14:人と人との繋がり
東の門周辺では右も左も大騒ぎであった。守人たちと娘が助かった、玉幽とレスターのお蔭だ、と歓声を上げる。だが、玉幽もレスターもそれどころではなく、一刻も早く怪我人を休ませなければならなかった。そこで、東の門から一番近い診療所に向かう。綾も、歓喜の賑わいから逃げるように、彼らに連いて行った。
街中の診療所は小さな建物で、喧騒に囲まれていてもひっそりとした印象がある。利用者の心を落ち着かせる、柔らかい雰囲気が漂っていた。
到着後、彼らは急いで奥へ入っていき、綾はひとり待合室に残る。
室内を照らすための灯りは弱く、片隅には影が濃く存在していた。壁際に並ぶ長椅子の端に腰を下ろしたものの、居心地が悪くて立ち上がる。
緩慢に視線を巡らし、愛らしい花を咲かせた植木鉢が置かれた出窓へ歩み寄った。
夜が深まりだし、外を行き交う人々は疎らになっていく。が、それでも浮き立った騒がしさは室内まで届いた。男も女も、子供も老人も、皆が幸せそうである。
「……住む世界が違う……」
綾の瞳には何の感情も宿っておらず、おもむろに魔物の血で濡れた右手を頭上へ持ち上げた。窓から微かに射し入る月の光に透かすようにする。
「魔物とは、私のことだな」
遙か氷の下から響く声音で、忌まわしい言葉を紡いだ。
背後で足音がしても、しばらくはそうして、右手を翳し続ける。
「……説明してもらおうか?」
かなり不機嫌な声調であった。しかし、清かな音色である。
「同行を許してくれた旅人はどこだ? お前を置いて逃げたのか?」
綾は答えず、カバカバにこびりついたどす黒い血を見るともなく見ていた。
「……まさか、独りで樹海を抜けるつもりでいたのか?」
「───もし……」
ブランと力無く腕を下ろした綾は、声だけを相手に向ける。
「もし、そうであったとしても……貴様には関係ない」
「……抜けられる思っていたのか? 迷うことなく? しかも、夜は方向を見失い易い」
相手の声からは怒りが感じられた。だが、綾には相手の怒りが理解できない。
「今は、魔物だっている」
「関係ないと言った」
身体の向きを変え、相手を見遣ると、真っ先に流れる髪の新緑色が目に飛び込んできた。
「これは私個人の事情であり、貴様とは何の関係もない。何故、怒っている?」
玉幽は言葉に詰まった様子で、形のよい唇を真一文字にしている。
「玉幽は優しいねぇ」
嫌味たっぷりの微笑を携えた守人が、診療室から戻ってきた。
「レスター……」
「だけどねぇ、厳しくする時は徹底的に厳しくね」
綾は不快気に眉を寄せる。
「愚かな女。どうにかなると思っていたなら後悔し、自分を呪いながらのたれ死んじまえ」
笑顔のままのレスター。
「たださぁ、俺たちには守人の務めがあるワケ。見す見す女を独りで樹海に行かせて、魔物に殺されたとなってみろ……評判はがた落ち、収入は減るし。場合によっちゃあ、クビ斬られちまう。解るかい?」
「……魔物に勝つ自信ならある」
言い返されると判っていたが、黙ってはいられなかった。案の定、レスターは綾を絞りにかかる。
「何十体に囲まれても?」
「問題、ない……」
「本当に、愚かとしか言えないねぇ。確かに申一体は殺せたようだから、力があることは認めよう。だが、女、所詮は人間だ。限界を知れ。お前の勝手で、俺たちに迷惑をかけるな」
綾は口を開いた。
「私は帰るのだ!」
嘘か真か……そんな言葉が喉元までかかる。しかし、綾は帰ることをほんに強くは願っていないのだ。言葉が溢れてしまわないはずである。本来ならどんなに強がっていても心の隅では帰還を望んでいるものだが、綾はまったくの異色であった。あの占い師に逢わなければ、この世界に住みついていただろう。
何も言わずに口を閉ざした綾を上から下まで観察していたレスターは、フンと鼻を鳴らし、隣に突っ立つ玉幽に視線を振ると、
「というワケだ」
唐突に言った。
「?」
玉幽が眉を顰めるのを、愉快そうに見つめる。
「連れて行ってやれよ。どうせ、この女はまた旅に出ようとするね。連いて行ってやらねぇと、周りがうるさいだろ。それに、気になるんだろう?」
「レスター!?」
玉幽はぎょっとして、正気なのかと目で訴えた。だが、レスターは正気である。
「ついでだろ? お前、一度戻ってこいって故郷から手紙が来てんじゃん。しかも、二年か三年くらい前に……ついでに、あの女の故郷まで送ってってやれよ。もちろん、その故郷があればだけど」
「?」
玉幽はレスターの言葉に疑問を感じたが、質問する前に話が次に接がれてしまったので訊けなかった。
「楽なもんじゃないか。こいつは自分の身を守る力を備えてる。面倒見なくていいじゃん」
「! 守り役など要らない!」
「誰がっ!」
綾と玉幽がそれぞれに声を上げ、顔を背ける。
「旅は道連れ世は情け、ってね」
聞き慣れたフレーズだと綾は思った。
(この世界でも言うのか……)
「ま、仲良くしな」
