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光の粒子と名前のない青年

続けるかわからないけど書いたから投稿します。

風呂敷広げすぎたかも…


 ──光が舞っている。

 それは塵のようでもあり、花びらのようでもあった。廃墟となった街の路地に、淡い光の粒が漂い、ゆっくりと彼の頬をかすめていく。

 青年はうっすらと目を開いた。名前も、ここがどこなのかも思い出せない。ただ、胸の奥で焦げ付くような違和感と、何かを失ったという実感だけがあった。

 足元には一枚の古びたタグ。そこには「リュカ・フォーリア」と刻まれている。これが自分の名前だろうか──。


 立ち上がろうとして、全身に鈍い痛みが走った。まるで長い間動かなかった機械が軋むように、関節がぎしぎしと音を立てる。服は薄汚れ、あちこちが破れていた。いったいどれだけの間、ここに倒れていたのだろう。


 周囲を見回す。かつては繁華街だったのだろうか。摩天楼の残骸が空を切り裂くように聳え立ち、その間を縫って光の粒子が舞い踊っている。建物の窓ガラスは全て砕け散り、看板は錆び付いて判読不能だった。


 足音もなく、人の声もない。ただ風が廃墟を撫でていく音と、遠くから微かに聞こえる機械音だけが世界を満たしていた。


 リュカ──とりあえずそう名乗ることにした青年は、よろめきながら路地を歩き始めた。記憶がないとはいえ、体は歩き方を覚えている。足裏の感覚も、バランスの取り方も、まるで当然のことのように思い出せた。


 路地の角を曲がったとき、彼の足が止まった。


 そこに転がっていたのは、人の頭蓋骨だった。朽ち果て、所々が欠けている。そしてその隣には、別の骨らしきものが散らばっていた。


 なぜか、恐怖は感じなかった。むしろ既視感のような、懐かしささえ覚える。まるで何度も見慣れた光景であるかのように。


 「大忘却災害」


 突然、その言葉が頭に浮かんだ。なぜその言葉を知っているのかは分からない。だが、この廃墟と、舞い踊る光の粒子と、そして失われた自分の記憶──全てが、その災害と関係している気がした。


 光の粒子の一つが、彼の手のひらに舞い降りた。触れた瞬間、頭の中に映像が流れ込む。


『──ママ、怖いよ』

『大丈夫、すぐに終わるから』


 幼い子供の声と、女性の声。温かい手のぬくもり。だが、それは彼自身の記憶ではなかった。まったく知らない誰かの、遠い日の記憶だった。


 手を震わせながら光の粒子を振り払う。他人の記憶が自分の中に流れ込んでくる感覚は、想像以上に不快だった。まるで自分という存在が薄まっていくような恐怖感。


 それでも、なぜか彼はその力を持っていることを知っていた。他人の記憶を読み取ることができる──そんな異常な能力を。


 路地を抜けて大通りに出ると、廃墟の規模の大きさに息を呑んだ。見渡す限り崩れた建物が続き、かつて車道だった場所には巨大なクレーターが口を開けている。そしてその上空を、無数の光の粒子が川のように流れていった。


 光の粒子は一定方向に向かって流れている。まるで何かに引き寄せられるように。


 リュカはその流れを目で追った。遠くに見えるのは、他の建物群とは明らかに異なる巨大な構造物。摩天楼が複雑に絡み合い、まるで生き物のように蠢いているような建造物群だった。


 記憶図書館──またしても、知っているはずのない言葉が頭に浮かぶ。


 ふと、足元に何かが落ちているのに気付いた。小さな金属片。手に取ると、表面に文字が刻まれている。


『メモリーチップ・No.7749』


 メモリーチップ。それは記憶を物理的に保存したものだということも、なぜか知っていた。


 チップに触れた瞬間、また映像が流れ込んできた。


『研究日誌、第158日目。被験者の記憶移植実験は予想以上の成果を上げている。ただし、副作用として人格の融合現象が確認された。被験者は自分が誰なのか分からなくなり──』


 映像が途切れた。研究者の記憶の断片だったようだが、内容が恐ろしすぎる。記憶の移植実験?人格の融合?


