あなたの気持ちがわからない ー彼の場合ー
ひばりが部屋を出ていったあと、久邇は痛む頭を抱えていた。
「アイツめ……」
「あのう、日下さま?」
久邇は若い女の芸者の存在に初めて気づいた。
「布団はそこでいい。あとは自分でやる」
「いいえ、やりますよ?よろしければ添い寝も」
ふんわりと笑う女。
ジロリと鋭い眼差しをむける久邇。
「副島さんにそうしろとでも言われたか?」
「そんな、ちがいます。私はただ、そうしたいとおもっただけで……」
彼女に熱っぽい視線で見返され、眉間の皺を深くする久邇。
「いらん世話をする必要なはい。さっさと自分の仕事に戻れ」
女は眉をひそめ、不機嫌そうに無言で部屋からさっさと出ていった。
何度も見たような光景に久邇はうんざりとする。
「なんだってここの女たちは、いつも余計な世話をしたがるんだ……」
「それは君が魅力的な男だからだろう」
あらわれた人間に久邇は苦い顔をした。
「副島さん。見てたんですか?」
「たまたまだよ。顔を出すと言っていた君が戻ってこないから、様子を見にきたんだ」
副島は芸者が去っていった方向をみた。
「君は男前のくせして女から人気がないな。外国語を話すときのような愛想を日本語でもできんのかね?」
「不必要な愛想ほど疲れるものはありません」
「そんなだから、うちの家内にも日下君は無愛想でケチだといわれるんだぞ?」
「ケチ?」
「君が今だに家も借りないで、書生のように他人の世話になっているからだろ。安くない給金をあげているとは思うんだがね。そんなに生活費を節約して、いったい何に金を使ってるんだ?」
「個人的なことです」
「賭け事や酒じゃないだろ?まさか女でもあるまい。いまだに独身で浮いた話ひとつも聞かないからな」
だまりこむ久邇。
「私に世話をまかせてくれば、すぐに縁談をまとめてやるのに」
「あなたが持ってくるのはいつも出世に絡んだ縁談ばかりだ。俺はそういうのには興味ありません」
「じゃあ何に興味あるんだい?」
「この国の発展です」
「真面目で実につまらん。どうやったら君のような欲の少ない男が育つんだろうな?」
「……俺は武家の次男です」
普段は話さない身の上ばなし。
酒も入っているためか、それとも彼女と会ったからか。
久邇は気づけば昔話をはじめていた。
「よくある冷飯ぐらいで、大切にはされたけれど期待はされていませんでした。ただ毎日を兄の予備として生きていたことに、むなしさを感じていました。そんなときに、西洋の学問を教えているという人に出会いました。あの人は、俺を、世に必要とされる人間にしてくれました。誰かの代わりじゃない、俺自身として生きる道をしめしてくれたんです」
「それがひばりさんの父上か?」
久邇はうなずく。
「道は邇きに在り、しかるにこれを遠きに求む」
「孟子だな」
「はい。大きな目標を遂げるには、まず己にできることをコツコツとせよ。それが一番の近道であり、人の道である。恩師にしめしていただいた道です」
「それで、新政府で滅私奉公か?みあげた武士だよ、君は。しかし、森君からの手紙の件はいただけないな」
「……なんの話ですか」
「とぼけるか。確認がとれたよ。ひばりさんについての森君からの手紙はたしかに外務省へ届いていたとね。その手紙を受け取ったのは、君らしいじゃないか」
「すいません。失くしてしまったのを知られたくなくて黙っていました」
あからさまに嘘をつく久邇に副島は困ったように眉をさげた。
「別は私は怒ってるわけじゃないぞ?ただいつもの君らしくないと、心配してるだけだ。仕事を選り好みなどしない君が、めずらしく他の仕事をけって、ヨコハマの出張を希望したり、最近は翻訳の仕事ばかりやったり」
「……」
「恩師の娘さんなら気にかけるのはわかるが、やり方が露骨すぎるぞ。守りたいなら、そうだといえ。協力してやるというのに」
久邇は知っている。
この男はいい人間だが根っからの政治家だ。
ひばりをこの男にまかせれば、いいように使われかねない。自分のように。
「彼女は俺の責任です。恩師のためにも、自分がしっかりと面倒をみます」
副島があきらめたように小さくため息をついた。
「いつものように、今夜はここで寝ていくんだろう?ここの女将に食事の用意も頼んでおくから、たまにはゆっくりと出てきなさい。まぁ、そうは言っても君はいつものように朝早く出てくるんだろうけどね」
副島がいなくなると、久邇は窓際へとよった。
飲みすぎて火照った体を冷ますように夜風にあたる。
窓の外に遠ざかっていく西洋ドレスを着た女をみつけた。
「わからん」
ボソリとつぶやいた久邇。
彼女の後ろ姿に問いかける。
「父親のことで、さんざん泣かされたくせに。なぜ国に関わりたがるんだ…」
膝を許したとおもえば、冷たく突き放して、またどこかへゆく。
鳥のように気まぐれな女め。
10年たった今でも久邇は『元妻』の気持ちがわからなかった。