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BLUE BIRD  作者: ネモ


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第3話 ぬくもり

風が変わったのは、朝の工房の窓を開けたときだった。

木の枠の隙間を抜けて入ってきた風が、少しだけ冷たい。肌に触れた瞬間、夏の名残を追い払うようなひんやりとした感触があった。


「……うぃ〜、さぶっ」


アキはぼそりと呟いて、棚に置かれたランプの芯を布で拭った。まだ朝日が斜めに射し込む時間。工房の中では、磨きかけの真鍮や、組み立て途中の道具が並び、薄く金の色を帯びて光っている。


作業台の奥では、リーガルが湯気を立てるカップを持っていた。少し無精髭が伸び、額にしわが増えた。かつて戦場を駆けていたという男の面影は、いまでは少しも見えない。そこにいるのは、ただの頑固で優しい職人だ。


「なぁ、そろそろ身なり整えたら?」

「うっせー。手を止めると錆が出るぞ」

「止めてないよ。ただ、風が変わったなって思っただけ」

「風なんていつでも変わる。季節を言い訳にして仕事を遅らせるな」

「はいはい」


苦笑しながら返すと、リーガルはわずかに目を細めて笑った。

“父さん”と呼んだとき、あの人は必ず少し照れくさそうに笑う。それが癖のようになっている。それがなんか嬉しくて、ついついそう呼んでしまう。


アキは、布で丁寧に真鍮を磨きながら思う。

自分はこの街で生まれたわけではない。でもこの工房、この家、父さん――全部が“自分の世界”だ。血のつながりはなくても、それでいい。


「ところで、今日はどこに行くんだ?」

「南の屋敷だよ。ミランダさんって人から頼まれた“暖房”の清掃。三日かけて磨いたんだから、きっとびっくりするよ」

「……暖房? お前、また珍しいもんに手を出したな」

「だって見た目がすごかったんだ。金色で、飾りがついてて、どう見ても“ランプ”なのに“暖房”なんだよ。どんな仕掛けなのか気になってさ」

「ふん、貴族の道具ってのはそういうもんだ。飾りがついてる分、たいてい壊れやすい」

「だから俺の出番ってわけ」


アキは胸を張って笑う。リーガルは肩をすくめながら、もう一口、冷めかけた茶をすする。


「……まあ、行ってこい。だが寄り道はするなよ。日が落ちるのが早くなってきた」

「わかってるって」


工具箱を肩に掛け、包んだランプを両手で抱えると、工房を出る。扉が閉まる音が、やけに柔らかく響いた。

通りにはパンの焼ける匂いが漂い、馬車の音が遠くで鳴る。ロズベルグの街は、いつも通り穏やかだった。


***


南側の屋敷街へと続く道は、街の中心から緩やかに下っていく。石畳は朝露で光り、並木の木々が赤と金の葉を揺らしている。

アキは包みを抱えたまま歩く。足元の落ち葉が小さく鳴り、風が髪を揺らした。


(“暖房”か……本当にこれが、暖を取る道具なのか?)


包みの中のランプを見下ろしながら、そんなことを思う。

黄金色の装飾、透き通るガラスの胴体。そこには何か、ただの金属ではない“温もり”が宿っている気がした。

もちろん、アキには魔法のことはわからない。ただ、“魔法を使う人たち”がこの街にもいることは知っている。宝石を持ち、それに想いを重ねて何かを起こす人たち。


「俺は、壊れたものを直すほうが性に合ってるな……」


独り言が風に混ざった。

そのとき、街のはずれにある白い門が見えてくる。蔦の絡まる鉄製の扉。その向こうに広がるのは、南側でもひときわ広い屋敷――ミランダ・オルステッドの家だった。


「お、アキ坊じゃないか!」


門の前で声を上げたのは、庭師のハインズだった。中肉中背で、灰色の髪を後ろで束ねた年配の男。日焼けした腕に、鋏をぶら下げている。


「ハインズさん、こんにちは。これ、ミランダさんに頼まれた“暖房”です」

「……おお、三日だけだけど長く感じたな」


ハインズは包みを覗き込むなり、驚いたように息を呑んだ。

陽光を浴びたランプの金色が、彼の瞳に映り込む。

その表情には、まるで遠い昔の記憶を見ているような、ほんのりした懐かしさがあった。


「ずいぶんと丁寧に磨いたな。鏡みたいじゃないか」

「三日もかけましたからね。こんな綺麗なランプ、もったいなくて雑には触れませんよ」

「はは、ミランダ様が見たら喜ぶぞ。さ、庭園でティータイム中だ。案内してやる」


ハインズに続いて屋敷の中へ入る。

庭園は広く、紅葉した木々が色とりどりに染まり、池の水面には秋の空が映っている。テーブルの上には銀のポットとカップ。白いドレスを纏ったミランダが、湯気を眺めながら微笑んでいた。


