第2話 女子校片道キップ
昔ながらの玄関引戸を開けると、命は帰宅を告げた。
「ただいま」
「お帰り命。自室で待っているよ」
父親――八坂士郎の声に導かれるように、命は父親の自室に向かった。
縁側近くにある父親の自室は、和に彩られた部屋である。
掛け軸や刀掛けに置かれた大太刀、脚付き碁盤。いかにもな小道具が和の雰囲気を演出していた。
「どのような用件でしょうか、お父さん」
「まあ立ち話もなんです。座って話しましょう」
柔らかな物腰で迎え入れられると、命は父親の対面に正座した。
行儀の問題でなく、命は好んで正座をする正座愛好家だ。どうにも正座で座らないことには収まりが悪いのだ。
命は湯のみを手で包み、冬の寒さで冷えた体を温めた。
「うー寒い。今日は一段と冷えますねえ」
お茶で暖をとる命を見て、父親は小さく笑みをこぼした。
「確かにそうですが、真冬の空を翔ける子が言う台詞ではありませんよ」
「あれはまた別です。冬場に食べるアイスクリームのようなものですから」
「冬場のアイスクリームですか。おこたの中なら尚良しですね」
「いいですね。我が家の居間も掘りごたつにしましょうか」
和やかに雑話を広げていたが、やがて命は父親の顔色を窺うように尋ねた。
「ええと……もしかして私が不用意に空を飛んだことにお怒りでしょうか」
「そうではありませんよ。翼ある鳥に飛ぶなという方が無理な話でしょう」
父親の普段と変わらぬ態度に、命は肩透かしを食らった。
セントフィリア学院への進学を決めてから、命の魔法の使用頻度は以前よりも高くなった。人に隠れての行為とはいえ、一般社会で魔法を行使するのは危ない橋を渡る行為に違いない。
(でも、せっかく使えるのですしねえ)
使えるなら魔法を使いたい、それが命の隠さざる本音だ。
サッカーや野球が得意は許されても、魔法が得意は許されない。そんな世界がもどかしく、ときに窮屈に感じるのも確かだった。
とはいえ、命に大それた野望があるわけではない。
魔法の力を持って世界の変革を成し遂げたいだの、流れる時を巻き戻したいなどの欲はなかった。ただ箒で空をのんびり散歩できれば、それで十分である。
もっとも、世界は狭量なのでそれも叶わないのだが……。
世界は魔法を受け入れてくれないと知ったときから、命のなかで魔法の価値は暴落した。幼少期にはあれだけ黄金の輝きを放っていた魔法も、今となっては埃にまみれた秘めごとだ。
「まあ、少しは後ろめたいところがあるなら自重するように」
「あはは、お見通しですか。それでは自重いたします」
心中を見透かす父親の言葉に、命は苦笑するほかなかった。
たとえ無害な魔法であっても、一般人が彼を無害と認めるかは別である。
息子の身を案じた言葉に対して、命から反論できることなど何もなかった。
(ただ、それが大事な話なのでしょうか。大事という割には、どうにも感触が軽すぎる気がします)
頭の靄は広がっていく。父親の指摘は雑談の延長線上であり、ついでに近いものに思えた。父親の真意がどこにあるのか、命にはいまいち掴めなかった。
「ええ、そうしてくれると嬉しい。何より貴方の身の安全が第一です」
「そうですね。どの道、進学先で魔法を使う機会は沢山あるでしょう」
「……進学先」
命の言葉を復唱する父親の声は、トーンが一段落ちた。
数秒ほど父親は線を引くように目を閉じていた。次に目を開いた父親は、その顔に決意を乗せて本題を切り出した。
この席を設けた、本当の意味を。
「大事な話というのは、その進学先についての話です」
「進学先の話ですか」
言葉が途端に重くなった。
進学先、いわばこれからの将来に関わる話である。
(まさか魔法学院への進学を取り止め、神道系の学校へ進学して欲しいとか)
唐突な話だけに驚きを隠せないが、命は本来であれば神道系の高校に進学する予定だった。それがある日、降って湧いたようにセントフィリア学院にすり替わり、魔法使い育成施設への進学を決めた経緯があった。
半ば両親の説得の勢いに飲まれた感もあるが、まあ魔法を使い収める良い機会だろうと最終的には命も承諾した。
(それがここにきて変わるようであれば、話が二転三転しすぎでは)
果たして自分の行く末はどこなのか。
あれこれと考えを巡らせる命に、父親は静かに問いかけた。
「命は、自分が進学する学校の名前をご存知ですか」
「セントフィリア学院でしょう」
「違います。セントフィリア――女学院です」
その返答は想像の斜め上だった。
頭の中を砂嵐が吹き荒び、ざあざあと鳴り響く。
思考エラー。チャンネルは砂嵐。
混乱する頭を働かせ、命は異常な前提を置いた上で答えを出した。
(いやいやいや、それではまるで)
「私が女子校に通うみたいな言い方じゃないですか」
「そうです。四月から晴れて貴方は女子校の一員です」
その一言が最後のダメ押しだった。
思考エラーで満たされた命の頭は、パンと音を立てて破裂した。
「私は、春から乙女満開なのでしょうか」
「そうです。桜前線上昇中です」
「キャッキャウフフなスクールライフでしょうか」
「そうです。かしましい女学院生活です」
「スカートなんかも履いてしまうのでしょうか」
「そうです。高校指定の制服でチラリズムです」
「私は花も恥じらう乙女として、やっていけるのでしょうか」
「大丈夫です。命には女装の神さまが微笑んでいます」
「実は私、女の子だったり――」
「しません。命は間違いなく男の子です」
命は静かに微笑んでから、ふらりと立ち上がった。
父親の和室から縁側に移動すると、サンダルを履いて庭の砂利の上を歩く。少し肌寒いが、今日は雲ひとつない清々しい陽気だった。
空を見上げていると、庭の植え込みから子猫が紛れ込んできた。
命がときおり餌を上げている野良猫だ。餌目当ての子猫は自らの可愛さを知っているかのように、足に擦り寄ってきた。
おまえは可愛いなあ、ほれほれ頭を撫でちゃうぞ。
あはは……うふふ。ゴロゴロ、ニャアニャアと、たっぷり数十秒ほど猫を可愛がってから、命は現実へ吠えた。
「何で最後だけ否定するのですかああああああああああああああああ――ッ!」
命の魂の叫びが、冬の天高い空を突いた。