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外がすっかり暗くなったころ、ひばりはひとりでホテルを出た。

目指すは居留地の先、日本人地区である。

レンガ造りの通りを抜けると木造家屋ばかりとなった。


「久しぶりに見る漢字だわ……」


ひばりは『日本』に飢えている。

日本語の看板がある店がならぶ姿に感動しながら目的の店を探す。


「蚕、布、茶……あった!」


『飯』の文字を見つけ、すぐさまその店に飛び込む。


「あの!ご飯って、まだ食べられますか!?」


西洋ドレスをきた女に最初は眉をひそめられた。

しかしすぐに日本人だとわかってもらえ、席へと案内してくれた。

昼間のレストランに比べてこの飯屋はホコリっぽく、綺麗だとはお世辞にもいえない。

それでもこの白い飯と魚が食べれるなら、どんな高級レストランよりもこの飯屋の方が上である。


「10年ぶりの白米、味噌汁、焼き魚にお漬物!」


運ばれてきた日本食にひばりは感激していた。

このために自分は帰国したのだとさえおもった。

箸をとって、手を合わせる。10年ぶりの仕草だ。


「いただきまーす」

「なぜおまえがここにいる」


ご飯を口へ運びかけて止まるひばり。

目の前に『元夫』が現れたのだ。


「んなっ、なんでここにいるんですか!?」

「人の質問には答えないで、自分の聞きたいことを聞くか。あいからわず生意気な女だ」


ひばりは開いた口がふさがらない。


「こんなところまで勝手に出歩いてきて、なんのつもりだ?」


さきほどの会食でみせていた愛想の良さはどこへいったのか。

元夫、久邇は不機嫌そうな顔でこちらをみおろして威圧してくる。


「しかも飯をまた食べるとは。そんなに意地汚い女だったのか、おまえ」

「ち、ちがいます!これは、日本食が食べたくて!」

「レストランの食事じゃ満足しなかったのか。贅沢者め」

「そうじゃなくて!レストランの食事は西洋料理で油っぽいし重くて、船旅で疲れてるから食欲がわかなかったんです。それに、せっかく日本に帰ってきたから日本のものを食べたいとおもってて……」

