牛鍋
あれ以来、ひばりと久邇の関係が少し変わった。
お礼のつもりなのか、久邇がよく食事をひばりにごちそうしてくれるようなった。
本日は牛鍋だ。
「あ、そういえば!離縁が父上の遺言だったって、どういうことですか?」
「…肉」
ぐつぐつと煮えている鍋の中身をじっと見つめる久邇。
「もう食べれるはずだ」
「父上が牢に入れられて亡くなられるまで、私は会うことすらできませんした。でも久邇さまは、父上が切腹する直前まで何回か会うことができてましたよね?そのときに遺言を聞いたのですか?」
「…早く食べないと固くなるぞ、肉」
どうやら久邇は答える気がないらしい。
ならば、とひばりは懐から彼の遺言書あたらめラヴレターをとりだした。
「答えていただけないなら、これ、ここで読み上げますよ?」
久邇はチラリとこちらをひと目して、また鍋の中身へ視線を戻す。
平静をよそおっているつもりかもれしないが、同じ肉をずっとつついているところから内心動揺しているのがわかる。
もうひと押しにとばかりに、ひばりは彼が一番嫌がる単語を口に出す。
「おひささま?」
「……そのあだ名を」
箸を置いて、小さなため息をつく久邇。
「俺が心底嫌いな理由は、女みたいだということ以外に、俺自身の存在が軽んじられていたという証だからだ」
「え?」
「いっそ本当に女であれば、本物のお姫さまにさせてあげられるのに。そう両親からもいわれた」
久邇の実家は地元では有名な名家である。
綺麗な顔立ちの彼が『女』として生まれていれば、どこかの有力な武士の家、たとえば大名などの奥方になっていただろう。
「顔しかとりえのない、肩身のせまい次男。かわいそうに、女であれば家の役に立ったのに。そうゆう揶揄いがこもったあだ名だ、お久さまというのは」
ひばりは申し訳ない気持ちになって肩をちょっとすくめた。
「私はてっきりただ本当に綺麗なお姫さまのようだからだって思ってました……」
事実、10代の彼は美少女かと思うほど美しかった。ひばりは結婚前に彼を町でみかけるたびにちょっと見惚れてしまったほどだ。
当人は昔からそれを嬉しく思っていないようで、容姿についてふれられると今のようにようすが暗くなる。
「日下家で、俺は雛人形のお姫さまのようにそこに飾るしか使い道がない、力も地位もない無力な次男坊だったんだ。そしてそれが小鷹先生の期待を裏切ることになった」
「父上の期待?」
「最初、先生がおまえと俺を結婚させたのは、もし何かあれば日下の家がおまえを守ってくれると期待したからだ。知っていたか?」
目を伏せるひばり。
「はい…父上は幕臣とはいえ、過激すぎる思想や行動をとっているとご自分でいっていました。だから自分にもしものことがあったときのため、早めに私を結婚させることにしたと……」
「だが、先生の予想に反して俺には力がなかった。昔、おまえが言った見込みちがいの男だというのは正しかったさ」
自虐的に笑う久邇に何もいえなくなるひばり。
「最後、先生に会ったとき言われたよ。俺にはおまえを守る力がない。両親に逆らえず、家や藩にも立場はなく、何もできないだろうと」
「だから、父は離縁せよと?」
「ああ。先生は、以前からおまえに留学の話をしていたとおっしゃっていた。少したきつければ賢いおまえのことだから、その話を思い出して実行するだろうと」
ひばりはため息をつく。
「結局のところ、私たちは父の手の上で転がされていたということですか」
「そうとも言えるな。だが、さすが先生だともいえる」
盲目的に父を崇める元夫にひばりはやれやれと思った。
だが、こうして離縁の真相がわかった今、以前のような嫌気はもたなくなった。
しかし彼にこうして鍋をよそってやる自分には、元妻としての悲しき習性を感じる。
「どうぞ」
