8:新しい馨りを身に纏い
湯船から上がった綾は、タミヤが用意してくれていた衣服を身体に合わせる。彼女の若い頃のだと言っていたそれは、細身の綾にピッタリだった。
タートルネックになった長袖の黒いワンピースは身体のラインに沿い、腿半ばまでの裾はクシュクシュと貝の口のようになっている。ワンピースに重ねた上服は、襟刳りが広く、袖が七分丈になっていた。生地は藍色を基調に、黄や白、緑や朱などで、蝶や草花の模様が淡く染め抜かれている。足は、黒のタイツで覆った。
「……動き易いな」
それが、綾の実直な感想である。衣服に関して、すべては運動性を優先し、そのために多少の露出があっても何の問題もないと思っている。
だが、タミヤが用意してくれた衣服は露出もなく、伸縮性が効いた。文句なしである。
落ち着いた色合いの衣服は綾に馴染み、心を静かにさせた。微かに左目を細める……と、表現するのには理由がある。綾は、右目を隠すようにして長い前髪を分けているのだ。
「あら! よく似合ってるわ」
脱衣所から出てきた綾に、タミヤはやはり笑いかける。
「若い頃の服、捨てないでよかったよ。ラカスには、もう着れないんだから捨てろって言われてるんだけど……ほら、あたしもさ、これでも綾みたいに細かったからね。どうしても捨てられないんだよ」
ふふふ、と、タミヤは苦笑をした。
「……体系など関係なく、タミヤさんは綺麗です」
「まあ、ありがとう」
綾の言葉に偽りやお世辞の響きはなく、タミヤは素直に受け取り、頬を染めて見せる。
しかし、綾自身は驚いていた。自然と出た言葉。
(私は……何を言ったのだ……?)
他人を褒める行為など、これまでにしたことがない。なのに、溢れてきたのは、親切にしてくれるタミヤへの想い。
嫌な感情ではないが、今までにそのような経験がないために戸惑うばかりであった。
(嫌、ではないのだ……だが、これでは落ち着かない。惑うてばかりいては、現状の把握に遅れが出てしまう……)
綾は生まれる感情を隠すように、そう思う。
「リョウ、これ」
不意に話しかけられ、耽っていた綾はすぐ返事ができない。
タミヤが目の前に差し出してきたのは、淡い桃色の細長い小瓶だった。
「これはね、プロフォン樹海にあるリズの樹の樹液で作った香油だよ。髪に馴染ませるといい」
ハイ、と、渡されて、綾は小瓶を傾ける。トロリとした乳白色の液体が、百合にも似た香りを伴って、掌に広がった。髪に馴染ませていると、さっそく効果が発揮されているような錯覚を起こす。彼女の濁りない黒髪に艶めきが宿った。
「リズの香油は他国でも人気があってね、よく商人が買い求めに来るよ。けど、魔物が出るようになってからは、なかなかあの樹海を渡れないんだ。香油の材料である樹液を採りに行くのにも一苦労さ」
タミヤは淋しげに表情を曇らせる。
「最近は、商人も旅人も、随分と減ったよ」
綾がこの国へ入った時、あっちにもこっちにも活気が溢れているように見受けたが、その勢いは衰えているのだという。
魔物の存在が人々を脅かし、暮らしを困窮させていく。
「魔物には困っているけど、まだどの国も落ちちゃいない。守人や衛兵が頑張ってくれているから、あたしたちはどうにか生きていられる……本当に、ありがたいね」
けれど、人々の心は畏れながらも、支え合っていた。
淀んだ空気を払うように、タミヤはニコニコと綾の肩を叩く。
「魔物に襲われて助かる人は少ないんだよ……無事で、よかったね。守人たちがいる限り、リョウの故郷も大丈夫だ!」
元気付ける声に、綾は何も言わず頷いた。何を言っても、無駄だろうから。また、事態をややこしくしたくなかった。
「リョウ、お腹は空いてない? お芋のスープがあるけど」
口数の少ない綾に対して、タミヤは彼女がまだ魔物の恐怖で緊張しているのだろうと思い、細かに気を配る。安心させるように、綾の背に手を添え、食卓へ促そうと計らった。
「……いえ、今は……」
綾の返答が歯切れ悪くなるのは、タミヤに申し訳ないと感じるからだ。せっかくの心配りを断るために。
「そうかい? 遠慮じゃないんだね?」
「はい……すみません」
「いいよ。無理することはないんだから」
タミヤは、伏しがちな綾の顔を覗き込み、笑顔を見せる。笑うと、目尻に小さな皺が入った。
「……ここは、何という名の国ですか?」
唐突にそんな質問を発する少女を、タミヤは笑わず、
「ラルム──泪の国。深い樹海に一滴の泪……」
誇らしげに自国の名を口にする。
「美しい名ですね。ありがとうございます」
綾には、自国の名に誇りを持って答えてあげることはできない。綾のこれまでを振り返れば、立派な国だとは思えないし、他人と違う綾には関心さえなかった。
「……外に出てもいいですか? ラルムがどんな国か見てみたいのです」
「ああ、いいよ。あたしも行こうか?」
「いいえ、大丈夫です……」
いくらか表情を和らげた綾は、軽く首を振る。
「そう? あ、履く物が要るわね」
と、まだ何も履かずにいることに気付き、タミヤは再び寝室の方へ姿を消した。
少しの時間もかからずに戻ってきたタミヤの手には、黒皮の長靴と暗い濃藍色のゲートルがある。
「はい。これも、あたしのお古だけど」
着用している衣服と揃いになっているらしく、色が調和されていた。
長靴のサイズも問題なく、最後にゲートルは紅の飾りボタンで留める。ボタンは薔薇に似た花が模されていた。
「……いろいろと申し訳ありません」
「リョウは謝ってばかりだね。帰ってきたら、スープ食べるだろ? 遅くならないうちに帰っておいで」
始終笑顔のタミヤに見送られ、綾は表へ出る。
どれもこれも、初めての出来事ばかりであった。