第31話 ビターライフに角砂糖の慈悲を
女装問題について手打ちを済ませた命とリッカは、早朝から学食棟のカフェ・ボワソンを訪れた。目的は今後の活動についての話し合いのためだ。
「いらっしゃいませ」
「いつもの2つ。いや、あたしはトーストで良い」
見慣れた金髪碧眼のウェイトレスに告げると、リッカは窓際寄りの二人がけの空席に着いた。後に続いて命も腰を下ろす。
(早朝は、客層がまた優雅ですねえ)
まばらな客席にいる女生徒は落ち着いていた。新聞を広げてコーヒーを飲む者など、朝の静けさを彩る花はおしとやかだった。
入店してから待つことおよそ十五分。
隠れ朝食メニュー、エッグベネディクトが届いた。プレート皿のふちを瑞々しいレタスが囲み、アクセントとしてプチトマトが赤色を添える。
プレート皿の中央では、主役である半月状のイングリッシュマフィンが存在感を示す。ほのかな焦げ目の上にはベーコンの絨毯が敷かれ、その上に乗る白い膨らみがプルンと震えた。
命がフォークで突くと、とろりと黄身が流れ落ち、マフィンに染みこんだ。
(これは豪勢な朝食ですね)
黒髪の乙女が鮮やかな朝食に見惚れるなか、リッカはふわふわ熱々のフレンチトーストをフォークで串刺しにして、口へと運ぶ。
「熱いうちに食べた方がいいぞ」
「……そうですね」
リッカの野性味あふれる食べ姿を見て、命は微笑みながらも顔をこわばらせた。彼女のフォークはみるみるうちに、フレンチトーストを破壊していった。
「リッカ、この食事どう思いますか」
「美味しい」
「うん、そうですね」
溝は埋まらないだろうなと、あきらめた。色鮮やかな見た目を楽しみながら、命はエッグベネディクトを崩した。
二人の食事に対するスタンスは、そのまま時間に反映された。命が朝食を食べ終えるころには、リッカはすでにエスプレッソで一服していた。
「手前、食べるの遅いな」
「リッカが早いのでは?」
「そうか? こんなもんだろ」
腹に入れば同じとまではいわないが、リッカの食事に対する考えは男性寄りだった。これでは、どちらが女装しているのかわからない。命は念のために、もう一度確かめてみることにした。
「そのエスプレッソはどうですか」
「これも美味しい」
「うん、そうですね」
この人、食レポできない人だなと、命は結構失礼なことを考えていた。
そんな視線を気に留めることなく、リッカは体操着のポケットから文庫本を取り出した。無理に突っ込んだ文庫本はよれよれで、几帳面な命にとっては信じられない本の扱い方だった。
「話は、手前が一服して落ち着いてからにしよう」
店内に流れる邦楽にときおり身体を揺らしながら、カフェ・ボワソンの女神は読書にご執心だった。片手で掴んだ文庫本のページを親指で次々と弾いていく。
「あの……リッカ」
「なんだ」
「その本、汚れていますね」
「古本だからな。お得」
「その本、面白いですか」
「まあまあかな」
(まあまあ、いただきました!)
