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江藤先生 2

ひばりは屋敷から出たあと、久邇からなぜ江藤が『本は読むか?』との質問をしたか教えられた。


「あれで相手の資質を見極めるらしい。俺の場合は、フランス語でフランスの刑法の本と答えた。そしたらすぐに江藤先生の下で働くことになった。先生はちょうどそのころフランスの法律を研究しはじめたらしいが、言葉がわからないから翻訳できる人間が欲しかったとのことだ。今も同じように、先生が欧米の法律を読み解くとき、言葉がわからないから訳せと屋敷内でお呼びがかかる」

「では、江藤さまは外国語をひとつも習得されていないのですか?」

「ああ。だが、あの人の法における理解力は凄まじい。俺など足元に及ばん。日本の近代的司法制度を作れるのは、今、この日本においては江藤先生しかいない」


久邇がここまで誰かに肩入れするのは父以来なのでは?とおもうひばり。


「江藤さまを尊敬なさっているんですね」

「恩人でもあるからな。俺は副島さんに戦争で拾われたが、その副島さんは江藤さんがフランス語のできる人間を探しているからとの理由で俺を拾ったんだ。今の俺があるのは江藤先生のおかげだとおもっている」

「そうだったのですか。それは感謝しないといけませんね、私も」


江藤のおかげで彼が救われたという事実は、ひばりの胸をあたたかくさせた。


「江藤さまはいろんなところへ顔がきくようですね。私、最近は外国人相手にガイドや翻訳の仕事を少しやっているんですが不安定だと感じていたんです。それにくらべて大学の仕事なら安定していそうでありがたいです。けど、仕事が始まる前に借りた辞書で日本語の勉強をしなくてはいけませんね」


ひばりは久邇から和英に日独、さらに国語の最新辞書を借りた。


「先ほどもおもいましたが、()()()()()など、かなり私の知らない日本語ができているんですね」

「新政府と開国の影響だな。ここ数年は新しい単語や、外国語を日本語に直した造語なんかが多く出てきている。まあ言葉が好きなおまえのことだから、すぐに覚えるだろ」


別れ道で立ち止まり、久邇が持っていた辞書をひばりに渡す。

ひばりが住むアメリカ公使館がみえるここまで彼が重い辞書を運んでいてくれていた。こういう気づかいは素直に嬉しい。


「ところで、もう私の就職の邪魔はしないのですか?」

「大学は元武士より学者や町民がほとんどだ。外務省よりなじみやすいだろ」


ひばりにとって何が一番いいか考えてくれているようの彼に、ふともしかしてと考える。


「あの、もしかしてですけど…」

「なんだ?」

「今日お誘いになったのは、江藤さまに引き合わせて仕事を与えようとしてくれた、ということですか?」

「……江藤先生は能力のない人間に仕事は与えない。あの質問でふるいにかけられて、落とされる人間はたくさんいる」

「じゃあ、私は江藤さまの面接に合格したというところですか?」

「そういうことだ。俺は面接場所に案内してやっただけで、あとはお前自身の力で受かった」


ほほ笑んだ久邇に、ひばりはおもわずドキッとした。

やっぱり相変わらず彼の顔はカッコいいなと実感する。


「よかったな」


久邇がひばりの頭をなでている。

これは少し恥ずかしい。


「あの、なんですか?これ…?」

「小鷹先生はおまえを褒めるとき、よくこうしていた」

「いやだからって、あなたさまがしなくても良いですよ」


ひばりは彼の手をどけて、ちょっとため息をつく。

子供扱いなのか、からかわれているのかわからない。


「父上はさすがにこんな歳になった娘の頭はなでませから。しかも就職できたくらいで。それにまだまだ喜んでいられません。次は家を探さないと」

「今はアメリカ公使館内で間借りしているんだったな。出ろといわれたのか?」

「いいえ。でも、そもそも日本人の私があそこにいるのはよくないと感じています。こうして仕事も決まりましたし、ちゃんと日本で落ち着いて住む場所を見つけたいです」


ふとそこで『書生』というものがひばりの頭にうかんだ。

下宿先の家主が生活の面倒をみてくれる。かわりに書生はその家の雑用をする。

お金に余裕のないひばりにとって『書生』という制度はとても都合がいい。


「江藤さまのお宅に私を書生としておいていただく、というのはどうでしょうか?」

「無理だな」

「そんなすぐに無理といわず、ちょっとくらい聞いてもらってもよくないですか?」

「ダメだ」


急に冷たくなる久邇にちょっといじけたくなるひばり。

だが彼は意外な提案をしてきた。


「家なら俺が探しておいてやる」

「え、いいんですか?」

「どうせ探すアテもツテもないだろ、おまえ」


おっしゃる通りです、とひばりはしおらしくなる。

東京に知り合いは久邇しかいないのだ。


「でも私、そんなにお金には余裕ありませんよ?」

「わかっている。書生ができるような下宿先がいいんだろ?副島さんあたりに聞けばすぐに見つかるはずだ」


それじゃあ、とひばりは素直に頭をさげてお願いした。

だが後にこれがひばりを悩ませることになる。


久邇は屋敷に帰ってから、ふたたび江藤の書斎をおとずれた。

入るなり江藤がすぐに口を開いた。


「聞いていた以上に利発そうな女だ。愛想がよく人あたりもやわらかい。よくしゃべりそうだが、ちょうどいいだろう。ワグネルは内気であまりしゃべらない中年の小男だ。彼女はワグネルと学生たちの間に入って役に立つだろう」

「おはからい、ありがとうございます」


小さく頭をさげる久邇。


「しかし、私がああしてしまってよかったのか?副島が彼女を気に入って面倒を見たがっていた気がしたのだが?」

「だからです。副島さんではきっと薩摩か長州出身の政府高官との縁談を彼女に勧めてくるでしょう」

「政治工作が得意な副島の考えそうなことだ。彼女のような外国語が話せ、人前に出れる武家の娘など今の日本にはまだいない。外国の政府要人とのつきあいで重宝しそうだ。参議や政府重役につく人間あたりが正妻にと望むだろうな。だが、それも彼女にとっては悪くない話にみえるが?」

「いいえ、自分にとっては悪い話です」


副島はやや眉をひそめたあと、おどろいたように目をみはった。


「…そうか、そういうことか」

「はい、そういうことです」


同じ種類の人間同士、あるいは師弟同士、言葉は少なくともこれで通じた。


「ではここを出るかね?」

「いえ、すぐには。ですがそのうち」

「そうか。必要なときは司法省に呼ぶ」

「はい、いつでも」


では、と出て行こうとした久邇を江藤が呼びとめた。


「日下君。これは野暮な話だが、君がどうするつもりか興味ある」


久邇はちょっと考えてから答える。


「まず、鳥籠にいれて、飼い慣らしてみようとおもいます」


どこか楽しげな様子の久邇に江藤が少し笑った。


「逃げられないように優しく扱いたまえ」

「はい、先生」


今日の先生はめずらしく冗談をいうな、と久邇はおもった。

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