鏡の向こう
紫の鏡という言葉を二十歳まで覚えていたら死ぬ。
都市伝説として有名な話の一つである。
都市伝説というのは、平たく言えば噂話の類で実体はない、言ってしまえば馬鹿馬鹿しい御伽噺だ。
しかし、少年は目の前の状況をみて、そう思っていられないのだった。
「はい注目! 明日二十歳になるあなたのために、私はやってきましたのですジャジャーン!」
そういってハイテンションに部屋の中を駆け回っているのは、まだ10歳ほどの少女である。もちろん彼に妹などいないし、こんな夜遅くに親戚の子が遊びに来ているわけもない。
少年は部屋の中央に胡坐を組んで、少女の駆け回る姿を目で追っているが、その表情は目の前の状況を理解できていない様子だった。
「えっと……お名前は何と言いましたっけ?」
自身より一回りほども年下の少女に対し、丁寧な口調で少年は尋ねる。深夜、突然自室に現れた見知らぬ少女に少年はどう接していいかわからず、当たり障りのない対処としての敬語だった。
少女は少年の目の前にぴょんと飛び上がり、そのままの勢いで正座をした。
「私は〝紫の鏡〟っていうのです!」
少女はそう言ってにっこり笑った。少年はそれにつられて苦笑する。
「それで、えっと、どうして僕のところに来たのでしょう?」
「あなたが明日、二十歳になるからです!」
「だから……それでどうして僕のところに?」
「二十歳になるからです!」
少女は同じことを答え、にっこり笑う。少年はどうしてよいか分からず、頭を掻いた。
「つまり、死神みたいなもの……ですか?」
「私をあんな野蛮神と一緒にしないでほしいのです!」
少女は頬を膨らませたが、幼い容姿では愛くるしいだけで怒っているようには見えない。
「死神さんたちは魂を狩りに来る存在なのです! 私のような都市伝説は、そんな野蛮なことはしないのです!」
「……で、どうして僕のところに?」
この声を聞きつけて母親が起きてくるかもしれないとビクビクしながら、少年は何度目かの質問をすると、少女は人差し指を立てて少年の目の前に突き出した。
「私は二十歳になる前なら誰のところにも行きます。都市伝説ですから、同じ時間に別の空間にいることなんて簡単なことなのです」
少女は真剣な調子で続ける。
「でも、みんなに見えるわけじゃないのです。紫の鏡の都市伝説を知っている人にしか、私は見えないのです」
少年は首をかしげる。少女は構わずさらに続ける。
「紫の鏡の都市伝説を知らない人には、都市伝説の効果が発揮されませんのです。都市伝説は、人に知られることで初めて効果を発揮するのです。知らなければ、ただの紫の鏡という単語で片付けられてしまいます。二十歳まで覚えていると死ぬなんて知らなければ、都市伝説としての効果はないのです」
「つまり、おなかがすいている人に食べ物を渡しても、それが食べ物ってその人がわからなかったら意味ないってことでいいの?」
「そんな感じなのです。わかってもらえて嬉しいのです!」
少女は嬉しそうに笑って指を引っ込めた。
本当に今の解釈で合っているのか、少年自身疑問だったがそれ以上は聞かずにおいた。
「うん、なんかわかったようなわからないような」
「今は曖昧でも、時が来れば嫌でも納得するのですよ」
少女は、聞き様によっては不気味なことをにこやかに言う。
少年が時計を見ると、日付が変わるまであと10分を示していた。
あと10分で、少年は二十歳になる。
「その、君たち都市伝説は、僕みたいな人のところにきてどうしたいの?」
「都市伝説業界にもいろいろあるのです」
少女はため息交じりにそう答えた。
「簡単に言ってしまえば、あなたも都市伝説になってもらうのです」
「はぁ……はい?」
突拍子もない発言に少年の声が裏返った。
「あ、希望は言うだけタダですよ。それが確約されたものというわけではないので、保証はありませんのですけど」
「希望って?」
「あなたがこのまま二十歳になった時、私たちのように都市伝説になるか、思念体になって彷徨い続けるか、希望は聞けますのです」
「その二択しかないの……?」
少年はややげんなりした様子で肩を落とした。少女はそんな様子の少年には構わず、嬉しそうに時計を眺めている。
あと五分。
そこで少年は気づいたように、少女に疑問を投げる。
「そういえばさ、都市伝説はどんなものでも君みたいに姿が見えたりするの?」
「もちろんなのです! その都市伝説を知っていれば、どんな都市伝説でも見ることができるのですよ」
「じゃあさ、都市伝説を回避する都市伝説もいるってことだよね?」
顔が引き攣った少女に気づかないまま、少年は純粋な興味本位でその名を口にする。
「水色の鏡とか」
その時、時計の針が12に達した。
少年も少女も微動だにせず、しばしの沈黙がおりる。
そして突然少女がその場にへたり込んだ。何事かと慌てながらも、少年は自分の体を見下ろして首を傾げる。
「あれ、なんともない?」
「うー……なんでよりによってこのタイミングでそっちを思い出すのですか!」
「え、あ、ごめん」
涙目で睨まれて少年は慌てて謝る。しかし、少年にしてみれば謝る道理はないのだが、生憎少年は女の子に泣かれて落ち着いていられるような性格ではなかった。
「あーあ、紫の鏡は失敗しちゃったのです」
「……えっと、水色の鏡は?」
先程、少女が都市伝説はその内容を知っていれば見ることができると言っていたことを思い出し、少年は恐る恐る尋ねてみる。
