱい入ってる」
「こういうのを集めるのが好きなもので」
根木がパラパラ捲るページには、映画の半券のほかにも電車の切符など、これまで命が集めてきた思い出の品が大事に保管されていた。
「あっ、この映画見た。こっちも見たことある」
「根木さんも、意外と映画好きですね」
「うん。映画は良いよね。感動の宝庫だよ。それにしてもこのラインナップは……」
ニヤニヤと、根木は口元を緩めていた。
「あの……どうかしましたか」
「えへへ。八坂さんはベタな作品が好きなんだね。難しそうな作品が好きだと思ってたから意外だと思ってさ」
半券を幾つか見るだけでも、命の嗜好は簡単に読み取れた。それは本人も承知のことなので、包み隠すことなく認めた。
「ええ。だって、誰だってハッピーエンドが好きでしょう」
ハッピーエンド主義者は、偽りの仮面をかぶったまま談笑を続けた。
ときには、うずうずした那須が会話に混じってきて、「安静にしてなさい」と根木に怒られる一幕もあった。
命が無駄と思った会話は思いのほか楽しく、だからこその名残惜しさが湧いてくる。こんな時間も悪くないと感じたときには、この旅はもう終わりに近づいていた。
――この電車が終着駅に着くとき。
(入学式のどさくさで、彼女たちとは別れましょう)
二人との別れも近い、と命は悲しげに考えた。
◆
海辺駅カフラン。
道なき海を渡り橙色の車両が辿り着いた先は、島国の東南端に位置する海辺の停留所だった。地面に乗り上げた車両は、トタン屋根がかかっただけの粗末な乗降場に入った。
数時間ぶりに外に出ると、潮風の匂いが命の鼻をくすぐった。
「あの……ご迷惑おかけしてすみません」
「いえ、お気になさらず」
命は、半病人の那須を背負って歩いていた。普段であれば背中に当たる柔らかな感触にドギマギするところだが、生憎今はその感触に浸る余裕はなかった。
(何をやっているのですか……私は)
小柄とはいえ、根木よりも体格が良い命が那須を背負うのは道理に合っている。しかしこの場合、道理に合うかどうか以前の問題である。
「八坂さん大丈夫、手伝おうか?」
「大丈夫です。荷物を持ってもらえるだけで十分助かります」
違う――と、命は根木から顔を背けて歯噛みする。
(背中の荷物など捨てれば良いでしょうが。喜んで渡せばいい)
目的に徹するのであれば、那須は捨て置けば良い。
それこそ突然人が変わったと思われても構わない。虫けらのように扱って、根木もろとも捨て置いて先に進めば良かった。
「あの、八坂さん……ありがとうございます」
「……どういたしまして」
埋まることのない理想と現実の距離に、命の苛立ちは募る一方だった。
他人の前で良い格好をしたい。病人を捨て置くことができない。目的に徹しきれない自分が、嫌で嫌で堪らなかった。その場で長い黒髪を掻きむしり、叫びを上げたい衝動が熱を帯びる。
「初めに会えたのが、八坂さんみたいな人で良かったよ。これからもよろしく系!」
「いえ、こちらこそ」
どろり、と。
命の心のなかで、粘つく黒い感情が湧き上がる。堤防で押し止めようにも、暗い感情は止めどなく嵩を増し続ける。壊れた蛇口から落ちる黒い水は、危うい水域にまで達していた。
まるで表面張力だけで、収まるグラスの水のように。何かの拍子で、黒い水が堤防を乗り越えそうだった。こうして歩いているだけで、何かに噛み付きそうな命がいた。
(荷物をしかるべき場所に預けたら最後です)
それが先延ばしであり都合の良い目標であることは、命とて重々承知していた。けれどそうして誤魔化し続けないと、何かが壊れてしまう予感があった。防衛本能は常に警鐘を鳴らしている。
「八坂さん、顔色悪いけど本当に大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ」
