師と弟子
久邇が横浜の港に着くと、江藤がすぐに出迎えてくれた。
「副島から聞いている。船は神戸行きのものに乗る。神戸の港についたらそこからまた船を乗りかえて佐賀へ向かう。同行者は君のほかにも数人いるが、全員佐賀の人間だ。すでに先にのっている……日下君?」
急に立ち止まった久邇に江藤は眉をひそめた。
「先生にお聞きしたいことがあります」
「なんだね?」
「今度の佐賀ゆきは、反乱を未然に鎮めるためと聞いています」
「そうだ。これでも私は革命の志士で、政府でもまだ参議の地位はある。私の声に佐賀の人間たちも耳を傾けるだろう」
「ですが、これが先生の政敵の罠だという話もあります。ご存じですか?」
江藤の表情が少しくもった。
「副島さんから聞きました。先生を敵視する人間からしたら、この佐賀ゆきは先生を戦犯にしたてて消せる絶好の機会であると」
「心配性の副島らしい考えだ」
「自分は副島さんの考えは正しいとおもいます。先生、外務省だけじゃなく、もはや世間がわかっていることですが、佐賀の暴発はもうとめられません」
不思議そうな顔で久邇をみる江藤。
「君はここへ私を止めにきたのか?」
「いえ、そんなつもりは……ただ、先生の気持ちがわからないのです」
久邇の頭にはひばりの声が残っている。
「先生にはこの国を近代国家にするという大きな志があるはずです。その志のために、故郷を捨てて東京へ出てきたと、私におっしゃられました。その先生が志をおいて、佐賀の故郷のために危険を犯すなど、自分には納得できないのです。先生、まさか佐賀の人間たちといっしょになって政府への反乱を考えておられるのではありませんか?」
「そうだといえば、君はどうする?」
息をのむ久邇。
「本気ですか、先生」
「いや、わからないというのが正直なところだ。できそうならそうする、できないならしない。佐賀の状況次第、といったとこだな」
江藤はまるで旅行の予定を話しているようだった。
「なぜですか?先生はどうして政府に刃向かおうとしているのですか?」
「今の政府は腐っている。民の金をいたずらに使いこみ、経済のなんたるかを知らん」
吐き捨てるように答えた江藤。
「経済とは世を経み民を済うものだ。それを新政府高官どもは自分の肥やしとしている。民法で裁こうとも、口裏を合わせて誤魔化される。これでは昔の幕府と同じだ。倒幕をした意味がないではないか」
「先生…それでは先生は、この佐賀の騒動を利用してまた御一新をしようと考えているのですね?」
江藤は答えなかった。
ただ、夜空をみあげてポツリとつぶやく。
「武士として生まれたならば、どう生きるかではなく、どう死ぬかを考えるべきであり、命の使いどころを見誤ってはいかん。君もそうおもっているから、後悔していたのではないか?」
心を見透かすような江藤の眼差しが久邇にむいた。
「君は5年前の戦で、死にぞこなったと私にいっていた。新しい時代になっても、どこか馴染めないともこぼしていた」
江藤の言葉が久邇の心をとらえる。
事実、久邇は新時代の自分が好きではなかった。愛想笑いをうかべて通訳し、苦手な人付き合いをさせられる。戦で死んだ仲間たちをおもえば、新政府で働くそんな自分を嫌悪する瞬間もある。
「日下君、君へ死ぬにはいい機会を与えよう。腐った政府を倒せば、新たなる政府の英雄に。負けたとしても、民主主義のために戦った誉れ高い武士だと称えられるだろう。そして、生き残れれば私の側近に取り立てる。今度は翻訳官などチンケな役職ではなく、政府中枢を担う役割を与えよう」
武士であれば、男であれば心惹かれるであろう江藤の言葉が久邇を揺すぶる。
「……たしかに、武士として死ぬにはこれが最後の機会かもしれませんね」
「そうだ。法律で身分が平等になり、そのうち刀の所持も禁止される。武士の存在は新時代では認められなくなる。君は耐えられるか、それに?」
「いいえ、無理かもしれません。武士であることは自分の誇りでもありますから」
「ならば、私といっしょに佐賀へこい。武士として死なせてやる」
久邇はしばらくその場で目をつむって、じっと深く考えた。
そして、ふたたび目を開けた久邇の行動に江藤は眉をひそめた。
「それはどういう意味だね、日下君?」
久邇はその場に正座していた。
「武士として華々しく散るなら、先生と共に行こうと思いました。けど…未練に足を取られました」
「未練?なんだそれは?」
久邇は葛藤しながら、苦しげに言葉を出す。
「女です」
おどろいたように目をやや大きくさせる江藤。
「小鳥をうまく飼い慣らせたのか?」
「それは、よくわかりません。でも、彼女と一緒にいる未来を想像するようになりました。彼女といっしょだったら、自分は武士でなくとも、一人の人間として新しい時代を生きていけるのではないかと…それがどんなに幸福なことか、味わってみたいとおもってしまいました」
苦悶する表情で江藤をみあげる久邇。
「こんな理由で死ぬのが怖くなり、自分はここから動けなくなったのです」
手をついて頭を下げる久邇。
「先生にご恩を受けておきながら、このようなときに力になれず、己の欲に負ける自分をどうぞお叱りください。許せないと、その刀で斬りつけていただいても結構です」
また恩師を救えないという事実に久邇は苦悩し、いっそこの場で江藤に殺されてもいいとおもった。
「先生の手で死ねるなら、自分は本望です」
「日下君、頭をあげたまえ」
江藤の手が久邇の肩にふれた。
顔をあげれば、穏やかな表情をした師がそこにいた。
「人間は幸福を追求する権利がある。私が作った民法だ。それを私自身がやぶるわけにはいくまい。初めてだよ、このように誰かに言い負かされたのは。日下君、君は本当に優秀な生徒だ」
江藤が背をむけ、久邇は愕然とした。
「先生…っ!」
「日下君、そんな顔をしてはいけない。私は君とちがって死ぬ気はないさ。さっきも言ったように、無理はしないつもりだ」
遠くで船の汽笛が鳴った。出航が近い。
「では日下君、しばしの別れだ。達者でな」
江藤が悠々と船へと歩いていった。
久邇はその場から動かずしばらく呆然としていた。
これから自分はどうしようと考えた。もう久邇には江藤の後を追う気持ちはなく、副島になんと報告するべきか思案してみるが、何も思いつかない。
「…とりあえず、帰るか」
彼女の待っている家に帰ろうとふとおもったら、体が軽くなった。
自分は存外単純だったと苦笑した久邇。
すると、急に肩のあたりに鋭い痛みが走った。
反射的にそこを触ると、ベッタリと血が手について、斬られたとようやく自覚した。
「日下、悪く思うな。江藤先生の計画を知ったからには、生きてはかえせない」
「おまえら…っ!?」
久邇を斬ったのは、江藤の家でともに暮らしていた書生仲間で、佐賀の人間だった。
相手は3、4人ほどで刀を持っている。久邇も刀はあるがすでに肩を斬られている。
「俺の人生もつくづく運がないな」
久邇は自重気味に笑った。
先ほどまで武士として死ぬことも考えたのに、今度は死ぬ気で戦って生きようとしているのだ。
「どけ、俺は自分の家へ帰りたいだけだ」
久邇は待つ人のもとへ帰るために、刀をふるって斬りこんでいった。