 リュカは慌ててチップを手から離した。だが、一度流れ込んだ記憶は消えない。研究者の記憶が、彼自身の記憶と混じり合おうとしている感覚があった。


 頭を振って、意識を自分に集中させる。自分はリュカだ。リュカ・フォーリア。名前の意味も由来も分からないが、とりあえずそれが自分の名前だ。


 他の記憶に飲み込まれるわけにはいかない。


 大通りをさらに進んでいくと、建物の陰から微かに煙が上がっているのが見えた。人がいるのかもしれない。


 煙の方向に向かって歩いていくと、半分崩れた建物の中に簡素なテントが張られているのが見えた。焚き火の周りに数人の人影がある。


 久しぶりに見る生きた人間だった。安堵感と同時に、警戒心も芽生える。この世界で生き残っている人間が、必ずしも友好的とは限らない。


 建物の入り口で立ち止まって様子を窺う。中にいるのは中年の男性二人と、若い女性一人。ぼろぼろの服を着て、やつれた顔をしている。


 「──おい、あそこに誰かいるぞ」


 男性の一人が彼に気づいた。三人がこちらを振り返る。


 「出てこい。隠れても無駄だ」


 リュカは仕方なく姿を現した。三人の視線が彼に集中する。敵意はなさそうだが、警戒はしているようだった。


 「あんた、どこから来た?」女性が口を開く。「この辺りで見たことのない顔だが」


 「分からない」リュカは正直に答えた。「記憶がないんだ。気がついたら路地に倒れていた」


 三人が顔を見合わせる。


 「記憶喪失者か」男性の一人がつぶやいた。「最近多いな、そういうやつ」


 「ハーベスターにやられたんじゃないのか?」もう一人の男性が言う。「奴らは記憶を奪って売り飛ばす。完全に抜き取られたら、こんな風に何も覚えていない状態になる」


 ハーベスター。また知らない単語が出てきた。だが、どこか聞き覚えがあるような気もする。


 「ハーベスターって?」


 「記憶泥棒さ」女性が苦々しく答えた。「人から記憶を抜き取って、闇市場で売りさばく連中だ。高値で取引される記憶もあるからな。技術者の記憶とか、学者の記憶とか」


 「記憶を売る?」


 「そうだ。記憶は貴重品なんだよ、この世界じゃ」男性が焚き火に薪をくべながら言った。「大忘却災害で大半の知識が失われた。だから、災害前の記憶を持っている人間は貴重なんだ」


 大忘却災害。やはりその災害がすべての始まりらしい。


 「災害って、何が起きたんだ?」


 三人がまた顔を見合わせる。


 「正確にはな、誰も覚えてないんだ」女性が苦笑した。「みんな記憶を失ったから。分かっているのは、ある日突然、世界中の人間が記憶の大部分を失ったということだけ」


 「でも、断片的な記憶は残っている」男性が補足した。「だから、少しずつ状況を推測するしかない。文明が崩壊して、人口が激減して、記憶が光の粒子として物理化した」


 物理化した記憶。それがあの光の粒子の正体だったのか。


 「あの光の粒子が──」


 「メモリーフィルムだ」もう一人の男性が言った。「記憶が物質化したもの。触れると、その記憶を読み取ることができる。ただし、危険でもある」


 「危険?」


 「他人の記憶を読みすぎると、自分の人格が侵食される。最悪の場合、自分が誰なのか分からなくなる」


 リュカは身震いした。さっきチップに触れたとき、まさにそんな感覚を覚えたばかりだった。


 「でも中には、メモリーフィルムを安全に読める人間もいる」女性が興味深そうに彼を見詰めた。「そういう人間は『リーダー』と呼ばれて、重宝される」


 リーダー。記憶を読む人。自分がまさにそうなのかもしれない。だが、それを他人に知られるのは危険だろう。


 「記憶図書館を知っているか?」男性の一人が突然尋ねた。


 「記憶図書館?」


 「世界最大の記憶保管施設だ。街全体が図書館になっている。あそこには災害前の膨大な記憶が保管されているらしい」


 リュカは遠くに見えた奇怪な建造物群を思い出した。あれが記憶図書館なのだろうか。


 「でも、そこは危険な場所でもある」女性が警告するように言った。「ハーベスターどもの拠点にもなっているし、図書館を管理している『アーカイヴ』も人間に友好的じゃない」


