自転車とハイヒール
かすんだような曖昧な空を見上げながら、ゆず子は軽快な足取りで町を歩く。いつもなら、通勤通学でにぎわう通りだが、休日の朝だからか人は少ない。ゆず子自身も、普段ならまだ布団でゴロゴロしているだろう。
けれど今日は、大事な目的があったのだ。
ちらり、とゆず子は右手の紙袋を見る。中には長方形の白い箱。ゆず子は顔が緩むのを抑えられない。歩きながら、ちらちらと眺めてはにやにやしている。
周りの人々は、そのテンションとゆず子の容姿につい視線を送ってしまう。
薄茶のウエーブがかったセミロングの髪。ぱっちりとした目は、つけまつげとメイクでさらに大きく見える。
卵形の顔の下には、全体的にすらっとした体。春から夏にかかろうという時季だからか、半袖ニットに薄手のボレロを羽織っている。
スカートは、細かいフリルが何段もついたクリーム色。どちらかというとミニスカートといわれる部類の長さだ。
足下は、ベージュのストッキングにバックバンドのついたハイヒール。そして、手に持っている紙袋には、今さっき買ってきたばかりのものが入っている。
これを試着するために、今日はコーディネイトしてきたのだ。予想以上のハマり具合に、鏡の前で自画自賛したものだ。
そのまま身に付けて行くかと店員には言われたが、そんなもったいないことはしない。
これはとっておきの日のためのものなのだ。今はまだ出番ではない。
上の空ばかり見ていたゆず子は、地面に突っかかり、軽くふらついた。道行く人にぶつかりかけて、寸でのところで体制を立て直す。
どうやら浮かれているだけでなく、珍しく早起きしたのがたたっているらしい。
ゆず子は多少表情を引き締め、今度は前を向いて先ほどよりしっかりした足取りで歩き始めた。この辺りは同じ高校の友人たちもよく集まる場所だ。締まりのない今の状態を見られるのはかなり恥ずかしい。
右手に袋の重みを感じながら、ゆず子は少し歩みを早めた。
ふと、右横を誰かが通り過ぎた気配がした。
と同時に、右手の重みが消える。
目の先に、中年男性の後ろ姿。男は人通りを割るように走って行く。その手には、先ほどまでゆず子が持っていたピンクの紙袋があった。
(ひったくりだ)
一瞬遅れて事態を把握したゆず子は、頭にかっと血が上るのを感じた。体が熱くなってくる。その勢いのまま、男を追って走り出した。
(何やってんだ!私はっ!)
全力で足を動かしながら、自分の反応の鈍さを悔やむ。
ひったくりが人を割って進んでいるおかげで、ゆず子の方は障害なくまっすぐ走れている。運動神経がいい方なので、遅れを取るとは思わない。けれど、ヒールのついた靴や、レースのスカートが今は邪魔になっていた。距離は開いていないが、詰めることもできない。
誰かが捕まえてくれないか、と思ったが、皆いきなり走ってくる男に驚いてよけていくばかりだ。声を出して助けを呼ぼうにも、全力で走りながらはきつい。しかし一向に縮まらない距離に焦る。
(靴、捨てる?)
先ほどからもたつく足の感覚に、そんなことを考える。3秒迷い、やはりコンクリートのごつごつが痛そうだと却下した。
そうなれば、なんとか足の運びを早くするしかない。
ゆず子は、足に力を込め、加速した。
スタミナは若いゆず子の方に分があるはずだ。だいぶ疲れてきた自分にそう言い聞かせ、前方のひったくりの背中を改めて睨みつけた。
「ゆず子さん?」
ゆず子の耳に、少年の声が届いた。見覚えのある眼鏡の人物が視界に入り、思わず足が止まる。それまで前方に向けていた体の勢いは止まらず、前へつんのめった。
ガシャ、と金属のぶつかる音がしたかと思うと、ゆず子の目の前にチェックのシャツが迫っていた。
一拍遅れて、両肩にあたたかい手の感触がする。
「大丈夫ですか?」
ゆず子を受け止めた少年の声が上から響く。
顔を上げると、戸惑ったような瞳にぶつかった。
答えかけ、そんな時間はないとすぐさま思い出し、少年から離れる。と、足下にぶつかったのは、自転車だった。
ぶつかる前、少年が歩きながら引いていたものだ。ゆず子を受け止めるとき、手を離して倒れてしまったらしい。
(これだ!)
ゆず子は素早く倒れた自転車を引き起こし、靴を振り捨てる勢いで脱ぐと、サドルにまたがった。
少年は中途半端に両手を上げたまま、唖然としている。
「ごめん!!」
少年を見もせずにそう言い、ペダルをこぎだした。
自転車のおかげで、無事ひったくりから荷物を取り返すことに成功した。最後は勢い余ってひったくりに体当たりしそうだったが、うまくよけ、かつ男を転ばすことができた。
(さすが、私って天才?)