「ミランダ様、アキ坊が来ましたよ」


その声に、ミランダが顔を上げた。

淡い栗色の髪を肩まで下ろし、瞳は橙に輝いている。

まだ俺と同じくらいの年齢のはずだが、どこか落ち着いた気品がある女性だった。


「まあ……こんなに綺麗にしてくださったのね」


アキが包みを開くと、ミランダは目を見張った。

ランプの表面には、青空と紅葉が映り込んでいる。アキが両手で差し出すと、ミランダはそれを大事そうに胸に抱いた。


「ありがとうございます、本当に。まるで……あの頃のようだわ」

「えっと……“あの頃”って?」

「ふふ、ごめんなさい。少し昔を思い出してしまって」


ミランダは目尻を拭いながら微笑んだ。

その笑みはどこか寂しく、それでも温かい光を帯びている。


「ガーベラ。アキくんに報酬を」

「はい、ただいま」


黒髪を束ねた若いお手伝いが、銀盆を持って奥へ下がる。

ミランダはその間に椅子をもう一つ引き、アキを手招きした。


「よければ、一緒にどう? お茶がちょうど入ったところなの」

「え、俺なんかが……」

「“俺なんか”なんて言葉、この庭では禁止よ」


笑ってそう言うミランダに、アキは観念して腰を下ろした。

香ばしい紅茶の香りが鼻をくすぐる。

ミランダがポットから注ぐ液体は、まるで夕陽を閉じ込めたような橙色をしていた。


「いい色だな……」

「ええ。暖かい色って、心まで落ち着かせてくれるの」


ミランダはランプに目を向けた。

金の装飾が紅茶の色と共鳴するように輝く。


「ところで、ミランダさん」

「なにかしら?」

「どうして“ランプ”なのに“暖房”なんです? 火も灯さないのに、どうやって暖を取るんですか?」

「あら……やっぱり気づいたのね」


ミランダはくすっと笑い、ランプの上部を指先でそっとなぞった。

その動作は、まるで誰かの頬を撫でるように優しかった。


「このランプはね、私の“宝石”とつながっているの」

「宝石……?」

「ええ。これよ」


ミランダが胸元のペンダントを持ち上げる。

そこに吊るされているのは、柔らかな橙色の宝石だった。

夕暮れの光を閉じ込めたような色――どこか懐かしい温かさを感じる。


「この魔法を使うと、ランプの中に優しい光が生まれてね。どんな季節でも、その部屋を一番心地よい温度に保ってくれるの。夏は涼しく、冬は暖かく」

「……へえ、そんなことができるんですか」

「ええ。だってこれは、私のおじいさまの宝石だから」


そう言ってミランダは微笑む。

その瞳の奥で、一瞬だけ橙の光がきらめいた。


ミランダは紅茶を一口含んで、静かに言葉を続けた。

「……少し、昔話をしてもいい?」

アキはうなずいた。

「もちろん。よければ、ゆっくり聞かせてください」


ミランダはほんの少しだけ息を整え、目を閉じた。

まぶたの裏に、白い雪が広がる。

空の色が薄く、風が切り裂くように冷たい。

そして、あの頃の自分が、まだ誰の痛みも知らなかった頃の声が、雪の向こうから呼んでいた。


 