「そこにいるのですよ」
紫の鏡の少女はふてくされたように部屋の鏡を指差した。
少年の部屋にある姿見だ。少年はそこに目を向けるが、そこにはただ何の変哲もない鏡があるだけである。
「……いないけど?」
「恥ずかしくて出てきてないだけなのです。あの子は恥ずかしがり屋ですから」
そう言うと、少女は立ち上がって鏡に歩み寄り、躊躇いなく鏡の中に手を突っ込んだ。驚いて目を見開く少年を余所に、少女が鏡に触れたところからさざ波のように鏡が波打ち、手が吸い込まれていく。
「早く出てくるのですよ!」
少女はそう言って鏡の中に突っ込んだ手を思いきり引っ張った。ずるりと引きずられて鏡から滑り出てきたのは、少女と同じ年ごろと思われる少女だった。
「ふみゅっ」
妙な声をあげて床に顔を打ちつけた少女は、そのまま動かなくなった。少年は恐る恐る紫の鏡の少女に尋ねる。
「し、死んでないよね?」
「都市伝説が死ぬなんて面白いのです。できることならみてみたいのです」
物騒なことを平然と言ってのけた少女に対し、少年は若干距離をとってから倒れたままの少女を見遣った。
「えっと、大丈夫……ですか?」
「……大丈夫」
抑揚を欠いた調子で、水色の鏡と思われる少女が答えた。ゆっくりとした動作で起き上がると、紫の鏡の少女に隠れるようにして回り込み、それに紫の鏡が抗議の声をあげる。
「私を盾にするのはよくないのです!」
「……」
少女は紫の鏡をずいと少年の方に押し出した。そのまま自分自身も少年に近づいていく。盾を構えながら進軍する兵士のような図だ。
「……水色の鏡を思い出してくれてありがとう」
「あ、いえ、どうもこちらこそ」
少年は戸惑いながらも頭を下げた。
「あなた、現状わかってるのですか?」
紫の鏡が不貞腐れたように言う。少年は首を傾げ、
「えっと、この子が助けてくれたんじゃないの?」
そう言って水色の鏡を指して問う。紫の鏡は頬を膨らませて両手を腰に宛がった。
「全然わかってないのです!」
憤慨する紫の鏡を前に、少年はただただ首を傾げるばかりである。
実際、少年は今の状況を半分ほども理解できていなかった。しかし、最早どこから尋ねたらいいのか少年にはわからなくなっていた。
「あなた自分で言っていたのです。都市伝説を回避する都市伝説もいるのかって」
「う、うん、言ったけど?」
「都市伝説を回避する都市伝説も、結局は都市伝説なのです。だから、紫の鏡だろうが水色の鏡だろうが結果は同じなのです。ただ、その特性が変わるだけなのです」
「えっと……つまり?」
少年は自身が導き出した答えに冷や汗を浮かべつつ、わずかな望みを持って尋ねた。
どうか自分の考えが間違っているように、と。
しかし、残酷にも少女たちはその考えを否定しなかった。
「……あなたは、水色の鏡がもらう」
――と、まぁこんな話です。
その少年は結局、都市伝説から逃れられなかった。興味本位から都市伝説に喰われてしまった、極々平凡な少年の昔話です。
あぁ、信じられないのでしたら無理に信じる必要はありませんよ。
しかし、これは本当にあったことです。あなたが信じようが信じまいが、それは揺るぎない事実なのです。
――都市伝説から逃れる方法ですか。あなたもなんだかんだ言いながらこの話を信じることにしたと受け取っていいのですかね。どちらにせよ、私には関係ないと言えますが。
――勿体ぶるなですって? いえいえ、そんなつもりは毛頭ありませんよ。
都市伝説から逃れたいなら方法はただ一つです。
都市伝説を忘れることです。
――何を言っているんだという目はやめて下さい。
都市伝説は、人に認識されることで初めて意味をなすものです。たとえ存在していても、その存在を誰も知らなかったら、そんなものは存在していないのと一緒ですから。
さて、あと五分ほどでお時間ですが、どうしますか?
――でしょうね、わからないですよね、昔の私と同じです。ははっ、まるで鏡を見ているようだ。
失礼。別に馬鹿にして笑ったわけではないです。少し懐かしくなりましてね。
――あなたに残された選択肢はいくつかありますよ。紫の鏡の少女のように、どっちつかずの二者択一ではありません。しかし、あなたが真に助かる方法は、先程も言いましたが一つしかありません。
助かりたければ、都市伝説のことは忘れなさい。
それ以外にあなたが助かる方法はありません。あと五分ほどで忘れられるかは、絶望的といえるかもしれませんけど。
――あぁ、紫さん。あまり走り回らないでくださいよ。まったく、あなたは相変わらずですね。
あぁ、失礼。
それで、どうしますか? そうこうしているうちにもう三分ですが。
そこの紫の鏡に喰われるか。
都市伝説なんて綺麗さっぱり忘れるか。
もしくは、私のように――水色の鏡に喰われるか。
言っておきますが、白の水晶も同じ扱いですから、あなたの目の前に見える都市伝説が一つ増えるだけになりますよ。
……白の水晶はご存じなかったですか。それならばいいのです。聞かなかったことにして下さい。
――はい、なんですか紫さん? ……あー、白さんに聞こえてましたか、あとで謝っておきます。
あ、そろそろお時間ですね。あなたが最終的に選んだ選択がどんなものか、楽しみにさせていただくとして、まずはこの言葉をお送りしましょう。
――二十歳のお誕生日、おめでとうございます。
2010.6 執筆
2012.7 一部加筆修正
テーマ【都市伝説・鏡】