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……目を開けた。
最初に感じたのは、空気の重さだった。
湿った風がコンクリの匂いを連れて肌を撫でる。
暗がりの中、私は立っていた。
いつものシャツとズボン、それに革靴――精神世界での「私の制服」とも言える格好のまま。
少なくとも裸じゃなくて安心した。
おそらく、私という存在が“この世界”に出されたときに、精神世界の服装ごと具現化されたのだろう。
ありがたい話だ。
ただ、もっとありがたいのは、
**「私には認識阻害が使える」**ということだ。
これだけは、何よりの強みだ。
例えば、今この路地裏を歩いている私を見かけた誰かがいたとしても――
その人間はすぐに視線を逸らす。
私の姿は「ただの男」でしかなく、目を逸らした直後にはもう記憶の底へ沈んでいる。
彼らの脳は、私という存在を処理することすら放棄する。
……面白いだろう?
私が精神世界の中で生まれたからこそ得た力。
「脳と認識の隙間」を突ける、それが私だ。
とはいえ、目的もなく彷徨っているわけじゃない。
この世界に出された以上――私はレンのそばに戻らなければならない。
……それが、私の「存在理由」なのだから。
けれども、今の私はひとまず**“彼と切り離された状態”**にある。
感覚も繋がっていない。声も届かない。
私自身の意思と体で、この現実を歩いていかなければならない。
ならば、やることは一つ。
情報を集める。
この世界がどれほど“歪んでいる”か。
何が“異常”を起こしているか。
そして、レンの周囲で何が進んでいるのかを――。
そう考えて歩いていると、妙な建物に出くわした。
路地裏の奥、灯りの少ない通りにひっそりと立っている。
看板には何の表示もない。
扉のガラスも曇っていて、中の様子は見えない。
……だが、中から漏れてくる音がある。
喧騒。
嬌声と、硬貨の弾けるような音。
――カジノ。
違法な匂いがする。
だが、逆に言えば、こういう場所ほど“情報”が集まる。
ならば利用しない手はない。
私は認識阻害を解かず、堂々と真正面から入り込んだ。
受付の男の目の前を通り過ぎても、ただの空気のようにスルーされる。
ここの人間がいくら目ざとくても、脳に“私”の存在が届かない以上、対処もできない。
奥へと進むと、そこは確かにカジノだった。
煌びやかな照明、騒がしい音、チップが飛び交い、
男たちと女たちが欲望を賭けて笑っていた。
その中にいる自分が、滑稽なほど冷静だったのがまた面白い。
ただ、一つ問題があった。
この顔だ。
レンと同じ顔。
ここにいる誰かが彼を知っていたら、
それはつまり、**「レンが違法カジノに来ている」**という誤解を生む。
それは――まずい。
彼に迷惑をかけることは、私の存在理由に反する。
……と、思っていたらちょうど良いものを見つけた。
従業員用のロッカールームにこっそり入り込み、スーツとネクタイを拝借。
サイズもちょうど良い。
さらに、別室には“客から没収された物品”が雑に保管されていた。
その中に、フルフェイスのヘルメット型マスクがあった。
スチームパンク風のデザインで、口元に銀の装飾があり、目の部分は黒いミラーガラスで隠されている。
なるほど。
これなら顔を隠せるし、見た目のインパクトも十分だ。
私はそれを頭に被り、ネクタイを締め直す。
「これでよし」
鏡の前に立つ。
そこには、スーツに身を包んだ、どこの誰とも分からぬ“何者か”が立っていた。
レンではない、私――エンだ。
ならば、ここからは私の仕事だ。
潜入、調査、情報収集。
このカジノに巣食う“異常”を嗅ぎ取って、レンに繋がる手がかりを探す。
私の“認識阻害”があれば、働くのも難しくない。
人手不足の裏カジノなんて、仮面を被って無言で働いてくれる従業員がいれば、誰も文句は言わない。
そして、何より――
この世界の歪みを感じる。
心が軋む音がする。
ここには“何か”がある。
あの精神干渉を行った敵と、きっと繋がっている。
ならばここでの潜入は、単なる生き延びの手段ではなく、
レンを守るための“行動”だ。
私は、再び足を踏み出す。
仮面の内側で、冷たい目を光らせながら。
私はエン。
レンの精神が生み出し、心を守ってきた存在。
今度は、“現実”で彼を守る番だ。