「日本ではまだ食うのにも困る人間が大勢いる。それなのに、出された食事を無駄にして、新たな食事を求めるとは。あきれるな」


言い返せず言葉につまるひばり。

彼の言い分は正しいが、ここでそれを自分に言われてもという気持ちがある。


「あ、ちょっと!なんでそこに座るんですか!?」


ひばりの目の前に座る久邇。


「席がここしか空いてないからだ」


たしかに店は客でいっぱいだった。


「こんな遅い時間なのに、すごいお客さんの数」

「日帰りの行商をしにきた人間たちだろう。ここら辺で遅くまで飯を出すのはこの店だけだ。いつもこの時間帯はこんなふうに混んでいる」


いつものを、と短く店員に注文する久邇。


「よく来るんですか、このお店に?」

「ひと月前からというだけだ。別に常連というわけではない」

「一ヶ月前?そんなに前から外務省はアメリカ公使を迎える準備を?」

「それもあるが、主な理由は居留地の貿易状態の調査だ。本当なら税関のヤツらの仕事だが人材不足で俺までかり出されている。ここに来てからまともに飯を食える時間がない」


久邇は書類の束らしきものを抱えていた。

こんな時間まで仕事をしていたということだろう。


「そういえば、先ほどの会食ではお食事されていませんでしたね」

「俺は通訳だ。口を動かすのに、食べ物を入れてどうする。邪魔になるだけだ」


そういわれると、のんきに食べ物を口にしていた自分が馬鹿のように思えてくる。


「そうですか。じゃあ通訳の仕事も、外務省の仕事もない私は、ゆっくりとご飯を頂かせていただきます」


とっとと食事をすませて、ここを立ち去ろう。

ひばりはそうおもったのだが、米をひと口にした瞬間にそんなことはできなくなった。

米の旨味とかすかな甘味。

こんな美味しいものを早く食べるなどもったいない。

結局はひとつひとつを噛み締めるように味わった。

ひばりが食事を終える頃には、向かいにいる彼も食事が終わっていた。

こちらが終わるまで待っていたようで、それまで無言だった彼が口を開いた。


「終わったか?」


食後のお茶をすするひばり。

やっぱり日本のお茶って素晴らしいと再確認する。

心をすっかりと落ち着かせて彼と向かい合う。


「色々と聞くことがある。だが、そのまえに言いたいことがある」


湯呑みを発明した日本人は素晴らしい。じんわりとした熱がほど良い具合で伝わってくる。西洋の茶器だとこうはいかない。


「俺に謝れ」


何言ってんだ、この男?


「おまえは俺に迷惑をかけたんだ。謝れ」

「すいません、ちょっと何をおっしゃられているのか、理解しかねます」

「10年も国を離れて、日本人的道徳観念もなくしたか」

「私の中に残ってる日本人的感覚からすれば、根拠もなく意味不明にかつ理不尽に謝罪を要求されているようにしか感じません」

「口達者なのは相変わらずだな」

「そちらも、自分本位なご発言は相変わらずなようで」


癪に触ったのか、いっそう眉間に皺をよせる彼。


「おまえが密航して国を出たあと、俺は拘束されて取り調べを受けた」


あ、とひばりは悟った。


「幕府時代、密航は死罪にあたいする国家反逆罪だ。実行すれば身内にも迷惑がかかる。それをおまえが考えなかったはずがない」


たしかにそれは考えた。

だが、残る身内は交流の薄い叔母家族のみ。

周りに迷惑はあまりないだろうとおもっていた。

しかし、まさか元夫に迷惑がいくとは。


()()()()()()()()()()()、幕府と藩から詮議(せんぎ)を何日も受けた。先生のこともある。思想に問題はないかと、しばらく監視もされた」

「それは……その、お気の毒なことでした」

「気の毒?それだけか?おまえのせいで、俺はいらぬ面倒をかけられた。ここは謝るのが筋というものじゃないのか?」


責めるようにつめられ、ひばりはちょっとむっとした。

こちらとて言い分はある。

だが、そんなことをしてこれ以上この男と会話をしたくはなかった。


「ご迷惑をおかけしました!これで満足ですか?それじゃあ、私はもうこれで」

「待て」


条件反射なのだろうか。

待てといわれて立ち止まって振り向いてしまう自分がくやししい。


「なんですか?これ以上はもう謝りませんよ?」

「ちがう。おまえ、居留地の許可書は持っているのか?」

「許可書?それは外国の方に必要なものでしょう?日本人の私には不要なはずです」

「日本人が居留地に入るのにも必要な許可書というものがある」

「え?」

「ここにくる途中、関所にいる役人に会ったはずだ。聞かれなかったか?」

「たしかに鉄橋を渡ってから関所のようなものがありましたけど……でも、そこの方々から許可書なんてことは聞かれませんでしたよ?」

「出ていく日本人には甘い確認をしているんだろう。許可書なしでは入れないはずの居留地から、まさか許可書なしで出てくる日本人がいるとはだれも想像しまい」


立ち上がる久邇。


「ホテルまで送ってやる」

「え?なんで?結構です、一人で帰れます」

「言っただろう、日本人だろうと許可書なしで居留地には入れない。政府関係者をのぞいてな。このままおまえが関所に行けば問題になるのが見えてる。外務省職員の俺が行けば、その問題がなくなる。今夜また仕事を増やされるのは迷惑だ。行くぞ」


この男はどうしてそういうイヤな言い方しかできないのだろうか?

ひばりは小さなため息をつく。

けっきょくはこの男も、この国も同じだ。見た目だけは変わったように装って、中身はちっとも変化がない。

それでも、とひばりはおもう。

父が夢見た『近代国家と日本人』の姿がきっとどこかにあるはずだ。

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