命が足を向ける先には、魔法少女の集団がいる。優に百人を超える集団が、ここ海辺駅カフランに上陸していた。
「私たち以外にも乗客がいたんだね」
根木の言葉に答えず、命は橙色の車両を眺めた。それはよく見れば、新宿駅から三人を運んだ車両とは細部が異なっていた。
(旧車両ですか)
大規模質量転移魔法――戦乙女の門。
その影響が及んだのは乗客の命たちでけであり、電車そのものは対象外であった。命は電車ごと移動したと思っていたが、国分寺から先の海上を走る車両は別物であった。
(何でよりによって同系統なのですか。わかり辛くて仕方ない)
見落とした事実にどれだけの意味があったかではなく、見落としたという事実が命のなかの苛立ちに拍車をかけた。些細なことが妙に気になり、命の癇に障った。
「別車両にも乗客がいたとは、おどろ木ももの木さんしょの木系!」
「……一度確認したのに」
別車両から降りてくる乗客を見る二人の態度は、対照的だった。
はしゃぐ根木に対して、命は冷ややかな視線を集団に送っていた。
褐色から金髪、翡翠の瞳の少女など多様な国籍の魔法少女。このなかの誰もが、自分の秘密に勘づく可能性がある。心のなかに暗鬼が生まれると、命は瞳に映る人たちが全て敵に見えてきた。
「わわっ、外人さんが一杯だよ」
「……別に珍しくないですよ」
隣で外人相手に手を振る根木の姿が、命の神経を逆なでした。少し厳しい物言いをしたが、当の本人は気づかぬまま手を振り続けていた。
命は警戒を怠らない。油断ならない、周りは敵だと、人だかりから遠ざかる。一刻も早く背中の荷物を下ろすことだけを考えていた。
皮肉なことに、それが命の足元の意識を疎かにしてしまった。
「――ッ!」
ぐらりと姿勢が崩れ、身体が前のめりになる。古典的な足かけで転げた命は、那須を投げ出して地面へと倒れた。
「大丈夫、八坂さん!」
根木の声は耳に入らなかった。命の意識は鋭い視線とともに、足をかけた人物へと向けられていた。
「あら、悪かったわね」
足をかけた当人は上から見下し、全く悪気を感じさせない声音で謝った。
少なくとも日本人ではない。国籍までは特定できないが、絹のような長い金髪を持つ少女だった。目鼻立ちが整ってはいるものの、その性の悪さが表情には滲み出ていた。
「……何の真似ですか」
「まあ怖い。野犬みたいな目をしているわ」
下から睨め上げる命を気にせず、金髪少女は上から煽り続けた。
言葉が異なる者同士の会話が通じる。その点について、命は驚きを覚えなかった。今、命のなかで先行しているのは怒りであり、大事なのは悪口が吐けるということだった。
「もう一度言いますよ。今のは何の真似ですか」
「勝手に転げておいて、言いがかりをつけるのは止めて欲しいわ」
態度こそ高圧的だったが、金髪の少女はわずかに怯んだ様子をみせた。煌めく長髪を翻して、隣にいる銀髪の少女とその場を後にしようとした。彼女の横につく銀髪の少女もまた容姿の整った、西洋人形のようだった。
「お嬢さま……苛立つ気持ちはわかりますが」
「わかってるなら黙ってなさい!」
金髪の少女は不快を露わにして叫んだ。慣れない旅に苛立ちを覚える彼女には、銀髪の少女の宥める声も届かない。
「あら」
偶然足元に転がる物を見つけると、金髪の少女は意地の悪い笑みを浮かべた。何かをことさら強調するように、彼女はそれを踏みつけた。
(――あっ)
踏みつけられたのは、命が購入した電車の切符だった。転んだ際にポケットから落ちた切符は、瞬く間に汚いゴミにされていく。
「悪いわね。このゴミ捨ててくれない」
悪意に満ちた表情で、金髪少女は切符を踏みつぶした。命の記念品を、遠路はるばる来た道のりを嘲笑うように。