 アーカイヴ。また新しい単語だ。


 「アーカイヴって?」


 「図書館の管理システムさ。人工知能だ」男性が答えた。「災害後も動き続けて、記憶を収集し続けている。でも最近は人間よりも記憶の保存を優先するようになったらしい」


 人工知能が記憶を管理している図書館。なぜか、そこに自分の失われた記憶があるような気がした。


 「あんた、そこに行くつもりじゃないだろうな」女性が心配そうに言った。「記憶を取り戻したい気持ちは分かるが、命の方が大事だ」


 だが、リュカの心は既に決まっていた。記憶図書館に行く。そこに答えがあるような気がするのだ。


 三人と別れて再び大通りを歩いていると、遠くから機械音が近づいてくるのが聞こえた。エンジン音のような、金属が擦れ合うような音。


 建物の陰に身を隠すと、大通りに黒い装甲車両が現れた。車体には見慣れない紋章が描かれている。骸骨を模したマークの中央に、歯車と稲妻が組み合わされたデザイン。


 車両が止まり、中から武装した男たちが降りてきた。全身を黒い装甲で覆い、顔にはゴーグルとマスクを着けている。まるで昆虫のような不気味な外見だった。


 「この辺りに記憶反応があった」その中の一人が機械的な声で言った。「リーダー級の強い反応だ」


 リーダー級。自分のことを指しているのだろうか。


 「生体スキャンを開始する」別の男が手持ちの機械を操作した。「反応は──この方向だ」


 機械が指している方向は、まさに彼が隠れている建物だった。


 ハーベスターだ。さっきの三人が話していた記憶泥棒の一団。


 リュカは建物の裏口から逃げ出そうとしたが、そこにも別の装甲車両が回り込んできていた。完全に包囲されている。


 「発見した」マスクをした男の一人が彼を見つけて叫んだ。「目標を確保しろ」


 数人の男たちが一斉に駆け寄ってくる。リュカは咄嗟に路地の奥へ走った。


 だが、彼らの足は速かった。装甲に内蔵された強化装置のおかげで、人間離れした速度で追ってくる。


 「逃げるな。無駄な抵抗はやめろ」


 背後から聞こえる機械音声。振り返ると、一人の男が奇妙な装置を構えているのが見えた。記憶抽出装置──なぜかその名前が頭に浮かぶ。


 装置から青い光線が発射された。リュカは咄嗟に身を屈めて避ける。光線が通り過ぎた場所の壁が、まるで記憶を吸い取られたかのように色褪せていく。


 もしあれに当たったら、自分の記憶は全て吸い取られてしまうだろう。今でさえほとんど記憶がないのに、完全に空っぽになってしまう。


 必死に路地を駆け抜けながら、リュカは考えた。なぜ自分がこんなに狙われるのか。記憶をほとんど失った人間に、それほどの価値があるのだろうか。


 それとも──自分が失った記憶の中に、特別な何かが隠されているのだろうか。


 路地の行き止まりに突き当たった。高い壁に阻まれて、もう逃げ場がない。


 振り返ると、ハーベスターの男たちが包囲を狭めてくる。先頭の男が記憶抽出装置を再び構えた。


 「観念しろ。お前の記憶は貴重品だ。傷つけずに回収したいが、抵抗するなら力ずくでも構わない」


 貴重品。やはり自分の記憶には何かが隠されているのだ。


 だが、それが何なのかは分からない。思い出そうとしても、頭の中は霧がかかったように曖昧なままだった。


 「最後の警告だ。おとなしく従え」


 男が装置のトリガーに指をかける。青い光が充電されていくのが見える。


 その瞬間だった。


 空中から、白い影が舞い降りた。


 それは少女だった。


 白いローブをまとい、長い銀髪を風になびかせている。年齢は二十代前半といったところだろうか。透き通るような青い瞳が、冷たい光を宿していた。


 少女は無音で地面に着地すると、ハーベスターたちを振り返った。


 「記憶図書館管理区域における無許可の記憶採取は禁止されています」


 澄んだ声だったが、どこか機械的な響きがあった。


 「セラ・ウィーヴァー」先頭の男がつぶやいた。「図書館の管理者見習いか」


 「この対象者は図書館の管轄下にあります。速やかに撤退してください」


 セラと呼ばれた少女は、感情を一切見せずに言った。まるでプログラムされた言葉を話しているかのように。


 「図書館の管轄?」男が嘲笑した。「この辺りは中立地帯のはずだが」


 「誤認です」セラが首を振る。「対象者は図書館の特別保護対象として登録されています」


 特別保護対象?リュカは困惑した。自分がなぜ図書館の保護対象になっているのか。


 「証明しろ」男が記憶抽出装置をセラに向けた。「でなければ、お前も一緒に記憶を抜き取る」


 「証明します」


 セラが右手を上げると、彼女の手のひらから光の粒子が溢れ出した。ただの光ではない。それは複雑な文様を描きながら空中に展開していく。


 ホログラムのような立体映像が現れた。そこには古い文字で何かが記されている。


 『特別保護対象:リュカ・フォーリア』

 『分類:災害関連重要記憶保持者』

 『保護レベル:最高』


 リュカは自分の名前を見て愕然とした。自分は既に図書館の記録に登録されているのか。そして「災害関連重要記憶保持者」という分類。


 自分は大忘却災害と関係があるのだろうか。


 「偽造の可能性がある」男がなおも食い下がった。「アーカイヴの直接認証がなければ──」


 その時、空気が震えた。


 低い機械音が響き、上空に巨大な影が現れる。それは球体状の機械だった。表面には無数のレンズとセンサーが埋め込まれ、中央の大きな「目」がハーベスターたちを見下ろしている。


