視線の在処
ある日、電話が鳴った。
母がお世話になっている施設からの電話だった。
「腕に内出血が見られます」と。
(まただ……)
〈どうしたの?〉と本人に聞いても、要領を得ない。
認知症なのだ。
「どうしたんですか?」
「いや、気がついたら、そんな状態で……」
四六時中、誰かが見ているわけではない。
何をするか分からない状態で、いつ、どこで転んだのかもわからない。
本人も、職員も、誰も覚えていない。
認知症という霧の中で、出来事は音もなく消えていく。
「カメラを設置しましょう」
そう言った瞬間、空気が重くなった。
「プライバシーの侵害です」
施設長が言った。
「人として、それは違うと思います」
だが、私は思った。
“人として”とは、誰のことを指しているのだろう。
名前も昨日も曖昧な人の“プライバシー”とは何か。
その尊厳を守るために、真実を見失っていいのか。
むしろ、記録こそが本人や組織を守る唯一の証になるのではないか。
―昔の記憶がよみがえった。
かつて勤めていた会社の更衣室で、盗難事件が起きた。
財布が消え、書類がなくなった。
防犯カメラを提案したとき、最も激しく反対したのは、いつも「信頼が大事だ」と言っていた者たちだった。
「盗人がいる会社なんだから、仕方ないでしょう」
そう口にしたとき、会議室の空気が凍った。
しかし、誰も反論しなかった。
数週間後、映っていたのは、あの“正義”を語っていた本人だった。
「盗人がいる会社」
この発言には上司から厳重注意を受けた。
だが、犯人は身内だった。
その日から、私は信じている。
人は誰でも“見られたくない何か”を抱えて生きている。
それは罪ではなく、弱さだ。
皆、聖人君子のように生きてはいない。
墓場に持っていく秘密の一つや二つ、誰にでもあるだろう。
だが、その弱さを覆い隠すために、
私たちは“真実”の目を拒む。
介護の現場もまた、同じ構造にある。
夜になると、徘徊する人がいる。
かつては転倒防止のため、手足をベルトで縛り、朝を待った。
今はそれが人権侵害だとされ、身体拘束は禁止された。
代わりに、鎮静剤が打たれる。
「落ち着いてもらうために」と。
しかし、それは本当に“守ること”なのだろうか。
身体を縛ることと、心を眠らせること――
そのどちらも見えない暴力であることに、私たちは鈍感になっていないか。
誰が、誰のために、誰を守っているのか。
私は会議で言った。
「カメラは、人を縛るためのものではありません。縛らずに済む方法を見つけるためのものです」
沈黙が流れた。
その沈黙は、赤い録画ランプのように、じっとこちらを見つめていた。
“見られる”ことを恐れるのは、人間の本能かもしれない。
だが、“記録されない”恐怖――それはもっと深い闇だ。
見えない場所で何が起きても、誰も責任を取らなくていい世界。
それこそが、本当の地獄なのかもしれない。




