満員の夜
田中は今日も残業を終え、重いカバンを肩にかけながら駅へ向かう途中だった。五十二歳、営業部の課長として働く彼にとって、一日の終わりの一杯は何よりの楽しみだった。
「今日はどこにしようかな」と呟きながら、馴染みの居酒屋「大将」の暖簾をくぐった。カウンターに座り、生ビールと焼き鳥を注文する。仕事のストレスが徐々に溶けていくのを感じながら、二杯、三杯と杯を重ねた。
時計を見ると午後九時を回っていた。「そろそろ帰るか」と思いながらも、隣の客との世間話が弾み、結局日本酒も二合ほど空けてしまった。
店を出る頃には、心地よい酔いが全身を包んでいた。しかし駅に向かう途中、急激な尿意に襲われた。「あ、やばい」と田中は焦った。アルコールの利尿作用が一気に押し寄せてきたのだ。
最初に向かったのは駅前のコンビニだった。しかし「故障中」の貼り紙が扉に貼られている。次に向かったファミリーレストランは、トイレの前に長蛇の列ができていた。「お客様、15分ほどお待ちいただくことになります」と店員に言われ、田中は顔を青くした。
ファストフード店も同様で、「故障のため使用できません」の張り紙。コンビニを三軒回ったが、どれも工事中や満員状態。カラオケボックスは「会員証をお持ちですか?」と聞かれ、パチンコ店は既に閉店していた。
「なんで今夜に限って…」と田中は額に汗を浮かべながら街を歩き回った。公園の公衆トイレも「清掃中」の看板が出ており、駅のトイレは大行列ができていた。
時間が経つにつれ、尿意は我慢の限界を超えていた。田中の歩き方は次第にペンギンのようになり、冷や汗が背中を流れ始めた。足を交差させながら歩く姿は、まさに限界ギリギリの状態だった。
「もう無理だ…このまま歩いていても絶対に漏らしてしまう」
田中は心の中で必死に計算していた。「ここで道端に漏らすか、もう少し頑張って人目のつかないところを探すか…」しかし、プライドが邪魔をした。「いい歳した大人が道端で…それだけは避けたい」
そんな時、暗がりに大きな建物を発見した。何かのイベント会場のようで、巨大なスクリーンや機材が見える。建物の裏側は人気がなく、植え込みもある。「ここなら誰にも見られない」田中は辺りを見回し、誰もいないことを確認した。
「すみません、本当にどうしても…」と心の中で謝りながら、建物の陰に身を隠した。ベルトを外し、ようやく解放の瞬間を迎えようとした、その時だった。
突然、強烈な光が田中を照らした。目がくらむほど明るいスポットライトが、まさに彼の最も恥ずかしい瞬間を白日の下に晒したのだ。
「えー、皆さん、今夜は『青空ロックフェスティバル』にお越しいただき、ありがとうございます!」
マイクを通した司会者の元気な声が夜空に響き渡った。田中が隠れたと思っていた建物の裏は、実は野外ライブ会場のメインステージの真正面だったのだ。観客席には数千人の音楽ファンが座り、全員が彼の姿を凝視していた。
田中は慌てて身を隠そうとしたが、既に手遅れだった。スポットライトに照らされた彼の姿は、巨大スクリーンにも映し出されていた。観客席からはざわめきが起こり、スマートフォンのカメラのフラッシュが次々と光った。
「えーっと…」司会者も事態を把握し、明らかに動揺した声で「少々お待ちください」とアナウンスした。しかし、ライブ映像は既にインターネットで生配信されており、全国の視聴者が画面に映る田中の姿を目撃していた。
「おじさん、何してるの!?」
「これ生放送だよね?」
「スクショ撮った!」
「伝説の瞬間を見た!」
観客席からは悲鳴にも似た歓声と笑い声が起こった。田中は顔面蒼白になり、両手で顔を覆ったが、もはや後の祭りだった。
警備員が慌てて数人駆け寄ってきて、田中を取り囲んだ。続いて駆け付けた警察官が苦笑いを浮かべながら「公然わいせつの疑いで任意同行をお願いします」と告げた。
パトカーに乗せられながら、田中は心の底から後悔していた。「あの時、素直に道端で漏らしていれば…せいぜい近所の人に笑われるぐらいで済んだのに」
翌朝のワイドショーでは、「ロックフェス生中継で前代未聞の珍事件!中年男性の不適切行為が全国放送」というテロップと共に、モザイクがかかった田中の映像が繰り返し流された。コメンテーターは「お気持ちは分からなくもないですが…」と苦笑いを浮かべていた。
インターネット上では「#ライブ会場おじさん事件」のハッシュタグがトレンド入りし、「むしろ同情する」「あるあるすぎて笑えない」「明日は我が身」といった様々なコメントが飛び交った。田中の勤める会社にも記者が殺到し、「あの田中課長について一言お願いします」と取材攻勢をかけられた。
田中は結局、書類送検は免れたものの、会社では当面の自宅待機処分となった。彼は自宅で頭を抱えながら、テレビのニュースで自分の映像が流れるたびに布団を被った。
「あの時、変な見栄を張らずに、道端で漏らしていれば…」田中は何度もその瞬間を思い返した。「近所の人に『あの人、お漏らししてる』って笑われるだけで済んだのに。最悪でも地域の噂になる程度だったのに…」
しかし現実は、全国規模どころか海外のニュースサイトまで「Japanese Man’s Awkward Moment at Rock Festival」として報道される始末だった。
一週間後、田中は妻に「もう外に出るのが怖い」と弱音を吐いた。妻は肩をすくめながら「あなた、変なところで真面目だから…素直にその辺でしてしまえば良かったのよ」と苦笑いを浮かべた。
田中の「満員の夜」は、小さなプライドが招いた人生最大の失態として、永遠にインターネットの海に記録されることとなった。
「次に同じ状況になったら、絶対に迷わず漏らそう」それが田中の心からの教訓だった。尿意を我慢して大恥をかくくらいなら、最初から小さな恥で済ませるべきだった、と。
ふと思いましたが、まったくSFの要素はありませんでしたね。。。




