19
「はー……やっぱ銭湯っつーのは、こうでなきゃなあ!」
湯気の立ちこめる脱衣所で、リョウが腕をぶんぶん振りながら嬉しそうに叫んだ。
湯船が一望できる広い浴場は、古風ながら清潔に保たれており、光沢のあるタイルが湯気を反射して淡く輝いていた。
「お前らもたまにはこうやってな、汗と一緒に心の垢も落としてけよ。裸の付き合いってヤツだ」
「……理屈は理解するが、なぜ全裸なのかは未だに納得できていない」
隣でタオルを持ちながらぼそっと言ったのは、エンだった。
腰にタオルを巻いたまま、ぎこちない動作で周囲を観察している。
「初めてか、エン?」
リョウがニヤニヤしながら訊ねると、エンはこくんと頷いた。
「入浴という行為そのものが、私にとっては初体験だ。……自室のシャワーで全て済ませていた」
「じゃあ、お前、湯船入ったことねぇのか。……もったいねぇ!」
レンが笑いながら背中をタオルでゴシゴシと拭きつつ、横目でエンの動きを確認する。
エンは自分の腕を見て、タオルを握る手にぎこちなく力を込めていた。
「皮膚の感覚が、少し鋭い。……体温の上昇を伴う長時間の入浴は、過剰な刺激になる可能性があると思っていた」
「やってみなきゃわかんねーだろ。お湯は魔法より優しいぞ?」
「……優しい魔法、か」
ぽつりと呟いたその声は、どこか興味を含んでいた。
「じゃ、ほら。とりあえず入れ。タオルは湯船に入れんなよ。常識だぞ」
「了解した」
「お前らもちゃんと肩まで浸かれよ~。風呂は“裸の付き合い”ってな、昔から決まってんだ」
「……お前、それ口実に連れてきたろ」
「言うなよ、そういうことを。な? エン」
リョウが湯船の向かいにいるエンに声をかける。
エンは浴場に入ってきたときから、どこか動きがぎこちなかった。タオルの巻き方も、どこで脱ぐかも、明らかに不慣れ。
そして今――彼は湯船の縁に静かに腰を下ろし、少しずつ足先から湯に沈んでいく。
「……熱……い、が……」
眉をわずかに寄せながら、慎重に体を沈めていくエン。
肩まで浸かると、小さく息を吐いた。
「……ああ……これは……」
「ん?」
「……あたたかい、な……。その、……全身が、ゆるむような、……不思議な感覚。……心拍数と、筋肉の緊張が、落ち着いて……」
言葉を選びながら、ゆっくりと話す彼の声には、どこかとろんとした響きがあった。
いつもは無表情気味な顔も、ほんの少しだけ緩んでいて、頬が赤くなっていたのは湯のせいだけではなさそうだった。
「……きもち、いい。これが、気持ちいい、という感覚……なのだろうか」
「そっか、エン、風呂自体初めてだったっけか。シャワー派なんだよな?」
レンが確認すると、エンは静かに頷いた。
「ああ。自室にあるシャワーのみで済ませていました。……入浴という行為の利点は、理論としては理解していたが……。実際の、体験としての理解は……これが、初めて。」
「ふーん……でも、嫌じゃないみたいだな」
「……ああ。……とても、……いい。ぬくもりが、体の中に、……入ってくるような、感覚で……」
「語彙力どこ行った」
「……悪い。……感覚の言語化は、得意では、無い。……だけど、これは、“よい”と……強く、思う」
エンの喋りはどこか固く、たどたどしい。それでも、
“伝えよう”という意志だけは、確かに湯の温度よりもあたたかく、仲間たちに届いていた。
「……なあ、お前、ちょっとだけ子犬みたいな顔してるぞ、今」
リョウが笑いながら肩を叩くと、エンは一瞬だけキョトンと目を見開き、
次の瞬間、言葉に詰まって湯に視線を落とした。
「……表情が……緩んでいた、ようだ。……すまない」
「なんで謝る?」
「……意図せず、……だらしない顔を見せるのは、……自分にとっては、不適切だと……」
「いいじゃん別に。風呂くらい、気ぃ抜けよ」
「……“気を抜く”という行為は、まだ……上手く、できない」
「だろうなあ」
肩をすくめたレンの横で、リョウが湯の中でぐいっと伸びをした。
「でもさ、エン。お前、風呂ってこんなに“良い”って分かったなら、ちょっとは俺に感謝してもいいと思うぜ?」
「……ありがとう。……たしかに、これは、……その……ふふっ……とても、いい……な」
「お、笑った!?」
「笑ったな!?」
驚く男たちを前に、エンはほんの一瞬だけ、唇の端をわずかに上げた。
けれどすぐにまた表情を戻し、湯に浸かりながら、目を細める。
「……“ふろ”……いい。すごく、いい」
そこにいた全員が、そのとろんとした顔と、無理して紡がれた言葉に、心をやわらかくされた。
クールで理論派のエンが、風呂という“感覚の世界”に、ほんの少しだけ溶けていく。
それが、何よりも“仲間との距離”を近づけていた。
湯けむりの向こう、レンがそっと目を細める。
「……お前、もう立派に“こっち側”だよ、エン」
「……ああ。……それは、お前たちが、ここに、居させてくれたからだよ」
湯の温度と、心のぬくもりが重なる時間だった。