(いや、どうでも良いか。切符なんて)
転移した世界で切符で必要とは思えなかった。ここには券売機も改札機もない。
(第一ここで噛み付いて、何になるのでしょう)
自問の先にあった答えは、何もなかった。悪戯に騒ぎを広げてリスクを背負う。その行動のどこに得があるのか、命の思考は冷えきっていた。
(ああ……また、この音か)
じゃらり、と見えない鎖が擦れる音がした。鎖は命の行動を制限する象徴だった。苛立ちを飲み込み、命は諦観する。もう止めよう。ただ身を引けば良いと。
「ちょっと待てやゴラあああああああああ――ッ!」
甲高い叫び声がキーンと響くと、少女たちは同様に耳を押さえた。一同の視線は叫声を上げた根木の元へと集中していった。
暴言を吐かれた金髪の少女もまた、踵を返して根木を睨みつける。
「……まだ何か用かしら」
「何が、用かしらよ。謝罪だっつーの、謝罪。今すぐジャパニーズ土下座決めるか、ハラキリ決めるか選択しろ! ついでに言うと拒否権はない系!」
たとえ正義があろうと、根木の売り言葉は過激だった。今まで顔色を変えることがなかった銀の髪少女も、この言動にはわずかに顔を歪めた。
「貴方、馬鹿なんでしょうか?」
「うっさいボケ! バカ2号はスーパーシャラップ、ゴーホームだよ!」
バカ2号――2号の存在は、1号の存在を示すにほかならない。根木の言葉の意味するところを理解し、金髪の少女は眉間をひくつかせた。
「私が土下座・オア・腹切り所望なのは、そこのバカ1号だよ!」
大きく振りかぶった根木が指差す先。そこには、砕けんばかりに歯を食いしばる金髪の少女がいた。肩を震わせた彼女が怒りを魔法に乗せたのは、数秒後のことだった。
「そんなに死に急ぎたければ、今すぐ吹き飛ばしてあげますわ!」
「そっちがその気なら、出るとこ出ることも厭わない系だよ!」
金髪少女が風が渦巻まかせると、相対するように根木は黒い靄の塊を浮かべた。ここまで蚊帳の外で眺めていた命も、この状況には危機感を覚えた。
(不味い、私のスカートが捲れる……ではなくて)
風の魔法の影響を受けて、周囲の少女のプリーツスカートが捲れている。色とりどりの布地をさらして、キャアキャアと黄色い悲鳴が上がっているも事実である。だが問題はそこではない。
「なによ、その可愛いパンツは! パンツの柄と人柄が合ってない系」
「人の趣味にケチつけてんじゃないわよ!」
根木が金髪の少女の子供趣味のパンツに文句をつけたが、やはり問題はそこでもない。
(不味い。根木さんがどうあがいても勝てる相手じゃない)
事前に互いの力量を教えあった命から見て、根木に勝機はなかった。この対戦カードは無謀を通り越して絶望的ともいえた。
金髪の少女を渦巻く風の魔力と比べて、根木の魔力は酷くいびつだ。本来であれば、黒い靄の魔法弾は球体を成す魔法である。
「早く謝らないと、ぶつけるよ!」
「ぶつける? その不出来な魔法弾を。笑わせんじゃないわよ、この野犬!」
金髪の魔法少女の余裕のある顔を見れば、命にも察しがつく。彼女は少なくとも後二つ、三つは魔法を隠し持っている。
対する根木の魔法は一つのみ。勝敗は火を見るより明らかだった。
(ちょっと待って下さい。何で誰も助けないのですか)
周囲の少女たちは、ただ顔を伏せていた。一人の少女の危機を前にして、加勢する者はいなかった。
「私をフィロソフィア家の気高き魔法少女と知って愚弄するか――ッ!」
金髪の少女――フィロソフィアが吠えた。その一声が決定的だった。渦巻く風は一層勢いを増す。
「ちょっと、フィロソフィア家って」
「魔法少女輩出の御三家じゃありませんか」
「触らぬ神に祟りなしですわ」