久邇も『元夫』の習性からか、ひとこと「ん」と返事してうつわを受け取る。
あいも変わらずお礼の言葉もないが、どうせここも彼のおごりなのだ。これぐらいは許してやろうとひばりは思った。
さて自分の分をよそおうとしたひばりの器に勝手に肉がのった。
「もっと食え。おまえはまだ細すぎる」
ちょっとおどろいた顔をするひばりに久邇は怪訝な顔をみせた。
「なんだ?食いたかったんじゃないのか、牛鍋?」
「え、ええ。そうですけど……」
文明開花の代表的な象徴として、東京で流行している牛鍋屋。
そこへ行ってみたいともらしたのはひばりだ。
「口に合わなかったか?」
「いえ、そんな!醤油と砂糖の煮汁で煮込まれた薄切りの牛肉が、こんなに美味しいなんてびっくりしました。アメリカでも肉料理は食べましたが、こんなものはありませんでした」
「そうか。ならもっと食え」
久邇がまたこちらの器へ肉をのせ、さらに店員へ追加の肉を頼んでいる。
彼からこんなふうに世話を焼かれるとはおもってもみず、ひばりはちょっと不思議な気分だった。
「あの、追加は一皿で十分ですからね?それと私よりも、ご自分でもっと召し上がってください」
牛肉の値段がおもっていたより高くてひばりは遠慮ぎみになっている。
「気にするな。これぐらいしてやれる金も力も、今の俺にはある」
久邇はニコリともしない無愛想なままだが、言葉も雰囲気も柔らかいのは気のせいではないだろう。
「娘のおまえにこうしてやれば、小鷹先生も喜ぶだろう」
「やっぱり結局は父ですか」
ひばりは苦笑いしながら、やっぱりこの人は武士だなぁとおもった。
留学支援もそうだが、きっと久邇にとって恩師の娘を気にかけて世話をするのは『武士の情け』なのだろう。イザベラに『無性の愛』といわれたが、日本人的にいえば『武士の慈悲』でありそこに他意はない。
あらためてそう結論できると、ひばりは彼との今の関係が居心地よく感じた。
「ごちそうさまでした」
店から出て、ひばりは久邇へ小さく頭をさげる。
「本日は高価な美味しいご飯をありがとうございました」
「別に特別高くはないが」
「まあ、政府のお給料はよろしいようで。うらやましいことです」
こうして久邇相手に軽口を叩くなど、昔のひばりは想像もできなかった。
彼も昔とちがって、性格がずいぶん丸くなっているのがわかる。
自分たちも大人になったなぁとひばりはしみじみ感じていた。
「東京と名を変えても、江戸はほとんど昔のままですね」
ひばりたちは帰り道、町のようすをながめながら話をする。
「政府機関も幕府時代の建物を再利用しているからな。江戸城周りは西洋風の建築も増えてきたがまだまだだ。政府の人間たちも幕府時代の要人の家に住んでる」
「へー、そうなんですか。それってもしかして久邇さまもですか?」
「あれは俺の家ではないが…まあそうだ」
「どういうことですか?自分の家じゃないって」
久邇が立ち止まった。
「来るか?」
「……え?」
「うちに」
ひばりは返事に困った。
一般的な考えとして、男が女を自宅に誘う意味と意図は知っている。
しかし相手は久邇だ。
夫婦だったとき、彼はひばりに興味をしめさなかった。完全に対象外なんだろうなとおもっていた。
けど、と思い直す。
ラブレターの件がある。いやしかし、あれは何年の前のものだ。それに料亭でみたあの芸者がいる。だがもしかしたら相手はその夜ごとに変えるのかもしれない。
そうやって迷って考えこむひばりが返事をためらっていると、それまでだまって待っていた久邇がおもむろに口を開いた。
「……うちには、最新版の各言語の対日辞書と先生の本がある」
「行きます」
即答したひばり。
ありえないし大丈夫でしょ。そんな楽観的な答えを選び、物に釣られた形でひばりはのこのこと久邇の家へついていった。