壱
日本橋にある笠間稲荷神社東京別社。
笠間にある稲荷神社本社より御分霊を奉斎して建立された場所で、里の者にとっては本社とともに馴染み深い場所であった。
江戸時代末期、宇迦之御魂神の御使いたる狐精を娶った殿様が、江戸の屋敷に住まうことになった奥方を慰める為に建立したとも言われている。
江戸の藩邸の一角にある小規模な神社だが、その鳥居は本社の鳥居と同じように狐精たちの隠れ里への入り口でもあった。
そのため、狐精たちはこの場所も笠間にある本社同様、大切に御奉仕している。
いつものように恵理は別社の境内を掃き清めていた。
幕末の動乱期、明治の維新時、戦争の爪痕を残す戦後から復興を遂げている今現在まで沢山の変革を見守っていた分社。
その周囲は、時とともに姿を変えてきた。
以前、藩邸があった場所は、藩から別の者の所有となり、当時を偲ぶものはこの分社だけとなっていた。
小さな小さな聖域。
小さいけれど稲荷神の神気漂う、この静かな場所が恵理は好きだった。
毎日、心をこめて社を清める。
胡桃の樹の森があり、胡桃下稲荷とも呼ばれていたのは昔のこと。
地震や戦争で起こった大火で代名詞とも言われていた胡桃の樹も燃えて灰となってしまった。
「もう、何もないと良いのだけど……」
戦争で空襲に怯える子供たちも、食べるものも住む場所が無くなり、飢えや寒さに苦しむ人々も、それを強いるような時代も無くなればいいと願う。
恵理たちにとっては昨日のことのような動乱の世も、人間たちにとっては大昔の話になってしまうのだろうか。人の世から戦中の話は消えて久しい。
めまぐるしい世の中にあって、静かな時を刻む小さな神社を清め終わり、最後に神様に祈る。
(毎日が平穏でありますように……)
静かに佇む恵理。長い黒髪を二つのおさげにして、動きやすい恰好をしている恵理だったが、その一心に祈る姿は神聖で近寄りがたかった。
その凛とした後ろ姿を目にした青年は、彼女を見詰めたまま動けなくなっていた。
視線を感じたためか恵理が動き出すと、それに合わせて、金縛りが解けたかのように青年もパチパチと瞬きをする。
後ろを振り向き青年の姿を認め、そこに人がいると思っていなかった恵理は驚きのあまり言葉を無くした。
(外国の方……)
金の髪と青い目を持つ誠実そうな青年。
日本人とは違う彫りの深い彼の容姿に恵理は、どう挨拶すべきか首をかしげる。
(日本語、通じるのかしら?)
青年も幼さの残る少女の姿に、先程の凛とした美しさを醸し出していた人物と同じ人物かと驚いていた。
「……し、失礼」
自分の視線が余りにも不躾だったと気付いた青年が謝る。
彼が流暢な日本語を口にすると、恵理は安心したように顔を綻ばせた。
青年はシリスと名乗った。
彼の父親は貿易商をしていて、彼も父親の手伝いで来日したという。
現在、絹織物などの買い付け交渉のために東京に滞在していると話す。
それからというもの、シリスは暇を見つけては神社に足を運び、恵理に会いに来るようになった。
シリスはいろいろな国を渡り歩いていて、さまざまな言語や習慣に精通していた。
彼が異国の話を楽しげに話すと、恵理は初めて耳にする話に目を輝かせて聞き入る。
逆に、恵理が日本のことをシリスに教えれば、シリスは目を細めて愛おしそうに恵理を見つめた。
シリスの視線に気付いた恵理は、はにかみながらもふんわりと笑う。
その二人だけの空気が、とても愛おしいものだと互いに感じるようになるのは、時間の問題だった。
「恵理っ!」
ある時、近くの公園で散歩をしていた二人の耳に飛び込んできた青年の声。
それに続いて聞こえたのは、追いかけてくる足音。
呼ばれた恵理は立ち止まり、後ろを振り返って柔らかく微笑んだ。
息を切らせて走ってきた青年は、恵理の隣に立つシリスを睨んだ。
「この男、誰?」
妙に殺気のこもった視線にシリスは肩をすくめた。
「シリス、紹介するわね。私の親戚の弓人。弓人、こちらはフランスから来日されたシリスさんよ」
シリスはニコリと笑みを浮かべて「よろしく」と手を差し出すが、弓人は彼を睨んだまま「外人は嫌いだ」と吐き捨てた。
「弓人、失礼よ」
弓人の態度に恵理は慌てて彼を叱った。
その幼子を相手にするような恵理の様子に、弓人の眉根が寄る。
不機嫌そうな顔に、恵理はため息をついた。
「シリス、ごめんなさい。悪い子じゃないんだけど……」
「気にしないで、エリー」
シリスは、申し訳なさそうに謝る恵理の米神に軽くキスをして囁いた。
「僕も仕事があるから、そろそろ戻るよ」
「お仕事がんばってくださいね」
恥ずかしそうに頬を染めた恵理は、フランス語で返事をするとシリスと別れた。
二人の仲睦まじい様子を見て、悔しそうにギリリと歯を噛みしめる弓人。彼は、恵理の手を取ると、奪い去る様に彼女を連れて、神社へ向かっていった。
「恵理、外人なんかと仲良くするなよ」
「弓人? 何怒ってるの? シリスに失礼でしょう」
おっとりと注意してくる恵理が弓人は気に入らない。
弓人は、恵理が自分の知らないところで、自分の知らない人と仲良くなっているのが気に入らなかった。
しかも、自分の知らない言葉で話をしているのだ―――ますます面白くない。
本音を言えば、恵理が自分以外に興味を持つこと自体がイヤなのだ。
一生懸命にアピールはしているのだが、この幼馴染は、弓人の想いにまったく気が付こうともしていなかった。
「恵理は人が良すぎる。俺は異国が嫌いだ」
「異国が嫌いだなんて……貴方が好きなクッキーもケーキも異国から日本に来たものでしょうに」
弓人の言葉に恵理は困ったように首を傾げたが、そんなことじゃないんだと弓人は恵理を睨む。
恵理には弓人の言わんとすることが分からない。
どういう意味なのだろうと疑問に思うが、問いただしたところで、意味のわからないことばかりを並べたてられ、恵理に分かるように噛み砕いて説明してもらえなかった。
だから、恵理にできることは、どうしてそのような態度を取るのだと、困惑の表情を浮かべることだけだった。