一歩、二歩、と集団が後ろに下がる。恐れを成す集団の姿を目の当たりにすれば、無知な命だって直感的にわかる。フィロソフィアとは、喧嘩を売ってはいけない相手の名前なのだ。
「ちょっと不味いですよ。私のことは良いので引いて下さい」
「八坂さんは黙ってて!」
親切心からかけた命の声も、激高する根木には届かなかった。
(……黙ってて? ふざけないで下さい。貴方が台無しにしているんじゃないですか)
とぷん、と。グラスから黒い水があふれた。最後の一押しは、根木の言葉だった。波打っていた命の感情は、とうとう防波堤を越えた。
「……ですか」
今まで押し止めていた黒い感情が、命の喉を滑り落ちた。
「何が黙っててですか! 勝手に人の騒動に頭突っ込んでおいて。私が良いと言っているのだから、さっさと退いて下さいよ。正直迷惑なのです!」
命は止まらない。感情のままに噛み付いた歯を離さない。
「薄々思っていましたが、貴方馬鹿なんじゃないですか!」
「ええバカですとも。私のチャームポイントがどうかしたの!」
「馬鹿なら、さっさと引いて下さい!」
「嫌だね。断固断る系だね!」
数分前まで電車旅行を満喫していた二人は、額をぶつけ合わんばかりの立ち位置で互いを睨み合っていた。
「何しているのですか、この人たち」
「さあ。野犬の考えることなんて、私にはわかりませんわ」
銀髪の少女とフィロソフィアは、突然の仲間割れを呆れるように眺め、その整った顔立ちに嘲笑の色を浮かべていた。
(ああ、もうムカつく、ムカつく、ムカつく、ムカつく――ッ!)
嘲る金と銀の二人の魔法少女の存在が、考えなしに頭を突っ込む馬鹿の存在が、女装をして自分を偽るふざけた運命が、自分を取り巻く人間、その環境全てが命の苛立ちを加速させた。
(何で私ばかりが――ッ!)
見えない鎖は、命に幾重にも巻き付いていく。何かに触れる度に自由が封鎖されていく。息苦しくて堪らないのに、その鎖を破らないことが、命にとって何より大事だった。
矛盾した感情がせめぎ合い、命のなかの憤りはどんどん高まる。
(私だって、本当は)
ぐっ、と命は拳を握り込んだ。鎖で縛られる自分とは違う、根木に怒りを覚えていた。感情のままに振る舞える根木が、妬ましかった。
本当は――命が一番怒りたかった。
「何で貴方が怒るのですか――ッ!」
「怒るよ! 私は友達をバカにされて、黙っていられない系なんだよ!」
「……友達」
予想外の反論に、命の言葉は止まった。
(私が……友達)
友達。その二文字の衝撃は大きかった。命と根木は数時間とはいえ道中を共にし、友達の契りとして握手も交わした。表向きだけならば、確かに二人は友達といえたかもしれない。
「私と、貴方がですか」
「そうだよ、友達だよ」
さも当然のように根木が口から出す言葉は、命の口からは決して言えない言葉だった。
命は根木のことをカモとして捉えていた。純粋で騙しやすくて、女装の反応を伺うにもうってつけの試金石。オマケに命が持っていない情報まで持っているとなると、命はこの幸運な出会いをくれた神さまに感謝すら覚えていた。
「私と……貴方は」
「友達だよ」
迷いのない瞳で、根木は何度でも言う。
自分の言葉が正しい、と信じて疑わない目をして。
「今もまさにお互いの恥ずかしいところを晒し合ってる仲じゃん。恥ずかしいところを見られたフレンドだよ」
「でも私は、貴方を……馬鹿と言いましたよ」
「いいよ。バカなのは本当だし、友達だからね」
でもね、と前置きをしてから根木は続ける。
「友達をバカにした相手を殴りに行く。それを邪魔することだけは許さない。しかも相手は、友達の大事なものまで踏みにじった超極悪人なんだよ!」
(大事なものを、踏みにじった)
命は車両内での会話を思い出す。収集癖があって、映画の半券や切符を集めている。確かに命はそう言った覚えがあった。