 『警告。図書館管理区域における無許可侵入を確認。即座に撤退せよ』


 機械的な音声が響く。アーカイヴ──図書館の管理システムの一部だろう。


 ハーベスターたちの顔が青ざめた。どんなに強力な装備を持っていても、アーカイヴには敵わないということを知っているのだ。


 「撤退する」先頭の男が歯軋りしながら言った。「だが、これで終わりではない。いずれ必ず回収する」


 男たちは装甲車両に戻り、エンジン音を響かせながら去っていった。


 空中の球体機械も、彼らが完全に立ち去るのを確認してから消えていく。


 路地にリュカとセラだけが残された。


 「ありがとう」リュカが言った。「君が助けてくれなかったら──」


 「礼は不要です」セラが冷たく答えた。「私は任務を遂行しただけです」


 任務。やはり彼女は人間というより、機械に近い存在なのかもしれない。


 「君は図書館の管理者なんだね」


 「見習いです」セラが訂正した。「正式な管理者になるには、まだ試験が残っています」


 「それで、なぜ僕を保護する必要があるんだ?」


 セラが振り返る。その青い瞳は美しかったが、感情の欠片も読み取れなかった。


 「あなたは重要な記憶を持っています」


 「重要な記憶?でも僕は記憶喪失で──」


 「表面的な記憶は失われています。しかし、深層記憶は残存している可能性があります」


 深層記憶。初めて聞く言葉だった。


 「深層記憶って?」


 「意識の奥深くに眠る記憶です。通常の記憶抽出では取り出せません。しかし、適切な刺激を与えれば覚醒する場合があります」


 「それが大忘却災害と関係があるのか?」


 セラが少しだけ表情を変えた。驚いたような、困惑したような。


 「なぜその言葉を知っているのですか?」


 「分からない。ただ、なぜか頭に浮かんでくるんだ」


 「やはり」セラがつぶやいた。「あなたは災害の目撃者である可能性が高い」


 災害の目撃者。自分が大忘却災害を直接経験したということなのか。


 「僕に何が起きたんだ?なぜ記憶を失ったんだ?」


 「それを調べるためにも、図書館に来てください」セラが手を差し伸べた。「ここは危険です。ハーベスターは必ず戻ってきます」


 リュカはためらった。この少女を信用していいのだろうか。彼女もまた、何かを隠しているような気がする。


 だが、他に選択肢はなかった。このまま街をさまよっていても、またハーベスターに捕まるだけだろう。


 「分かった。ついていく」


 セラの手を取った瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。


 まるで水の中に沈んでいくような感覚だった。重力が消失し、時間の流れが曖昧になる。リュカの視界は白い光に包まれ、何も見えなくなった。


 これは転移技術だ──なぜかそう確信できた。記憶にないはずの知識が、頭の奥から湧き上がってくる。


 やがて光が薄れ、足の裏に固い感触が戻ってきた。目を開くと、そこは先ほどまでいた路地とはまったく違う場所だった。


 天井が恐ろしく高い。いや、天井があるのかどうかも定かではない。上を見上げると、無限に続く書架が立体的に組み合わさって、まるで巨大な迷宮を形成していた。


 書架と書架の間には光の粒子が漂い、まるで星座のように美しい模様を描いている。それらの光が、この巨大な空間を淡く照らし出していた。


 「これが記憶図書館」リュカが息を呑んだ。


 「正確には図書館の入口フロアです」セラが説明した。「図書館の全体構造は地上300階、地下200階の複合施設です」


 500階建ての図書館。常識では考えられない規模だった。


 「どうやってこんな建物を──」


 「大忘却災害後、アーカイヴが自動建造システムを使って拡張し続けています」セラが淡々と答えた。「記憶の保管量が増えるたび、新しい書架と保管設備が追加されます」


 自動で成長し続ける建物。それがあの奇怪な外観の正体だったのか。


 周囲を見回すと、他にも人の姿があった。様々な年齢層の男女が、書架の間を歩き回っている。中には光の粒子を瓶に集めている人もいた。


 「利用者ですね」セラが彼の視線に気づいて言った。「図書館は一般開放されています。ただし、危険な記憶にアクセスするには許可が必要です」


 「危険な記憶?」


 「人格崩壊を引き起こす記憶、精神汚染を起こす記憶、自殺誘発記憶など、様々な危険記憶が保管されています」


 まるで毒薬のような記憶があるということか。


 セラが歩き始めた。リュカは慌てて後を追う。


 書架の間を進んでいくと、巨大なカウンターが見えてきた。そこには人間ではなく、機械が座っている。いや、座っているというより、カウンターと一体化していた。