どうにも、楽しんでいるとしか思えない態度のレスターを、二人が睨む。
「どうしてレスターが決めるんだ!?」
「何故貴様が決めるのだ!?」
まったく同時に反論し、二人はますます気に入らなかった。
「わぉ。息ピッタシ。幸先がいいね」
レスターは拍手し、くるりと二人に背を向ける。そのまま、診療所から出て行った。
綾と玉幽の間にぎくしゃくとした沈黙が流れる。綾は苛々した様子で眉根を寄せたままであった。
「……貴様、あれで納得するつもりか? あやつは厄介事を貴様に押し付けたのだぞ?」
「……自分が厄介事だと認めるんだな」
すかさず突っ込まれ、綾は口を噤んだ。
玉幽は吐息し、レスターに似てきたかなと嫌な顔をする。
「……とりあえず、タミヤさんのところへ戻るといい。出発は明日だ」
「え……」
弓を肩に引っ掛け、踵を巡らしかけた玉幽は、弱く声を発した娘を怪訝に見遣った。娘は口許を片手で隠している。
「なんだ? 俺が同行することに不満でもあるのか?」
「…………」
「言っておくが、お前に選択権はない。ラルムを出たいなら、同行者が必要だ。皆はお前を、ただの娘を簡単に外へ出したりはしないだろう。お前は丸腰の上、強くは見えない」
「私は……」
綾は瞳を伏せ、もどかしげに唇を震わせた。
「お前が何と言おうとも、人は見た目でその人を判断する……その人が持つ力を目の当たりにするまでは……」
玉幽は何かを嫌悪するように、双眸を眇める。
「出発は明日でいいな?」
気持ちを切り換えるためにひとつ瞬き、再度確認した。だが、やはり綾は何も言わない。
「俺にも準備がある。明日の朝、迎えに行く」
返事はないが了解はしているだろうと思い、玉幽は今度こそ出入口に向かった。
「───ま、待ってくれ……」
が、またしても躊躇いがちな声に止められる。
「……どうした?」
一瞬合った視線は外され、黒い瞳は右へ行ったり下へ行ったり、一点で定まらない。
「何なんだ……」
「きさ──」
なかなか次を示さない娘に痺れを切らし、溜息したところ、ようやく出された声と重なった。
「……お、お前の処に、泊めてもらえないか……」
「……お前、ね……」
玉幽は小さく苦笑し、「貴様」から「お前」への変化を可笑しく思う。頼み事一つにひどく葛藤している綾が、どこにでもいそうな自尊心の強い娘に見えた。
「……タミヤさんのところに戻ったほうがいいと思うが?」
「いや、タミヤさんの処へは…………た、頼む……」
綾のぎこちない必死さに、この娘は誰かに頼るという経験がないに等しいのだろうと感じさせる。言わば、孤独を意味した。
「……面識のない男の部屋に泊まるのはどうかと思うが、お前がどうしてもと言うなら泊めてやってもいい」
そう言い承諾はしたものの、恐らく彼女は男と女という関係を意識してはいないだろう。タミヤのところへ戻れなければ、他に当てがないのだ。
「すまない……礼を言う」
ほっと胸を撫で下ろした綾の表情が今までで一番穏やかなものになった。
「……お前、何歳だ?」
「…………何故?」
「気になったから……」
何気なく思ったことが口に出てしまい、娘に猜疑心を向けられる。表情はもう、冷たく凝っていた。
「……十七だが」
考えるように顔を伏せていた綾は、別に隠す必要もないと判断し、答える。
「十七? 若いな……」
「若い?」
「喋り方だ。硬い喋り方をするだろう……それに、……」
玉幽は言い淀んだ。雰囲気が落ち着いていると言おうとしたのだが、彼女のそれは落ち着いているとは違うと感じた。あれは、落ち着いているのではなく、無関心……
「いや、もう少し上かと思っていただけだ」
「そうか……」
ぽつりと返し、綾は俯いた。
普通の娘ならここで相手にも年齢を聞き返すのだろうが、聞いたところで何がある訳でもない。綾は必要性を感じず、またコミュニケーションというものが判らなかった。
話が終わってしまい、シンと時間だけが進んだ。二人共、なんとなく動けずに向き合っている。しかし、いつまでもそうしている訳にもいかなかった。
「……宿に案内する」
玉幽は出入口の扉を開き、綾を促す。
「そういえば……」
宿舎へ向かう道程、思い出したように呟いた。
「名を聞いていないな。名よりも先に年齢が気になったからか……」
唇の端を弛め苦笑う頭半分背の高い守人を、綾は横目にする。
「名を知らないと不便だろう。俺は玉幽だ」
「ギョクユウ……」
響きから、どんな字を書くのだろうと考える。
無造作に向けられた笑顔に臆しながらも、目が離せなかった。
「そう。玉に幽か……」
「玉幽……」
その字の形を頭の中で思い描く。綾にしては珍しく、綺麗だと思った。
「お前は?」
「……綾」
「どんな字?」
玉幽の故郷には漢字に似た言語があるのだろうか。
「綾なす……」
「いい名だ」
綾は首を傾いだ。
世辞だろうか、タミヤも名を誉めてくれた。深く気にすることではないのだろうが、不思議な気持ちである。
見えてきた宿舎の灯りが、静かに二人を迎えていた。