江藤先生
久邇が住んでいるという場所に到着してひばりはあ然とした。
「ご家老のお屋敷?」
故郷の城下町でみた重役の邸宅を思い出した。
それよりも立派な門構えの広い屋敷のなかへ久邇はためらいなく入っていく。
「元は旗本屋敷らしい。大名屋敷並みに広くはあるがな」
玄関で下働きらしい女に久邇がたずねる。
「江藤先生はどこに?」
彼が父以外の人を先生呼ばわりすることに新鮮さを感じるひばり。
「江藤先生は書斎にいる。ここの家主だ、挨拶しておけ」
広い屋敷の奥へと進んでいく。
途中若い男たちに出会って軽く挨拶をする。
「あれは全員先生が面倒をみている書生だ」
「ショセイ?」
ひばりには聞いたことない単語だった。
「旧幕時代は身分のくくりもあって故郷からなかなか出れなかったが、新政府の時代になって地方からいろんな人間が来やすくなった。それもあって勉強や就職目的で若いやつらが東京へよく出てくるんだが、ほとんどは金がない。だから誰かの家で住み込みでやっかいになるんだ」
「それが書生、というわけですね?その江藤先生という方に、久邇さまもお世話になってる書生ということですか?」
「俺の場合はなりゆきじょう、そうなっただけだ」
「なりゆき?」
「副島さんと江藤さんは同郷で古い友人だ」
「ということは、佐賀の方ですか?」
ずっと南にある土地でひばりには馴染みがないが、佐賀出身の人間たちが新政府内で派閥を確立させているのを知っている。
「副島さんと江藤さんは佐賀で反幕府活動をずっと共にしていた維新の志士仲間というやつだ。副島さんが俺を戦争で拾ったあと、江藤さんに引き合わせた。江藤さんはフランス語ができる人間を探していたから、俺はちょうどよかったんだ」
「フランス語?」
なぜ江藤先生が久邇のフランス語能力を必要としたのか。
その理由を聞く前に書斎へついてしまった。
「先生、日下です。入ります」
「……ああ」
『江藤先生』は物静かで表情が少ない男だった。
何かを尋ねてくるわけでもなく、ただじっとこちらをみている。
「女か」
ひばりは戸惑う。
これはどういう意味をもった『女』なのだろうか?まさか性別的なことではあるまい。そもそも自分に聞いているんだろうか?ここは会話を彼にまかせるべきかと、チラリと横をみる。
すると、久邇はひばりがギョッとする言葉を口にした。
「元妻です」
え?いうの?
さらに江藤先生がひばりをギョッとさせる。
「そうか」
え?それだけ?
困惑するひばりだったが、もしかしたらこの江藤先生は久邇と同じ種類かもしれないと考え始めた。余計な愛想やおしゃべりを嫌い、必要最低限の言葉しか話さない人間。頭がきれる、怜悧な人間というやつだ。
「日下君から聞いている」
どうやらひばりの情報はすでに久邇と江藤の間で共有されていたらしい。
「江藤だ。政府では参議と司法卿の仕事をしている」
え?待って、とひばりは少し固まった。
おそるおそると隣の久邇に確認をする。
「参議とは、新政府内での中心的な重職のことですよね?」
「ああ」
「司法卿とは、法律に関する機関のトップでよかったですか?」
「今の日本の場合は裁判権や警察権もあるが、おおむねその理解であっているだろう」
とんでもない大物のところへやってきてしまった。
ひばりは大慌てで江藤へと深く頭をさげる。
「し、失礼しました!司法卿の江藤さまとは存じず、このような夜分遅くに突然訪問してしまうなど…」
「あなたは…」
「はい?」
「本を読むか?」
「……はい?」
脈絡のない問いかけにひばりは首をかしげる。
しかし江藤はひばりが聞こえなかったと思ったのか、同じ質問を繰り返した。
「本を読むか?」
「えーと……?」
江藤の意図がさっぱりわからない。
ひばりは助けを求めるように隣をみたが、久邇はそっぽをむいて黙ったままだ。
どうやら自分でここは乗り切るしかないらしい。
「本は読みますが…江藤さまのおっしゃる本とは、どのような種類のものでしょうか?たとえばそれが非現実的な物語のような創作本だとすれば、私の答えはいいえとなります」
江藤の目が鋭くなった気がした。
「では、具体的にどんな種類の本を読む?」
「学術的だったり、教養的なもの、たとえば新聞とか、最新技術や理論に基づいた読み物などを中心に読みます」
「幅広い学問書ということか?」
「そうともいえますが、でもそこまで専門的ではありません。本当に読み物として楽しめるようなものです。最近読んだドイツ語の本は天体についてでした」
「天体?」
「空にある星や太陽について、数学と物理を使って読み解くという本です。それによって最近発見された星や、それにまつわる逸話や歴史なども絡めて物語風に書かれていました。青少年向けのようで読みやすかったです」
江藤がだまってしまった。何かを考え込んでいるようでもある。
自分は何かまずいことを言っただろうか?
「あのう……?」
「湯島にある大学東校はご存知か?」
「いいえ、学校ですか?」
「政府が作った学校だ。そこにドイツ人教授のワグネルという男がいて、数学、化学、物理などを教えている」
江藤は話しながらも、手で筆を動かし紙に何か書きつけている。
「受け持つ授業も多く、生徒はドイツ語がわかない人間ばかりだ。ワグネルは日本語とドイツ語のわかる助手を探しているらしい。あなたを推薦しておこう」
「へ?」
ひばりは紹介状と書かれたものを手渡された。
これはまさか就職の斡旋をしてくれたのだろうか?
「明日、人をやって東校へは連絡しておく。それをもっていけばうまく話は通るはずだ」
ふってわいたような仕事に、ひばりは飛びあがりあたいほど嬉しかった。
「ありがとうございます!」
それきり江藤は何もいわず手元にある資料のようなものを読んでいた。
無愛想だがどことなく憎めないのは、ひばりの隣にいる誰かさんを彷彿とさせるのはいうまでもないだろう。