――それは、八年前の冬。

ジルオット大陸の最北、氷の街バリアン。


そこは凍てつく風と海霧に包まれた街で、建物の屋根は一年の半分が雪に覆われていた。

でも、ミランダはその街が好きだった。

父の奏でるピアノの音が、寒い空気をやわらげてくれる。母が淹れるハーブティーの香りが、家の中を春のようにしてくれる。

窓際には、祖父シルバが作った真鍮のランプがあった。橙色の光がいつも、家族の真ん中を照らしていた。


「ミランダ、外は寒いよ。帽子を忘れずに」

母の声が響く。

ミランダは、ふわふわの毛糸帽を被りながら笑った。

「大丈夫、お母さん。今日は市場にお花を買いに行くだけだもん!」

父はピアノの蓋を閉めて、肩越しに娘を見た。

「凍ってる道は滑りやすい。転んだら雪だるまになるぞ」

「もう、からかわないでよ」


笑い声が溶けていくような、穏やかな日常。

それが、永遠に続くと誰もが信じていた。


けれど――その日の午後、バリアンの空に“黒い影”が現れた。


最初にそれを見つけたのは、港で働いていた漁師たちだった。

彼らが指差す先、雲の彼方に、ゆっくりと近づいてくる巨大な塊。

風を切り裂き、雪雲を押しのけながら、その影は形を成していく。

それは、空を泳ぐ“鯨”のようだった。だがその身体は鉄で覆われ、腹部には幾つもの砲門が並んでいた。


「……アンドロイド、だ」

 父がつぶやいた声を、ミランダは一生忘れない。


その瞬間、街全体が警鐘の音に包まれた。

鐘の音が響き、雪が揺れる。人々が叫び、子供たちが泣き出した。

母はミランダを抱き上げ、地下の避難壕へと駆け出した。

だが、家の外に出た瞬間、空が裂けた。


爆音。

光。

氷の破片が宙を舞い、家々が次々と吹き飛ぶ。

風に乗って飛び散るのは瓦礫だけではなかった。

街を守ろうと立ち上がった魔法使いたちの身体が、砕け、宝石の光となって消えていった。


「お母さんっ……!」

ミランダは必死に叫んだ。

母の腕が、彼女を強く抱きしめる。

次の瞬間、眩しい閃光。

温もりが、腕の中で消えた。


ミランダは雪の上に投げ出され、耳鳴りの中で空を見上げた。

鯨型のアンドロイドがゆっくりと旋回し、砲口を街に向ける。

その姿は、まるで“神の鉄槌”のようだった。


その下で、ミランダは見た。

――橙色の宝石が、雪の中に転がるのを。

それが母だと、すぐにわかった。

その隣にあった淡い青の宝石は、父だった。


声をあげる間もなく、再び空が閃いた。

瓦礫と氷が弾け、宝石たちは海へと吹き飛ばされた。

ミランダの悲鳴は、風にかき消された。


その時、誰かが後ろから彼女を抱き上げた。

振り返ると、顔も知らない大人の女性が泣きながら叫んでいた。

「早く避難所へ! ここにいたら死ぬわ!」

その声で、ようやくミランダの足は動いた。

「でも、お父さんとお母さんが!」

「いいから、早く!」

何も見えないまま、何も聞こえないまま、ただ連れられて走った。


振り返るたび、空には光の雨。

地面には砕け散った宝石。

それでも、ミランダは生きていた。


避難所の中は、息が詰まるほど狭く、泣き声と叫びが交錯していた。

ミランダは、父と母の声を探し続けた。

ーー聞こえるはずもなかった。




ミランダは、ずっと考えていた。

あの光の雨の中で、どうして自分だけが生きているのか。

どうして、お父さんとお母さんは宝石になってしまったのか。

その答えは誰も教えてくれない。

ただ、胸の奥がずっと冷たくて、何かを失ったことだけは分かっていた。


「……戦いは……終わりました……」

不意に、低く、掠れた声が耳に届いた。

顔を上げると、入り口の方にひとりの男が立っていた。

右肩から光がこぼれている。

左腕は、光の粒子へと変わりかけていた。


その場にいる全員が息をのんだ。

男はゆっくりと膝を折り、避難所にいる人々の前に座り込む。

「……申し訳ありません。……俺たちは、守れなかった」

誰も何も言わなかった。

その沈黙の中で、男は嗚咽を漏らした。

「守る」と言って出て行ったはずの人が、泣いている。

その光景が、幼いミランダの胸に焼き付いた。


怒りが込み上げた。

ミランダは立ち上がり、叫んだ。

