第五話
あれから、美術室には行かなかった。何となく行きづらかったし、絵を描こうという気にもなれなかった。
何となく毎日、苛々していた。それを友人と遊んだりして気を紛らわそうとしたが気分は晴れなかった。
それがどうしてなのか俺には分からなかった。絵を描いていないからなのか、それとも別の理由なのか。
そんな日が何日も経った。そんなある時に友人がある情報を教えてくれる。
「あの転校生、また引っ越すらしい」
その話を聞いた時、俺の胸に鈍い痛みを感じた。このまま彼女と別れてしまったら、気分が晴れないような気がした。
そう思ったら自然と美術室に足が向いていた。
美術室のドアを開けようと手を掛ける。中から人の気配がする。一瞬、迷いが生まれる。どんな顔をして会えば良いのか分からない。
だが、開けなきゃ何も始まらない。気持ちを切り替えてドアを開ける。
「あっ」
久しぶりに聞いた彼女の声が耳に届く。彼女は筆を持っていた。机の上には紙が置いてある。その周りには絵の具が散らばっていた。
「久しぶりだね」
そう言って、いつもの笑顔でこっちを見てくれた。
「ああ、そうだな」
なんと返していいかわからず、何とか口から出た言葉はそれだけだ。そこから何とか会話を続けようと言葉を搾り出す。
「何をしているんだ」
彼女にそう聞いた。聞きながら自分で見れば分かるだろうと思った。
「うん、絵を描いていたんだよ。ちょうど完成した所だったんだ」
そう言って、こっちに絵を見せてくれた。それは原っぱに二人の男女が座って絵を描いている姿だった。それはあの時の俺と彼女の風景だった。
「良い絵でしょ。久しぶりに描いたんだよ」
彼女が自慢げにその絵を見せ続ける。本当に良い絵だと俺は思った。流石は何度も賞を取っただけの事はある。
「そうだな。何か暖かくて良い絵だな」
「ありがとう」
彼女はその評価に満足したようで笑みを浮かべながら絵を机に戻した。
そして、少しの沈黙の後に
「あの時はごめんね」
とそんな言葉が帰ってきた。
「何か傷つけたみたいで」
彼女がこちらを見ずに謝る。違う、本当に悪いのは俺の方だ。俺が一人でカリカリしていただけだったのだ。
「いや、俺の方こそ、何か苛々して悪かったな」
結局の所、彼女のお陰ですんなり謝ることが出来た。彼女が先に謝ってくれたお陰だ。
「うん」
こちらを向いて
「これで仲直りだね」
彼女はホッとした顔をした。それから少し陰のある微笑を浮かべて
「私、実はずっと絵を描いてなかったの」
と話し出す。
「ずっと、金賞を取っていてね。そして去年は銀賞だったんだよ」
どちらにしても素晴らしい成果だと俺は思ったが彼女は違ったようだ。
「去年の描いた絵はね凄く自信があったの。今まで描いたどの絵よりも良い最高傑作の作品だったの」
「それが銀賞だった」
「うん」
俺からしたら贅沢な話だと思えてならない。どちらにしても素晴らしい評価だ。それが彼女にとっては気に入らなかったようだ。
「あれ以上の作品を要求されても、私には想像が出来なかった。その後、色々試したけれども納得の行く作品を描けなくて、その内、描く事が出来なくなったの」
そういう事情があったらしい。頂点にいる人はいる人で悩みがあるものだ。
「そういう時に転校して、君とあったんだ」
彼女が締まってある絵を引っ張り出して見る。それは俺と彼女が会った時に俺が描いていた絵だった。
「あんなに真剣に描いている君を見て、何となく興味が沸いてね。それでつい、絵を覗き込んだら」
彼女がクスリと笑う。どうせ下手だよ。俺は心の中で思った。
「何かこの絵を見ていると思い出してね。どれだけ上手く描くかとか賞がどうだとか、そんな事を気にしないで、ただ楽しく描いていた頃を」
彼女は持っていた絵を机に置いて、彼女が描いた絵と比べて眺める。
「その後、何度か君と会っている内に、もう一度、絵を描きたいと思えるようになったの」
自分の下手な絵が人の為になるなんて感慨深かった。今まで絵を描いてきた事が少し報われた気がした。
「君のお陰で、また絵が描けるようになったよ」
彼女と目が合う。彼女がいつものおどけた感じじゃなくて真顔でこっちを見る。
「ありがとう」
真顔で言われたので少し恥ずかしくなって目を背けてしまう。彼女の方はそれを見て、いつもの微笑を浮かべていた。
「別に俺は何もしてないよ」
と取りあえず返しておいた。
そういえば、友人から聞いたこと確認するのを忘れた事を思い出す。
「おまえ、引っ越すんだってな」
彼女はそれを聞いて少し寂しい顔して頷く。
「また、父親の転勤か?」
「まあね。こればっかりは仕方ないからね」
と苦笑する。本当に引っ越す事を聞いて俺は少なからずショックを受けていた。そんな自分に驚いた。意外と俺は彼女に会うのが楽しみになっていたようだ。
「いつ引っ越すんだ」
「今週の日曜日に引っ越すんだ」
思ったより早かった。
「そうか……」
その後の言葉が見つからず、しばらく沈黙してしまう。手持ち無沙汰で俺は教室をウロウロしていた。彼女の方は自分の絵と俺の絵を眺めていた。
しばらく、そんな静かな時間が過ぎた後、
「ねえ、私を描いてくれない」
彼女がそんな事を言う。
「俺の絵は下手だよ」
俺が開き直っていうと彼女は人差し指を曲げて口に当ててクスリと笑って
「それでも君に描いて欲しいの」
そう言った。そこまで言うなら描いてみる気になって
「分かった」
と頷いた。それを聞いた彼女が
「何ならヌードになろうか」
といきなり彼女は自分の制服のボタンに手をかけようとする。俺は慌てふためくと彼女は笑って、
「君の画力じゃあ、まだまだ私のヌードは描かせられないな」
と言う。思いっきりからかわれた。まったくとんでもない事を言う奴だ。
「だって、あまりにも緊張した顔していたから」
と彼女に言われてしまった。頼まれて絵を描くのは初めてだったので顔が強張っていたのかもしれない。
「君らしく素直に描いてね」
彼女はその辺にあった椅子を持ち出して、そこに座る。俺も三脚を持ってきて準備をした。
「それじゃあ、よろしく」
俺が言うと
「はい」
と笑顔で言う。本当に楽しみな様だ。