と心中で自分をほめておく。ただ、道に放り出された袋を拾って中身を確認している間に、男には逃げられてしまったが。
ゆず子は、道の端で自転車を支えにしながら息を整える。
自転車かごには、薄汚れた紙袋。中身がしっかり無事なのは、先ほど確認済みである。
ゆず子はかたわらの自転車を、ねぎらうようにポン、と軽くたたいた。と同時に、その持ち主である少年の情けない表情が思い出される。申しわけないと思いつつも、笑ってしまった。
「ゆず子さん?」
いくぶんぶっきらぼうな声がした。
顔を上げれば、眼鏡の少年が怒りと疲れを内包したような表情でゆず子を見ている。少しほおが赤く、ザックを背負った肩が上下しているのは、走ってきたためだ。少年の左手には、ゆず子が置いて行った靴があった。
「なににやにやしてんですかっ!」
少年の今度こそ怒ったような言葉に、ゆず子はごめんと小さく返す。けれど笑みを消すことはできない。くすぐったいような嬉しさがこみ上げる。
(お人好しな人だなあ)
とはいえ、それを知っていてやっている自分も自覚しているので、ちょっと反省する。自転車に寄りかかっていた体を離し、少年のところへ歩みを進める。
「ちょっとちょっと、僕が行きますって」
せっかちだなあ、と語尾につけながら、お人好しな少年は慌てて靴をゆず子の足下に置いた。
一瞬、ゆず子の脳裏にシンデレラの連想が浮かぶ。だが、目の前の少年はとても王子というイメージではない。むしろ王子に従う下っ端の家来だ。
ゆず子は靴を履き、ちょっとだけシンデレラを意識して言う。
「うん。ぴったり」
「当たり前でしょ」
間髪入れず、少年のツッコミが入る。苦笑で返すと、改めて少年に向き直った。
「どうもありがとう。自転車も靴も、本当に助かった」
ゆず子の真摯な物言いに、少年は思わずという風に破顔した。こちらの表情の方が似合うとゆず子はいつも思う。
「荷物、大丈夫だったんですか?」
ゆず子の肩越しに、自転車かごを見て少年が言った。
「うん。おかげさまで。袋は汚いけど、中身は大丈夫だよ」
ゆず子の返答を聞き、少年は一つ頷くと、自分の自転車へ歩み寄った。ハンドルを両手でつかみ、眉をひそめる。
「ごめんっ、何か壊れちゃってるの?」
少年の表情に気づき、ゆず子が言った。少年は勢い良く首を振る。
「あ、大丈夫!ちょっとハンドルの向きが変わってて・・・。よくあるからすぐ直る」
そう言いながら、ガチャガチャとハンドルを動かし、その場で直した。ゆず子にはどこが違うのかわからなかった。ともあれ、破損はないようなのでほっとする。
ついでだからと少年が駅まで荷物を持って行ってくれることになり、二人で通りを歩く。
自転車は少年が引き、その自転車をはさみ歩道側にゆず子がいる形だ。二人乗りをしようとゆず子が提案したら、恥ずかしいし規定違反だから嫌だ、と全く恥ずかしがってる風でなく言われた。
(ここで少しは照れるとかすれば、もうちょっと取っ付きやすいと思うんだけど)
客観的にゆず子は分析する。さらに言うと、それを言っても実行するタイプではないと、今は徐々にわかってきていた。
「それにしても、今度は何買ったんですか?」
呆れと不思議が混ざったような表情で、少年がゆず子を見た。
「今度はって、そんなにいつも買ってるような言い方しないでよ。靴一足買っただけ」
「この間、ブーツ買ってたじゃん・・・」
「冬でしょっ!もう季節は巡ってるのー」
ゆず子は言い返す。簡単に買い物ができるような金持ちだと思われてるらしいが、とんでもない。今回だって、地道なバイトで稼いで手に入れたとっておきなのだ。例えば、ちょっといい感じの男の子と遊びに行ったりするための。
駅に着き、荷物を少年から受け取りながら、ゆず子は言う。
「あのさ、今日のお礼に何かおごるから、今度何か食べに行かない?」
少年は少し意外そうな顔で言った。
「有難いけど、その靴買ったばかりならお金ないんじゃ?」
ゆず子は、今気づいたとばかりに表情を一変させた。目と口を見開く。
「おお、すごい表情の変化だ」
感心したように言う少年の言葉は耳に入らず、ゆず子は必死に言葉をつなぐ。
「あーのね、あんま高いのはまずいけど、マックくらいなら」
「いやいいですよ別に」
「いやでも、親切にされたらちゃんとお返しするってのが家の家訓でっ」
自転車にまたがろうとする少年のうでをとり、ゆず子は口からでまかせを言った。少年は苦笑する。
「了解です。じゃあまた今度」
そう言って、今度こそ自転車にまたがる。ゆず子を振り返って手を振った。
「じゃ、道中気をつけて」
「うん。またね。ありがとうね、翔君」
ピンクの紙袋を片手で抱きしめ、反対の手でゆず子も手を振った。
自転車が人ごみにまぎれると、ゆず子は紙袋を両手で抱える。この靴を履く日が楽しみで、うきうきしてきた。その勢いのまま、ゆず子は駅の階段を駆け上がった。