 機械の上半身は人型だったが、下半身は無数のケーブルとなってカウンターの内部に接続されている。顔の部分にはモニターがあり、そこに文字情報が流れていた。


 「図書館司書です」セラが説明した。「利用者の案内と記憶の検索を担当しています」


 『いらっしゃいませ』機械が人工的な声で挨拶した。『本日はどのような記憶をお探しでしょうか?』


 「個人記録の閲覧を申請します」セラが答えた。「対象者はリュカ・フォーリア。特別保護レベルでの記録確認です」


 『確認いたします』


 司書の目の部分が光り、何かをスキャンしているようだった。


 『記録を確認しました。リュカ・フォーリア様、特別保護対象として登録されています。ただし、深層記憶へのアクセスには上級管理者の許可が必要です』


 「上級管理者の許可?」リュカが聞いた。


 「アーカイヴの直接許可です」セラが答えた。「通常の記録は司書レベルでアクセスできますが、あなたの記録は最高機密扱いです」


 最高機密。自分の記憶がなぜそんな扱いを受けているのか。


 『とりあえず、一般レベルの記録をご覧になりますか?』司書が提案した。


 「お願いします」


 司書の手──というより機械的な腕が空中で複雑な動きを見せた。すると、カウンターの上に立体映像が現れる。


 そこには文字と画像が浮かび上がった。


『リュカ・フォーリア』

『推定年齢:19歳』

『発見場所:第7居住区廃墟』

『記憶状態:表層記憶90%欠損、深層記憶保存確認』

『特記事項:災害目撃者の可能性極大』


 画像には、意識を失った状態の自分が写っていた。いつ撮られたものかは分からないが、今よりも更にやつれて見える。


 「これは?」


 「3日前にアーカイヴの捜索ユニットが発見した時の記録です」セラが説明した。「あなたは廃墟の地下室で、仮死状態で発見されました」


 3日前。つまり自分は3日間、あの路地に倒れていたということか。


 『さらに詳細な記録もあります』司書が付け加えた。『発見時の医学的データ、周辺環境の分析結果など』


 「見せてください」


 新たな映像が現れる。今度は医学データのようだった。脳波パターン、血液検査結果、その他の生体情報が数値とグラフで表示される。


 だが、リュカが注目したのは別の部分だった。


 『脳内記憶パターン分析結果』

 『通常記憶:10%残存』

 『災害関連記憶:封印状態』

 『深層記憶:活性化兆候あり』


 封印状態?自分の記憶が意図的に封印されているということなのか。


 「これはどういう意味だ?」


 セラが少し躊躇うような表情を見せた。


 「記憶の封印は、通常、本人の精神を保護するために行われます」


 「精神を保護?」


 「あまりにも強烈で危険な記憶の場合、それを思い出すことで精神崩壊を起こす可能性があります。そのため、記憶が自動的に封印される場合があります」


 自分の記憶がそれほど危険なものだというのか。


 『ただし』司書が割り込んだ。『封印された記憶も、適切な手順で解除することは可能です。ただし、非常に危険を伴います』


 「どんな危険が?」


 『最悪の場合、記憶の解放によって人格が消失する可能性があります』司書の声が重々しく響いた。『過去にも何人かの被験者が、封印解除の過程で自我を失っています』


 リュカは背筋が寒くなった。記憶を取り戻すことで、自分という存在が消えてしまう可能性があるのか。


 「それでも、僕は知りたい」


 セラが驚いたような目で彼を見た。


 「危険を承知の上で?」


 「記憶のない自分で生きていくよりも、危険を冒してでも真実を知りたい」


 それは嘘ではなかった。記憶を失った状態では、自分が何者なのか、何のために生きているのかが分からない。それは生きているとは言えない状態だった。


 『その決意であれば』司書が言った。『上級管理者への面会を申請いたします。ただし、許可が下りるかどうかは分かりません』


 「面会はいつできる?」


 『アーカイヴの判断次第です。早ければ明日、遅ければ数週間後になる可能性もあります』


 数週間も待つのか。だが、仕方がない。


 セラが振り返った。


 「それまでの間、図書館の宿泊施設を利用してください」


 「宿泊施設?」


 「図書館には研究者や長期利用者のための宿泊設備があります」セラが歩き始めた。「そこなら安全ですし、他の記憶も閲覧できます」


 カウンターを離れて、さらに図書館の奥に進んでいく。書架の規模がさらに巨大になり、中には建物のような大きさの書架もあった。


 「この図書館には何冊くらいの本があるんだ?」


 「本という概念はありません」セラが答えた。「ここにあるのは全て記憶です。物理化された記憶体、メモリーチップ、記憶結晶など、様々な形態で保存されています」


 「記憶結晶?」