「どうして……! どうしてお母さんとお父さんを助けてくれなかったの!」

周りの大人たちが止めようとしたが、ミランダは止まらなかった。

「あなたたち魔法使いは、強いんでしょう!? どうして……どうしてみんな死んじゃうの!」


男は、ミランダを真っすぐ見た。

その目はもう濁りかけていた。

「……強くなど、なかった……!俺達は慢心していた!宝石は万能だと!!戦う理由も、守る責務も忘れて!!」

力強く、残った右手で肩を握られた。

痛いのと、色々な感情がごちゃ混ぜになり、訳がわからなくなった。

男は項垂れ、力無く続けた。

「俺は、ずっとこの街は平和だと思っていた……アンドロイドがまさか……空から侵略してくるなんて誰が想像できた……?」


その言葉は幼い彼女には理解できなかった。

けれど、“大人が泣く”という現実だけが、心の奥でずっと響いていた。


「………ジル……こんな俺で、本当に、すまなかった……」

男はそのまま地に伏せ、静かに光となった。

そして、そこには一粒の透明な宝石が残った。

その宝石だけが、避難所の薄暗がりの中で微かに光っていた。


――あのとき、ミランダは心のどこかで、何かが壊れる音を聞いた。


その夜から、彼女は一言も喋らなくなった。


街の復興が始まったのは、それから数ヶ月後のことだった。

凍てついた港に、ようやく再び人の声が戻った。

瓦礫の山を片付け、壊れた家を修理し、死者の名前を刻む石碑が立てられた。

けれど、ミランダの家族の名前は、どこにも刻まれなかった。

宝石が見つからなかったのだ。

氷に包まれたこの街で、海の捜索は困難を極める。

今になって思えばそれはそうだと思う。


ある日、捜索隊の一人が彼女のもとを訪れた。

その手に抱えていたのは――

あの真鍮の“ランプ”だった。


「これは……あなたの家の跡地で見つかった。

 氷の中で、奇跡的に形を残していたんだ」


ランプの中の灯はもう消えていた。

でも、金の装飾は今も温かく見えた。

ミランダは両手でそれを抱きしめ、声を殺して泣いた。


それからの毎日は、ただ寒かった。

人の優しさを感じるたびに、心のどこかで冷たい波が打ち寄せた。


そんなある日、避難所の扉がうるさく開いた。


「……ミランダ?」

聞き覚えのある声。

振り向くと、そこには灰色の髪をした老人が立っていた。

ミランダの祖父――シルバだった。


「……おじいちゃん……?」

ミランダの声は、震えていた。

シルバはゆっくりと近づき、膝をついて、彼女を抱きしめた。

「ごめんね。遅くなってしまった」


その言葉で、凍っていた心が一瞬だけ溶けた。

ミランダは祖父の胸の中で、久しぶりに声を上げて泣いた。


それからのミランダの生活は、少しずつ色を取り戻していった。

シルバは口数の少ない人だったが、いつも優しかった。

朝になると、ミランダの髪を梳きながら「今日も綺麗なレディだ」と言い、

夜はランプに灯をともして「ほら、お父さんとお母さんも見てる」と微笑んだ。


ある晩、シルバはそんな彼女の隣でランプを磨きながら言った。

「ミランダ、宝石はね、死を表すものじゃないんだよ」

「……でも、みんな消えちゃうじゃない」

「うん。けどね、消えたように見えるだけなんだ。本当は、その人の“想い”が、誰かを照らす光、宝石になって残る」

「想い…?」

「そう。ランプと同じだよ。炎が消えても、温もりは残る。君がその温もりを忘れなければ、その人はちゃんとここにいる」

そう言って、シルバは彼女の胸の上を軽く叩いた。


その夜、ミランダは泣きながら笑った。


それから三年。

シルバが倒れたのは、寒い季節の朝だった。

眠るように穏やかな顔をしていた。

その身体が、ゆっくりと光に包まれていく。


ミランダは手を握りしめながら、叫んだ。

「行かないで……!」

光は彼女の涙を透かしながら、橙色の宝石へと変わった。

暖かい光だった。


――その夜。

ミランダは、祖父の宝石を両手に抱いて、ランプの前に座っていた。

静かな夜だった。

外は雪。

灯りのない部屋で、彼女は小さくつぶやいた。


「ねえ、おじいちゃん……もう疲れたよ……どうしたら、もう泣かずにいられるの?」

どうしたら、何も失わずに済むの?

