15:足踏み
玉幽に案内されて一先ず落ち着いた綾は、浴室を借りて、汚してしまった服を洗う。水に浸して揉んでいると、魔物の血は落とすことができた。
「……臭くない」
袖口を鼻先へ持っていき、ポツリと呟く。それから、水が出なくなるまで絞り、浴室を出た。
宿舎の一室は六畳程の広さで、四角い窓が一つある。各部屋に浴室がついており、シーツ等の洗濯や掃除は宿舎の管理人が請け負っていた。食事も一階の食堂で摂れるようになっており、雇われる者にとってはこれ以上ない生活空間である。
綾は窓辺に椅子を運び、背凭れに外套を、座面に黒ワンピースを、それぞれ引っ掛けた。その作業をする綾は、襟刳りの広い藍色の服と黒タイツだけの恰好である。
玉幽は額を押さえ溜息し、自分の荷物から薄手の衣を出した。
「綾、これを着ておけ」
差し出された衣を見て、綾は首を横に振る。
「問題ない」
平坦な言葉には、他人の力を必要以上に借りたくないという思いが含まれていた。恥じらいなどとは無縁。
だが、玉幽は男だ。何を言おうとも、男なのである。世界には女に興味がないと言う男もいるだろうが、玉幽はごく普通の青年だ。決して好色ではないのだが、気になってしまうのだから仕方がない。
だから、彼女の右肩から服がずり、健康的な胸元がいくらか露わになった時には、とても平静ではいられなかった。
「いいから着ろ!」
少々口調が強くなってしまい、ひとつ息を零す。綾は僅かに瞠目していた。
「……それでは冷える」
取り繕うように言うと、衣を押しつけ、そっぽを向く。頬が微かに染まっていた。
じっと、手の中の衣に視線を落とした綾は、
「……すまない」
と、小さく洩らし、言われた通りにする。その場で着替えだした綾に、玉幽は頭を抱える思いで背を向け、部屋の隅で荷物の確認をした。そうしながら、この先もこんな感じなのだろうかと溜息を吐く。
「明日は早くに出発しよう。魔物が現れないと確実に言えるような刻限はないから、十分警戒しておけ」
ふと指先に黄ばんだ紙が触れた。掌の大きさまで折り畳んであるそれは、この世界の地図である。
「綾、国はどこだ?」
背後へ問い掛けながら、荷物の上で地図を広げた。紙面には、花園を優雅に舞う蝶に似た大陸が描かれている。
「…………北の果て」
綾は少し考え、端的に答えた。故郷の名を言っても意味はない。目的はただ、あの占い師を見返すために。
「北の果て……ソリテュードかティエドということか?」
玉幽が独り言のように国名を二つ挙げたが、もちろん綾に判るはずもない。簡単に死んでやる気はないが、野垂れ死にしないためにも、誰かの、玉幽の力を借りるしかないのだと改めて思い知った。
「何と言う国なんだ」
「……北の、果て……」
綾は藍色の服を畳み、卓上へ置きながら、同じ言葉を繰り返す。聞き質されても、他に答えようがなかった。
振り返った碧玉の瞳を、綾は頑として見返す。
「……そこへ、行きたいのか?」
玉幽は視線を外さず、静かに立ち上がった。黒い瞳がその動きに連いていく。
綾は理由を口にせず、首肯するだけに止どめた。
「……判った」
溜息と共に承諾し、地図を卓上に広げる。
それを見て、綾は思い出す。絵画かと思っていた、詰所でラカスたち三人が一瞬気を逸らしたあの時。三人が見ていたのは、地図であったのだ。綾の知っている世界地図とは、似ても似つかぬ。
「とにかく、ジュモーへ行かなければ話にならないな。南の港から船が出ていればいいが……恐らくないな。樹海を通るしかないだろう」
地図と睨めっこしている玉幽の傍らで、綾は口出しすることなくおとなしくしていた。
「……ソリテュードかティエドか……ジュモーから出ている船次第だな。その前に、樹海を無事抜けられるか……」
脣に指を当てた玉幽が呟いていると、部屋の扉がノックされた。だが、手で敲くような穏やかな音ではなく、乱暴に蹴飛ばすような音だった。