 「高度に圧縮された記憶の塊です。一つの結晶に何千人分もの記憶を保存できます」


 想像を絶する量の記憶が保管されているということか。


 歩いていると、時々他の利用者とすれ違った。皆、真剣な表情で光の粒子を見つめたり、何かの装置を操作したりしている。


 中には明らかに異様な行動を取っている人もいた。一人の中年男性は、同じ場所をぐるぐると回りながら独り言をつぶやいている。別の女性は、空中に向かって何かに話しかけるような仕草を見せていた。


 「あの人たちは?」


 「記憶中毒者です」セラが冷淡に答えた。「他人の記憶を読みすぎて、現実と記憶の区別がつかなくなった人々です」


 記憶中毒。恐ろしい症状があるものだ。


 「治療法はないのか?」


 「基本的にありません。一度混乱した記憶パターンを元に戻すのは不可能です」セラは振り返りもせずに答えた。「だからこそ、記憶の閲覧には細心の注意が必要なのです」


 やがて、一つのエレベーターの前に着いた。普通のエレベーターではなく、透明な球体状の乗り物だった。


 「宿泊フロアへ移動します」


 セラが球体に触れると、入口が開いた。中に入ると、球体はゆっくりと浮上し始める。


 窓から見える景色は圧巻だった。無数の書架が立体的に組み合わさり、その間を光の粒子が流れている。まるで光の銀河系を見ているようだった。


 「美しいな」リュカがつぶやいた。


 「記憶は美しいものです」セラが初めて感情らしきものを声に込めた。「人の人生そのものですから」


 「君は記憶が好きなのか?」


 「好きという感情を持っているかどうか分かりません」セラが困ったような表情をした。「私は幼少期からアーカイヴに育てられました。人間らしい感情を学ぶ機会がなかったので」


 機械に育てられた少女。それでセラがどこか人間離れして見えるのか。


 「でも、君は確実に人間だ」リュカが言った。「さっき記憶について話すとき、君の目は確実に輝いていた」


 セラが振り返る。その瞳に、一瞬だけ困惑の色が浮かんだ。


 「私には感情があるのでしょうか?」


 「あると思う。ただ、それを表現する方法を知らないだけだ」


 球体が止まった。扉が開き、外は住宅街のような区画になっていた。ただし、建物の形状は一般的ではなく、まるで巨大な本が並んでいるような外観だった。


 「ここが宿泊区域です」セラが説明した。「研究者やリーダー専用の居住施設です」


 建物の一つに案内され、中に入ると、普通のアパートの一室のような部屋だった。ベッド、机、本棚、簡素な台所。ただし、本棚には本ではなく、様々な形状の記憶保存体が並んでいる。


 「ここで休んでください」セラが言った。「食事は食堂で摂ることができます。時間は壁のディスプレイで確認してください」


 「ありがとう」リュカが言った。「君がいなかったら、僕はハーベスターに捕まっていただろう」


 「任務ですから」セラが再び機械的な口調に戻った。「では、失礼します」


 セラが出て行こうとしたとき、リュカが呼び止めた。


 「セラ」


 「はい?」


 「なぜ僕を助けてくれたんだ?本当の理由を教えてくれないか」


 セラが立ち止まった。長い間沈黙した後、小さくつぶやいた。


 「あなたを見ていると、不思議な感覚になるのです」


 「不思議な感覚?」


 「懐かしいような、切ないような。その感情が何なのか分かりませんが──あなたは私にとって特別な存在のような気がします」


 そう言うと、セラは急いで部屋を出て行った。


 一人になったリュカは、ベッドに腰を下ろして考え込んだ。


 セラも何かを隠している。彼女もまた、記憶に関する秘密を抱えているのかもしれない。


 窓の外を見ると、図書館の巨大な書架群が見えた。あの中のどこかに、自分の失われた記憶が眠っている。


 そして、その記憶を取り戻したとき、自分は一体何を知ることになるのだろうか。


## 6. 夜の図書館


 夜が来ても、図書館は眠らなかった。


 窓の外を見ると、書架の間を光の粒子がより活発に動き回っている。まるで夜行性の生き物のように、暗闇の中で美しく舞い踊っていた。


 リュカは眠ることができずにいた。ベッドに横になっても、頭の中で様々な疑問がぐるぐると回り続ける。


 自分は本当に大忘却災害の目撃者なのか。

 なぜ記憶が封印されているのか。

 ハーベスターがなぜ自分を狙うのか。

 そして、セラが感じているという「懐かしさ」の正体は何なのか。


 考えても答えは出ない。ならば、直接調べてみるしかない。


 リュカは部屋を出て、図書館内を歩き回ることにした。夜間でも利用者はいるようで、時々人とすれ違った。皆、昼間よりも深刻な表情をしている。夜の図書館では、より深い記憶にアクセスする人が多いのかもしれない。