「お願い……誰か……寒いよ……」


その瞬間、宝石が微かに光った。

驚いて見つめると、その光がゆっくりとランプの中へと吸い込まれていく。

そして――


橙色の炎が灯った。


炎は優しく、温かかった。

まるで祖父の腕の中にいるような感覚だった。

その灯りに包まれながら、ミランダは声を殺して泣いた。

あの日の思い出が走馬灯のように溢れて止まらなかった。

平和な雪国の日常。

両親が死に、その宝石は海へ飛ばされ、見つからない。

今もなお。

さらに祖父も今日、宝石となった。


しかし今、こうして宝石から温もりを感じている。

祖父、父、母。

みんなの温もりを。


ひとしきり泣いた後、ミランダは決意した。

もう泣かない。一生分泣いたから。


ミランダは、しばらく口を閉じたまま、橙色のカップの中を見つめていた。

紅茶の表面に映る光がゆらゆらと揺れ、まるで昔のランプの灯を思わせた。


「……長い話をしちゃったわね」

やわらかな声でミランダが笑う。

アキは言葉を失っていた。

目の前にいるこの人が、そんな過去を生き抜いてきたなんて――

信じられないほど穏やかな笑顔だったからだ。


「いえ……聞かせてくださって、ありがとうございます」

そう言うと、ミランダは少しだけ目を細めた。

「あなた、本当に優しいのね。リーガルさんに似てる」

「……よく言われます」

アキは苦笑しながら頭をかいた。


「……死んだ人が残した“想い”はね、ちゃんと形を変えて続くのよ」


ミランダの声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているようだった。

アキは何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。

宝石と想いの共鳴――

それは、リーガルがいつも避けて話そうとしないテーマだった。


「それでね」

ミランダがふと立ち上がり、ランプを両手で持ち上げた。

橙色の宝石に軽く口づけをして、ランプの芯に手をかざす。


――ぼう、と炎が灯った。


ほんのりと甘い香りが広がる。

紅茶の湯気と混じって、部屋の空気がやさしく温もっていった。

アキは思わず息をのむ。

炎はまるで“人の笑顔”のように、一定のリズムで揺れていた。


「ね? 暖房でしょ」

ミランダはいたずらっぽくウィンクした。

アキは思わず笑ってしまった。

「……本当にあったかい。これが……宝石の魔法なんですね」

「そう。想いを宿す魔法。何も難しいことじゃないの。信じるだけでいいのよ」


ミランダの言葉には、悲しみも重みもあったが、それを包むような優しさがあった。

それは、長い時間をかけて“赦し”を覚えた人の声だった。


「アキくん」

ミランダが急に真剣な顔をした。

「あなたの中にも、きっと灯があるわ。その灯が、誰かを温める日が来る」

「……僕に、そんなものがあるかな」

「あるわよ」

ミランダは穏やかに笑った。

「だって、あなたが今、そうやって笑ってるじゃない」


アキは少し照れくさくなって、紅茶を一口飲んだ。

口の中に広がる温かさは、まるで胸の奥まで染み込むようだった。


しばらく二人は黙って、ランプの灯を見つめていた。

庭の外では風が木々を揺らし、秋の葉がカサカサと音を立てている。

ティーカップの縁を指でなぞりながら、アキはそっと呟いた。

「……リーガルが聞いたら、きっと驚くだろうな」

「ふふ、そうかしら?」

「たぶん、“そんなもん触るな”って言います」

「そういう人、いるわね。でも……触れなきゃ分からないこともあるわ」


ミランダのその言葉に、アキは小さくうなずいた。

それはまるで、心のどこかにしまっていた記憶をそっと揺らすような声だった。


「……今日はありがとう、ミランダさん。なんだか、とても大切な話を聞いた気がします」

「こちらこそ。綺麗にしてくれてありがとうね。久しぶりに心が温まったわ」


ミランダは席を立ち、玄関までアキを見送った。

夕暮れの光が窓から差し込み、彼女の髪を橙に染める。

背後のランプの炎が、まるで人の影のように壁にゆれていた。


扉を出ると、秋の冷たい風が頬をなでた。

けれど、アキはなぜか寒くなかった。

胸の奥に、まだあのランプの温もりが残っていた。


「……不思議だな」

彼は空を見上げた。

雲の切れ間から、夕陽がのぞいていた。

橙色――まるでミランダの宝石と同じ色。


アキは少し笑って、家路を歩き出した。

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