別の表現があったことに、命は一安心する。本まで美味しいと言われるかと怯えていたからだ。かなり失礼な上に、お節介な心配である。
静かに見守ること十分、リッカの読書の時間は終わった。機を見計らい、命はまた尋ねる。
「読むの早いですね」
「速読だよ。いっぱい読めたら、嬉しいだろ」
「そうですね。面白かったですか」
「うーん……」
眉をひそめ、リッカは少し考えた。表現豊かな感想がいただけるのではと、命が期待しながら待つなか、彼女は答えた。
「なんやかんやあって、まあまあかな」
「うん、そうですね」
「いや、その反応はおかしいだろ。手前この本読んだことあるのかよ」
リッカが、文庫本を命の眼前に差し出す。釣られて命も覗き込むも読めない。いまだに解読不能な魔法文字だった。
「いえ、知らない本ですね」
「ったく。適当な返答しやがって」
少しむくれるリッカと裏腹に、命は言い知れない違和感を覚えた。
なにかがおかしいと。
どこか奇妙で穏やかな朝方の時間。
ほのぼのと時間を過ごしていると、遠くで鐘の鳴る音が聞こえた。
講義開始の合図を他人ごとのように聞き流し、リッカは当たり前のように、命は素知らぬ様子で講義をふけた。
居座り続ける二人の女生徒を、女店主が呆れ顔で見つめていた。
「この不良娘どもめ」
命が人知れず『黒髪の不良乙女』の称号を手に入れた瞬間だった。それも黒髪の乙女の現状を考えれば、仕方のない話だ。
入学前の戦闘行為:1回
入学式の睡眠行為:1回
無断飛行による規定違反:1回
学院内敷地における戦闘行為:1回
カフェ登校における自主休講:1回
これが現在の命の輝かしい記録だった。
明日の身体測定を故意に休む予定も含めると、命は絶え間なくイエローカードを連発し続ける。もはやレッドカードでなければセーフの精神である。
◆
セントフィリア女学院は、在籍学生数2,000名強を誇るマンモス校である。本人の自主性に任せて履修を組むことが可能ではあるが、必修科目もあるので一限目からの登校風景も圧巻だった。
そのなかでも今の時間帯は遅刻組だ。懐中時計を持ったピーターラビットのように――いやその表現は可愛すぎた。
魔力を込めた加速装置で、乙女の快足を飛ばす者、誰も見てやしねえと箒や杖で空を駆ける者、なかには白馬に跨って登校する者すらいた。
(はあ、なんか凄い光景ですねえ)
女生徒が無駄に研鑽した実力を発揮する。
その光景を、命は4階のカフェ・ボワソンの窓から眺めていた。そうして時間を潰している内に、リッカが戻ってきた。
「悪いな、待たせた」
「大丈夫です。待ち時間も十分楽しめました」
戻ってきたリッカは、体操服姿から女学院指定の制服姿に変わっていた。第二女子寮に戻って着替えてきたのだ。
「ずっと体操服では居心地も悪いでしょう」
「うんにゃ、着替えは本の調達のついでだよ」
返答は可愛かったが、内容はそうでもない。
命としては体操着が恥ずかしいとか、そういう乙女チックな理由を期待したのだが、リッカにそういうものを求めるのは酷のようだ。
嬉々として見せる古本も、やはりよれよれである。
(彼女は何を着ても様になる、それが問題かもしれませんねえ)
リッカは元の素材が良いので、服装を選ばなかった。
顔の造形もだが、特にスタイルが良い。
すらりとした肢体は長くなめらかな曲線を描き、こうしてただ歩いてくるだけでも、女優がウォーキングするような優雅さがあった。
(ああ、その足が羨ましい)
命が女性と間違えられる原因の一端として、160cmを切る小柄さが挙げられる。優に10cm以上高いリッカがハイヒールでも履こうものなら、とてもじゃないが隣など歩きたくなかった。
黒いニーソックスに包まれた美脚を、命は恨めしげに見つめた。
「なんだよ、ジロジロ見るなよ恥ずかしい」
椅子に座るリッカは、さっと両手で脚を隠す。全部は隠し切れないが、せめてもの意思表示だ。
女性同士ならまだしも、リッカの目に映る命はすでに男性である。異性に脚をまじまじと見られるのは、気恥ずかしかった。
意識すまい、意識すまいとするほどに、彼女は逆にどつぼに嵌まり、わずかに頬を赤く染めた。
そんな二人の元に注文を取りに来たウェイトレスは、今はお客様もはけている時間帯なので、二人の話題に乗ってきた。
「良いですよね、リッカちゃんの脚。本当に美脚って感じで」
「ったく。褒めても何も出ねえよ、このウェイトレス目。ブルーマウンテン、ミディアムローストで」
(コーヒーの質が上がった!)