 歩いているうちに、一つの書架の前で立ち止まった。そこには「災害関連記録」という札がかかっている。


 大忘却災害に関する記憶がここに保管されているのだろうか。


 書架には様々な形状の記憶保存体が並んでいた。光る石のようなもの、透明な液体が入った瓶、金属製のディスクなど。


 その中の一つ、小さな水晶のような石に目が留まった。なぜか、それに強く惹かれる感覚があった。


 石に手を伸ばしかけたとき、背後から声がした。


 「その記憶は危険です」


 振り返ると、セラが立っていた。白いローブが暗闇の中で淡く光っている。


 「なぜここに?」


 「夜間巡回です」セラが近づいてきた。「利用者が危険な記憶にアクセスしないよう監視しています」


 「その石は何の記憶なんだ?」


 「災害発生時刻の記録です」セラの声が重くなった。「災害の瞬間を目撃した人の記憶が保存されています。ただし、非常に強烈で、普通の人が読むと精神崩壊を起こします」


 災害の瞬間。それを見れば、何が起きたのか分かるかもしれない。


 「僕が読んだらどうなる?」


 「分かりません」セラが正直に答えた。「あなたは特殊体質ですから、もしかすると読めるかもしれません。ただし、そこで読んだ記憶が引き金となって、封印された記憶が解放される可能性があります」