(そんなどうでも良い話を……この人は)
言葉に詰まっていると、命は足首を掴む者も存在に気づいた。足元には、地面で寝そべる那須がいた。
「あの……友達同士の喧嘩は良くないです」
那須は、不安げな表情で二人を見上げていた。体調不良の影響か、どこか目の焦点はぶれている。投げ出された際に足を擦りむいたのか、右膝には出血の跡もみえた。
「……那須さんの言う通りですね」
そこで命が顔を伏せたのは、羞恥からくるものだった。顔から火が出る思いだった。これまでの自分の行為が浅ましくて恥ずかしくて、仕方なかった。
彼女たちを利用していた自分と違い、二人は純粋に命の身を案じていた。
そして――。
(こんな私を、まだ友達だと言ってくれる)
あとで二人に頭を下げなければいけない。
きちんと謝ってから友達になろう、と命は決意する。
(全く、この野菜のお姫さまたちは優先順位がおかしすぎる)
普通、優先順位の一位には自分を持ってくるものである。
なのに、命を友達だと言ってくれる二人は、その位置に容易く他人を持ってきてしまう。善良といえば聞こえは良いが、他人に漬け込まれる危うい思考である。
どうしてそんな真似ができるのかと、命はため息をついて考えを改めた。
つまるところ――馬鹿に優先順位などないのだ、と。
「ねえ。茶番に付き合うのも面倒だから、そろそろ先に行って良いかしら」
「うるさいですよ、そこのバカ1号」
「な――ッ!」
仲裁役だったはずの命が参戦したことで、フィロソフィアの表情は一変した。あくび混じりに成り行きを見ていた顔を、見る見るうちに紅潮させていく。
(全く、皆さん馬鹿ばかりですねえ)
自嘲気味に命は笑う。この騒動の中心にいるのは、馬鹿ばかりだ。
意地の悪い、フィロソフィア。
名家の金魚のフンをする、銀髪の少女。
自分を顧みず他人の心配をする、那須。
友達を馬鹿にされて怒りを覚える、根木。
揃いも揃って、馬鹿ばっかりだった。
(けれど、きっと私が一番でしょう)
怒りで身体を震わせるフィロソフィアを無視し、命は根木の頭を撫でた。
「すいません、馬鹿と言ったことは謝ります。貴方は私なんかより余ほど頭が良い、私の大切な友人です」
根木はくすぐったそうに頭を動かした。嬉しさや恥ずかしさが交じり合う気持ちが、自然と心をこそばゆくさせ、頬を桜色に染め上げた。
「でもね、根木さん。一つ教えてあげると、その攻撃魔法では駄目ですよ」
根木を背中に隠すと、命は右手をかざした。
「この黒い靄の魔法は、もっと魔力を込めるとどんどん大きくなるのです」
命の掌から黒い靄が漏れだした。靄は徐々に空気に浸透し、空気を黒く染める。
「十分に黒い靄を捻出したら、余すことなくぶつけるために、球体に成形します」
不定形だった黒い靄は塊に、やがて巨大な黒い球体へと成形された。
「ちょっと、嘘でしょう」
「あの黒髪の子、本気なの」
「相手は御三家の一人ですわよ」
命の生成する黒い魔法弾を見て、気付かぬ者はいない。ここに命知らずの馬鹿がいると、波が引くように集団が離れ始めた。
混乱する場など、命には関係ない。命はすでに優先順位を入れ替えた。じゃらりと音を立てる見えない鎖も、今の命を縛る枷とはなり得ない。
黒水晶の瞳は、ただ敵を見ていた。金粉を混ぜたように輝く髪の持ち主を。
命の次の一手が読めるからこそ、睨まれたフィロソフィアの声は震えた。
「……ちょっと待ちなさい。そんな大きい魔法弾つくってどうする気なの」
「あとは、的に向かってぶつけます」
命は邪魔な鎖を引き千切り、かざした右手を勢い良く振り下ろす。
次の瞬間。
半径1メートル級の黒い魔法弾が着弾した。
平穏な女学院生活と引き換えに、命は吹っ切れた。