弐
狐の隠れ里。笠間稲荷神社の鳥居をくぐると現れるその場所は、稲荷神に仕える狐精たちだけが立ち入ることを許された聖域。
そこでは、稲荷神の御使いたる白狐らが、思い思いの姿でのんびりと過ごしていた。
ある者は人と同じ姿をして畑仕事などに精を出し、またある者は狐の姿で野原を駆け巡っていた。中には、まだ上手く化けられないらしく、狐の耳や尻尾などをピョコンと生やしている者も居た。
折しも春真っ盛り。山には緑が生い茂り、花々が咲き誇る。
流れる川の水面では魚がキラキラと鱗をきらめかせ、川岸には草花が楽しげに風に揺られていた。
植えられたばかりの稲の苗も風になびき、田んぼの水が微かな細波を立てる。
人間たちが、科学の恩恵を享受し始め、捨てつつある風景。
そんな牧歌的な雰囲気の中、唇を噛みしめた弓人が、イライラと早足で歩いていた。
先日目にした悪夢のような光景。
どこに向けていいか分からない感情が、グッと握った掌に爪を喰い込ませた。
(なんだよ。あの男!)
男のことを思い出すと、必然的に公園での二人の様子を思い出してしまう。
仲良く肩を寄せ合って、手をつないで、親しげに笑い合って、接吻をして!
自分が存在し得ない距離感にいる男に、嫉妬の念を抱く。
(恵理も恵理だ。人間なんかに惑わされちゃって!)
そう思うと同時に、そうかと気がついた。
(彼女は気づいていないんだ)
弓人は自分の中で真実を作り上げた。
(恵理は唆されているだけ。あの忌々しい男に誑かされていて、自分を見失っているんだね―――俺が助けてあげなきゃ!)
過去、人間と狐精が契りを交わして、人間に裏切られた事例には事欠かない。
欲の深い人間に、純粋な狐精たちは必ず騙されてきた。
人間と暮らして幸せになった狐精など、一人としていないのだ。
(人間は必ず裏切る―――過去、歴史がそれを証明しているじゃないか)
弓人は一人納得する。
「俺が、助けなきゃ……」
良い考えだと悦に入った弓人は、彼女を救うべく、笠間稲荷に籍を置く里長や重鎮たちに根回しを始めるのだった。
彼らに弓人は告げる。
彼女は人間に、異国の男に騙されているんだ、と。
彼女は騙されていることも分からず、自分が何度も忠告しても聞き入れてもらえないのだと切々と訴えた。
更に言葉を重ねる。
きっと、恵理は、あの男から何か入れ智慧をされているに違いない。
このままでは、数百年現し世に産まれなかった玄狐を外国に連れ去られてしまうだろう、と。
「だから、何とかしなきゃないんだ」
弓人の言葉に、重鎮たちは色めき立つ。
やっと誕生した黒い狐―――黒き至宝。
彼女が連れ去られてしまうと聞いて、皆危機感を募らせたが、ただ独りだけ、決定をするべき里長は黙す。
それに焦れた弓人は自分に賛同する者たちを集め、彼女の保護を確約させた。
程なくして、里の中の雰囲気が一変する。
それは、妙にギスギスとした居心地が悪いモノだったのだが、狐たちは皆、それがおかしいとは考えもしなかった。
里長は社の前に佇み、稲荷神に問う。
―――黒き幼狐の恋は、はたして過ちなのだろうか、と。
里の様子を知らない恵理は、夢見るような眼差しでシリスに告げる。
「私、海の向こうの世界を見てみたいです」
無邪気に笑う恵理。
海の向こうに広がる世界を夢想して、気分が高揚する。
そんな彼女に見惚れたシリスは無意識に「じゃあ、一緒に世界中を見て歩こう」と誘った。
キョトンとしてシリスを見つめる恵理に、彼は顔を赤らめると照れくさそうに笑う。
「まだ、早かったかな。でも、僕はキミと一生を共にしたいんだ」
言われた内容に真っ赤になる恵理。
シリスは恵理の前に跪き、恭しく両手で彼女の手を取ると、手の甲にキスを落とす。
そのまま、低い位置から面を上げ、恵理の目を見つめたシリスは、真面目な表情で彼女に乞い願う。
「僕の奥さんになってくれないかい?」
そして、賽は投げられた。
初々しく繋がれた手は、まだ何も知らなかった。