 「それは危険なことなのか?」


 「極めて危険です」セラが石から彼を引き離すように立ち位置を変えた。「封印が解除されるとき、あなたの人格が消失するかもしれません」


 だが、リュカの中では既に決心が固まっていた。


 「それでも読みたい」


 「なぜです?」セラが困惑した表情を見せた。「死ぬかもしれないのに」


 「記憶のない生活は、生きているとは言えない」リュカがセラを見つめた。「君だって、自分の感情が何なのか知りたいと思っているだろう?それと同じだ」


 セラが黙り込んだ。


 「君も僕と同じなんだ」リュカが続けた。「自分が何者なのか、本当は何を感じているのか、それを知りたがっている」


 「私は──」セラが言いかけて止まった。


 「一緒に調べよう」リュカが提案した。「僕は自分の記憶を、君は自分の感情を」


 長い沈黙の後、セラが小さくうなずいた。


 「分かりました。ただし、条件があります」


 「条件?」


 「私が立ち会うこと。そして、危険だと判断したら、すぐに記憶の閲覧を中止すること」


 「承知した」


 セラが書架の前にある操作パネルに触れる。パネルが光り、認証システムが作動した。


 『管理者権限を確認しました』機械音声が響いた。『災害関連記録へのアクセスを許可します』


 石の周りに保護フィールドが解除された。リュカはゆっくりと手を伸ばし、石に触れる。


 瞬間、世界が爆発した。


 ──それは終わりの始まりだった。


 リュカの意識は、突然別の人間の身体に入り込んだ。研究者の男性らしい。研究所の中で、巨大な装置を操作している。


『記憶統合実験、最終段階に移行します』


 男性──記憶の持ち主が同僚に向かって言った。


『本当に大丈夫なのか?』別の研究者が心配そうに答えた。『人類の集合記憶を一箇所に集約するなんて、前例がない』


『問題ありません。計算上、システムは安定するはずです』


 装置が作動し始めた。それは巨大な球体状の機械で、表面には無数の電極が取り付けられている。周囲には複雑な配線と制御装置が配置されていた。


 球体が光り始める。最初は微かな光だったが、徐々に強くなっていく。


『記憶収集開始。世界各地の記憶保管施設から、記憶データの転送を開始します』


 モニターに様々な数値が表示される。記憶データの転送量、システムの負荷、エネルギー消費量。全て予想の範囲内で推移していた。


『順調です。予定通り24時間で全人類の記憶を統合できます』


 だが、異変は6時間後に起きた。


『警告!システム負荷が臨界値に達しています!』


 警報が鳴り響く。球体装置が異常な振動を始めた。


『どういうことだ?』記憶の持ち主が慌てて計器を確認した。『記憶データ量が予想の10倍を超えている』


『人類の記憶量を過小評価していたようです』別の研究者が青ざめながら報告した。『このままでは装置が暴走します』


『停止しろ!実験を中止だ!』


 だが、もう遅かった。


 球体装置が突然膨張し始めた。まるで風船のように大きくなっていく。そして──


 爆発した。


 正確には爆発ではなく、崩壊だった。装置の中に蓄積されていた膨大な記憶データが一瞬で解放され、波のように周囲に拡散していく。


 記憶の津波。


 それは物理法則を無視して広がり、触れたもの全ての記憶を奪っていく。研究者たちが次々と倒れ、記憶を失って意識を失った。


 記憶の持ち主も例外ではなかった。津波に飲み込まれる直前、彼は一人の少年の姿を見た。


 装置の近くに立っていた少年。なぜか津波の影響を受けずに立っている少年。


 その少年の顔は──


 「やめて!」


 セラの声で、記憶の閲覧が中断された。リュカは石から手を離し、よろめきながら後ずさった。


 「見えたのか?」セラが心配そうに尋ねた。「災害の瞬間が」


 「ああ」リュカは震え声で答えた。「記憶統合実験の失敗だった。人類の記憶を一箇所に集めようとして、装置が暴走した」


 「それで?」


 「記憶の津波が世界を覆った。それが大忘却災害の正体だ」


 セラが息を呑んだ。


 「そして──」リュカが続けた。「災害の現場に少年がいた。津波の影響を受けない少年が」


 「その少年は?」


 「僕だ」


 静寂が図書館を支配した。


 「君は災害の引き金だったのですね」セラがつぶやいた。


 「いや、違う」リュカが首を振った。「引き金は装置の暴走だ。でも僕は──僕はなぜか影響を受けなかった」


 なぜ自分だけが記憶の津波の影響を受けなかったのか。そして、なぜ今は記憶を失っているのか。


 「もっと調べる必要がある」リュカが言った。「僕の記憶の封印を解除してくれ」


 「できません」セラがきっぱりと答えた。「あまりにも危険です」


 「でも──」


 「これ以上の記憶の閲覧は、あなたの精神を破壊します」セラの声に珍しく感情が込められていた。「私は──私はあなたを失いたくありません」


 リュカがセラを見つめた。彼女の青い瞳に、初めてはっきりとした感情が宿っているのが見えた。


 恐れ。そして、別の何か。


 「君は僕の何を知っているんだ?」


 セラが視線をそらした。


 「私には答えられません」


 「なぜ?」


 「アーカイヴに禁止されているからです」セラの声が震えた。「あなたに関する情報は、最高機密です。私は管理者見習いの身分では、アクセスできません」


 機密情報。やはり自分には重大な秘密が隠されているのだ。


 「ならば、アーカイヴに直接会う必要があるな」


 「それは──」セラが言いかけたとき、突然警報が響いた。


 『警告。図書館に不法侵入者を確認。全利用者は速やかに避難してください』


 アーカイヴの緊急放送だった。


 「ハーベスターです」セラが顔を青くした。「大規模な侵攻作戦のようです」


 遠くから爆発音と銃声が聞こえてくる。戦闘が始まったのだ。


 「君は避難しろ」リュカがセラに言った。「僕が狙いなら、僕がいない方が安全だ」


 「いえ」セラが首を振った。「あなたを守るのが私の任務です」


 また爆発音。今度はより近い場所からだった。


 「この書架では隠れきれない」セラが判断した。「より安全な場所に移動しましょう」


 「どこに?」


 「図書館の最深部」セラの目に決意の光が宿った。「そこなら、アーカイヴの本体があります。最高レベルの防御システムで守られています」


 最深部。そこには何があるのだろうか。


 爆発音がさらに近づいてきた。もう時間がない。


 「案内してくれ」


 セラがうなずき、二人は図書館のさらに奥へと向かった。


 書架の迷宮を駆け抜けながら、リュカは考えた。ハーベスターの狙いは明確に自分だ。それも、通常の記憶泥棒ではなく、組織的な作戦を展開している。


 自分の記憶には、それほどの価値があるのか。


 そして、図書館の最深部で、ついに真実と向き合うことになるのかもしれない。


 災害の記憶を見たことで、封印された記憶の一部が動き始めているのを感じた。まるで眠っていた巨大な何かが、ゆっくりと目を覚まそうとしているような感覚。


 果たしてそれは、自分を救うものなのか。


 それとも、自分を破滅に導くものなのか。


 答えは、図書館の最深部にある。

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