ひばりの書生暮らし
久邇の家での書生暮らしが始まってみれば、やはりひばりにとって助かることが多かった。
まず仕事面だ。
ひばりは行って初めて、職場の大学が医学校だということがわかった。
「ワグネル先生は物理や化学の講義をしていらっしゃいますが、ドイツ語の授業もしてらっしゃるのは、学生たちが専攻学科の医学科で必要としているからですか?」
こくんと頷くワグネル。
ワグネル教授は温和で小柄なドイツ人男性で、あまり喋るほうではないらしい。
必然とひばりが質問しがちになっていた。
「では私も生徒と同様に、先生から医療系の単語を教えていただかないといけませんね。私の単語力は日常会話程度ですから」
「…君は、英語とオランダ語もできると聞いた」
「はい、そうですが…もしや、学生たちは英語とオランダ語も必要なのですか?」
「医学部の教授にはオランダ人とアメリカ人もいる」
「ということは、学生たちは英語とオランダ語での講義や課題提出を求められているのですね?」
うなずくワグネル。
「まさかワグネル先生は、学生たちは先生の授業以外でも私を必要とするとお考えですか?」
ワグネルはうなずき、ボソボソとしゃべった。
「準備はしておいた方がいいと、私は思う」
だが医療分野となると言葉はさらに難しくなる。
ひばりは同じ多言語学習者である久邇に助言を求めた。
「医療系の単語は、それ専門の辞書がなければさすがに私も対応できません」
「俺も同じだな。医療系の通訳は難しいから、それ専門の人間がいるくらいだ。医療単語系の辞書が必要だな」
「そうですよね…英語の方はイザベラ、ドイツ語はワグネル先生を頼って探せますが、オランダ語はどうしようかと悩んでいます」
「オランダ語の医療系単語の辞書なら、幕府時代に編纂されたものをみたことがある」
「幕府時代のもの…!それは今でも手に入るでしょうか?」
「もっている人間を知っている。元幕臣で新政府でも働いている。明日あたりにでも借りてきてやろう」
「ありがとうございます!」
久邇のおかげで欲しい辞書が簡単に入手できるのは、まだツテやアテのないひばりにすればかなり助かる。
さらに彼からわけてもらえる筆記用具や紙といった消耗品も非常にありがたかった。
そして一番ありがたかったことは、父の仏壇を置かせてもらえたことだった。
「父の墓は東京から遠く、そう頻繁には通えませんから、叔母の家から位牌を引き取ってきましたが、まさか立派なこのように仏壇を用意していただけるとは思ってませんでした。ありがとうございます」
「俺も先生の墓参りには滅多に行けていない。ここにあれば、俺も先生をいつでも弔うことができる」
横で仏壇を拝む久邇をみて、ひばりはようやく10年前の父の死にたいして区切りがついた気がした。
ここでの書生暮らしはすべて順調、だとひばりは最初おもっていた。
「やっぱり私、掃除って嫌い……」
廊下で雑巾を手にへたり込むひばり。
日々暮らすなかで、ひばりの中でだんだんと書生の義務である家事が重くなってきていた。料理と洗濯はいい。問題は掃除だ。これに一番時間を取られてしまう。
「広い家は好きだけど、掃除ってなるとこれほどイヤになるとはおもわなかったわ。昔の私はよくやったわね、これ」
久邇の妻として家事をこなしていた10年前の自分を褒めてしまう。
だがよく考えれば、大学の仕事もある今の方が負担は大きい。しかも家もあの頃より二倍近く広い。
「世の奥様方を尊敬するわ。私は家事をするより仕事してた方が全然マシ。そっちの方が疲れても楽しいもの……」
愚痴をこぼしながらもようやく掃除をおわらせると、ひばりはヘトヘトになっていた。なんとか椅子に座り、すっかりと冷めてしまっていたコーヒーを口にする。
そこへ久邇がやってきた。
「それはコーヒーか?」
「はい。飲みますか?」
「いや、俺はお茶がいい」
じっとこちらをみている久邇。
茶をいれろ、と言葉に出さず視線で要求しているのがわかる。
