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視線の在処

作者: Y_dot
掲載日:2025/10/20

ある日、電話が鳴った。

母がお世話になっている施設からの電話だった。

「腕に内出血が見られます」と。


(まただ……)

〈どうしたの?〉と本人に聞いても、要領を得ない。

認知症なのだ。

「どうしたんですか?」

「いや、気がついたら、そんな状態で……」


四六時中、誰かが見ているわけではない。

何をするか分からない状態で、いつ、どこで転んだのかもわからない。

本人も、職員も、誰も覚えていない。

認知症という霧の中で、出来事は音もなく消えていく。


「カメラを設置しましょう」

そう言った瞬間、空気が重くなった。


「プライバシーの侵害です」

施設長が言った。

「人として、それは違うと思います」


だが、私は思った。

“人として”とは、誰のことを指しているのだろう。

名前も昨日も曖昧な人の“プライバシー”とは何か。

その尊厳を守るために、真実を見失っていいのか。


むしろ、記録こそが本人や組織を守る唯一の証になるのではないか。


―昔の記憶がよみがえった。


かつて勤めていた会社の更衣室で、盗難事件が起きた。

財布が消え、書類がなくなった。

防犯カメラを提案したとき、最も激しく反対したのは、いつも「信頼が大事だ」と言っていた者たちだった。


「盗人がいる会社なんだから、仕方ないでしょう」

そう口にしたとき、会議室の空気が凍った。

しかし、誰も反論しなかった。

数週間後、映っていたのは、あの“正義”を語っていた本人だった。


「盗人がいる会社」

この発言には上司から厳重注意を受けた。

だが、犯人は身内だった。


その日から、私は信じている。

人は誰でも“見られたくない何か”を抱えて生きている。

それは罪ではなく、弱さだ。

皆、聖人君子のように生きてはいない。

墓場に持っていく秘密の一つや二つ、誰にでもあるだろう。


だが、その弱さを覆い隠すために、

私たちは“真実”の目を拒む。


介護の現場もまた、同じ構造にある。

夜になると、徘徊する人がいる。

かつては転倒防止のため、手足をベルトで縛り、朝を待った。

今はそれが人権侵害だとされ、身体拘束は禁止された。


代わりに、鎮静剤が打たれる。

「落ち着いてもらうために」と。

しかし、それは本当に“守ること”なのだろうか。

身体を縛ることと、心を眠らせること――

そのどちらも見えない暴力であることに、私たちは鈍感になっていないか。

誰が、誰のために、誰を守っているのか。


私は会議で言った。

「カメラは、人を縛るためのものではありません。縛らずに済む方法を見つけるためのものです」


沈黙が流れた。

その沈黙は、赤い録画ランプのように、じっとこちらを見つめていた。


“見られる”ことを恐れるのは、人間の本能かもしれない。

だが、“記録されない”恐怖――それはもっと深い闇だ。

見えない場所で何が起きても、誰も責任を取らなくていい世界。

それこそが、本当の地獄なのかもしれない。


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