10:見送ってくれる人
木製の扉の前で、綾は立ち尽くしていた。
随分と悩んだ。
ここは異世界。当然、この世界の地理もわからない、金銭なども所持していない。
旅に出るには様々な準備が必要であるが、どこでそれらを求めれば良いのか判らなかった。
だから、方法は一つしかない。
仕方がないのだが、ムカムカした。早々に他人の力を借りなければならないのだから。
綾は深呼吸し、扉に手を掛けた。
……また、申し訳なくもあるのだ。無償に面倒を見てくれる彼女に。
「あら、おかえり。道に迷わなかったかい?」
彼女──タミヤが、扉の開閉音に振り返り、綾を迎えた。
「ま、道に迷っても、みんな親切に教えてくれるよ。綾は可愛いからね、男なんか一ころだよ!」
タミヤはカラカラと声を上げて、綾をからかう。綾は不快には感じず、呆れるほど明い性格に小さく苦笑した。
「あたしも、若い頃は数え切れないほど求愛されたよ」
言いながら、綾を食卓へ促す。
「外を歩いたら、お腹が空いたろ? スープ、要るかい?」
「はい、頂きます」
椅子に腰を下ろした綾は、タミヤが用意してくれた芋のスープに口を付けた。塩気が程好く効いており、身体の芯が温まる。大きめの芋も空腹感を満たしてくれた。
「美味しい……」
「それは、よかった!」
タミヤはニコニコと、綾が食べる様子を見守っている。
「なんだか、娘が出来たみたいだよ」
幸福そうに笑う彼女を、綾は暗い面持ちで見た。笑うと八重歯が覗くその姿が、とても愛嬌を感じさせる。だから、胸が痛んだ。
綾は視線を落とし、空になった椀の縁を指でなぞった。
「……リョウ? どうしたんだい?」
急に感情を沈めた娘を、タミヤは心配し、食卓を回る。そうして、綾の脇に立ち、背中を柔らかく擦ってやった。
「気分が悪い? 横になるかい?」
綾は弱弱しく首を振り、もったいぶってタミヤを見上げる。
「……大丈夫です。あの……頼みたい事が、あるのです……」
「ん? 何? 遠慮しないで言ってごらん」
「は、い……あの、世話になっている身でありながら、厚かましいとは思いますが……食べ物と水を譲って頂きたいのです……」
タミヤは首を傾げた。
「何にするんだい?」
「……故郷の、」
後ろめたい気持ちになりながらも、視線は逸らさずに捏ち上げる。
「故郷の両親が心配しているでしょうから、すぐにも帰ります。タミヤさん達にいつまでも迷惑は掛けられません」
「あたしは迷惑だとは思ってないけど……」
「……一刻も早く、無事だと知らせたいのです……」
綾は項垂れた。心にもないことを言い、タミヤに助力を乞う。
(我ながら、汚い手だ……)
流れた髪の下に隠れ、ぎゅっと目を閉じた。
タミヤはしばらく間を置き、ひとつ吐息する。
「独りで行くのかい?」
「いえ……ちょうど旅に出る者を見つけまして、同行の許可を頂きました」
顔を上げた綾は、曇りない瞳に出くわし、泣きそうになった。タミヤは少しも綾を疑っていない。
「出発はいつ?」
「私の用意が出来次第……」
「おやまあ、急だねぇ」
タミヤが目を丸くして驚き、綾は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません」
「ああ、いいよいいよ」
タミヤは慌てて綾の肩を支える。そうしないと、いつまでも頭を垂れたままであるような気がするから。
床に膝をつき、破顔一笑した。
「すぐ見て上げようね。だから、そんな辛い顔をしないで。故郷の両親が恋しいのは、よく判るよ」
ポンポンと軽く肩を叩かれ、やはり綾は謝罪するしかない。
タミヤは行ったり来たりして、旅に必要な物の用意に急いだ。待つしかない綾は、途中、黒っぽい衣類に興味を惹かれ、食卓の上のソレに手を伸ばす。広げてみるとソレは外套のようで、裾が多少擦れ、黒い茶色が褪せていた。けれど、大小のポケットがあちこちにあって便利そうである。
試しに袖を通してみた。肩幅が余るが、邪魔くさいほどではない。丈は足首までで、長身である綾に合わせ、ラカスの引き出しから出してきてくれたのだろう。
「すまないねぇ、あまり揃ってなくて」
部屋に戻ってきたタミヤが困ったように笑み、肩掛けタイプの鞄に用意した物を詰めていった。
「いいえ。十分です」
綾は鞄を受け取り、襷掛けにする。旅に必要な物が入っているため、重さはあった。が、我慢できない重さではない。まして、綾は常人ではないから。
最後に鞣革の水筒を肩に掛け、戸口に立った。
「本当に、何から何まで申し訳ありません」
「いいよ」
「ありがとうございました」
綾は笑顔など見せられず、ずっと眉を寄せている。
「いつでも遊びにおいで」
「はい……」
覇気としない綾を、タミヤは力一杯抱き寄せた。
「もっと元気出しな! それじゃあ故郷まで持たないよ!」
綾は瞠目し、されるがまま抱擁を受けた。
「いってらっしゃい。故郷のご両親に、早く元気な顔を見せてあげなさい!」
と、腕を解き、綾の背にバシリと活を入れ、送り出す。
綾は戸惑いながら一度振り返り、
「いって、きます……」
ぎこちなく、恥ずかしそうに言った。