正直、ひばりはもう動きたくなかった。また台所まで行ってお茶をいれる作業などおっくうでしかない。
「コーヒーも美味しいですよ?」
「俺は日本のお茶が飲みたい」
「コーヒーではダメでしょうか?ここにあるのですぐに飲めます。ちょっと冷たいですが、これはこれでおいしいですよ?」
「茶」
これは絶対譲らないヤツだ、とひばりは元妻として直感でわかった。
でもひばりもここは譲りたくない。それほど疲労がきているし、彼のワガママにもちょっとカチンときていた。
「父上聞いてください、あなたのお弟子さんはお茶も自分でいれることができない男のようです」
「先生聞いてください、あなたの娘さんはお茶もいれることができない女らしいです」
気づけば、元夫婦そろって仏壇にむかって話しかけていた。
昔はこのように夫婦して、同居していたひばりの父に訴え出ていた。すると必ず父は仲裁をしてくれていた。
だが仏壇がそうしてくれるわけもなく、二人の間にはただ沈黙が流れるだけであった。
「……わかりました」
大きなため息をつくひばり。
こちらが書生と身分は下なのだ。ここは自分が折れるしかないだろう。結局は昔と同じでこちらが我慢するしかないのだ。これも元妻としての悲しい習性である。
「今から淹れてきますので、少しお待ちください」
ひばりが重い腰をあげかけ、久邇が呼び止めた。
「待て。なぜそんなに茶をいれるのを嫌がる?理由はなんだ?」
「なぜって、その……」
答えるのをためらうひばり。
頭によぎったのは、義務である掃除が大変で疲れたからなどといえば彼に叱られるということだ。昔の彼なら、それくらい厳しいことを言いそうだ。
「早く、理由を言え」
どうやらこのまま黙っていても叱られそうな雰囲気だった。
仕方なくひばりは口を開く。
「その、本日の掃除で疲れてしまいまして…もう少し休んでいたいなと思ったんです」
「掃除?家の掃除はそんなに大変か?」
「まぁ、はい…あ、でも大丈夫です!ちゃんとできますから!」
「いや、無理なら無理だと言え」
「え……?」
「掃除については人を雇ってもいいぞ」
「いいえ、そんな…!家事をこなすは書生の役割です。いわば私の義務ですので、私が責任を持ってしっかりとやります!」
「…昔からそうだな、おまえは」
「はい?」
「自分の義務だの役割とか、いやにこだわる。昔は武士の妻だからと、それらしく夫に尽くそうとしてただろ?」
「え…?」
小さなため息をつく久邇。
「たしかにあの時代、妻は夫の付属品だという意識があった。でも今はちがう。妻であろうと、誰であろうと、人は一個の人間だ」
彼の言葉にひばりは欧米諸国にある『人権』という思想を感じた。
久邇はかつての武士でなく、新時代の人間として話をしているようにおもえた。
「俺は小鷹ひばりという一人の人間を尊重したい」
ひばりの心が鮮やかにわきたつ気がした。
(どうしよう、嬉しい)
彼の言葉でこんなにも感動する日が来るとは、ひばりは夢にもおもってみなかった。
「もう一度聞く。おまえにとって、掃除は負担が大きすぎるか?」
「…はい」
「わかった。週に何回かきて掃除してくれる人間を雇おう。それから、お茶は自分で淹れる」
台所へむかっていった久邇。
ひばりは仏壇に向かって話しかける。
「父上、時代が変われば人も変わるものですね。あの久邇さまが私を気づかうなんて、びっくりしてしまいました。父上なしで一緒に暮らすなんて不安でしたが、これならうまくやっていけそうです」
久邇はもう昔のひばりに無関心な元夫ではない。
それにとてつもない安堵感を感じていると、台所の方から何かを割って落としたような大きな音がした。
ひばりがあわてて見に行くと、床に割れた茶器とお茶っ葉が散らかっていた。
久邇がいたたまれなさそうに立っている。
しょうがない元旦那さまだと苦笑いし、ひばりはあきらめてお茶を淹れるてあげることにした。