命は、リッカの機微を見逃なかった。
彼女は柔らかな緑髪をかきながら、その下の猫みたいな口元を隠していた。褒められて嬉しくない乙女は、この世に存在しないのだ。
命はエスプレッソを続けて注文する。これで十分美味しいので豆にこだわりはない――というのは建前。本音は金銭面が厳しいのだ。
1日の昼食代が一,〇〇〇イェン。
1日の宿泊費が一,五〇〇〇イェン。
これが、命の1日の生活日だ。
これに4月の残日数を乗算すると。
一,六〇〇〇イェン×残29日=四六,四〇〇〇イェン。
黒髪乙女、破産への道まっしぐらだった。
命の手持ち財産は一〇万イェン強である。
女子寮入居を遅らせた付けが、ここにきて響いていた。
女子寮暮らしと異なり、命は毎日宿泊費が発生する。その額、驚愕の一,五〇〇〇イェン。朝食夕食付きを考慮してもありえない額だった。
今どき高級旅館のワケあり部屋だって一万円を切るご時世に、あの宿屋アミューゼはその1.5倍を吹っかける、実に恐ろしき異郷のボロ宿である。
客商売なめていませんか、と憤慨する命は今日にでも他の宿を探す予定だ。
(とはいえ、それも一時しのぎに過ぎません)
多少宿泊費を抑えたところで、命の懐はすでに限界を迎えていた。乙女の秘めごとが明るみに出かけるなど、様々な問題に見舞われていたことで見落としていた問題、財政難ともそろそろ本気で向き合う必要があった。
(本当はコーヒー飲む余裕もないのですが)
あっ、自分は水でいいっす。
――なんて言える筈もない。
カフェに入店した以上は、身を切ってでも優雅にコーヒーを啜る所存である。この辺り、命は見栄っ張りといえた。
カフェ・ボワソンのメニューは正直安くはない。
命の感覚で言えば、女学生が入り浸る店でなく、一段ランクが高い社会人が落ち着く場所のように思えた。
それは、食堂棟の飲食店も同様である。
全階層を回ったわけではないが、命が知る階層はすべて下限一,〇〇〇イェンでメニューが線引きされていた。完全に価格協定を組まれていると、命はメニュー表から読み取った。
(結論、この国の魔法少女はボラれている)
魔法少女のお財布カードシステムの時点で、命は怪しんでいたのだが間違いなかった。この国は、魔法少女の卵からお金を搾取していた。
命は気づいてはいけないこの国の経済構造を見抜いてしまった!
もっとも、わかった時点でなんの意味もないのだが。
「おい手前、大丈夫かよ」
ぶつぶつ呪詛じみた言葉を吐く命を、不安げな顔でリッカがのぞく。大丈夫ですと返してから、命は意識を現実に戻す。
いつの間にか、机上には湯気を立てるエスプレッソがある。その注文品を見て、命は時間の経過を知った。
「リッカ、貴方のカードは何色ですか」
「あたしのカード? これのことか」
右手で制服のポケットを漁り、リッカが差し出したカードは、眩いばかりの黄金の輝きを放つゴールドカードだった。
――お金貸してください。
そう素直に開きかけた口に、命はエスプレッソを流し込んだ。ほろ苦い味わいが喉の奥へと広がった。
せめてコーヒーだけは甘くと、命は角砂糖を投入した。
(言えるわけないですよねえ)
犯罪者である自分を容認して貰うどころか、あまつさえ生活費までも甘えることなどできない。命にも意地があるし、見栄がある。
言いたいことも、言い辛いこともあった。
命は押し黙る。
カップの持ち手に自然と力が入る。
言うべきか、言わざるべきか。机の上に視線を落とし、静かに瞼を落とす。次に目を開けた瞬間、命は決意する。
「リッカ」
「なんだよ、改まった顔して」
しかし、弱さをさらけだすべきだと、命は最後にはその身を案じた。
他でもない――優しきカフェ・ボワソンの女神の身を。
「なんで貴方、左手の骨折を隠しているのですか」
カップを持ったまま、リッカが固まった。
まるで世界は凍りついたかのように時間を止める。店内を流れる洋楽だけが時を進むなか、命はただ黙って彼女の左腕を見る。
制服の長袖に隠した、折れた左腕を。
リッカが頑なに隠した、言い辛いなにかを。
時が動くまで、命はただ待ち続けた。




