あなたの気持ちがわからない ー彼女の場合ー
ある日の夕方、ひばりは副島に呼び出された。
場所は格式の高そうな料亭であった。
「やあ、ひばりさん。ちょうどいいところに来た。いま、みなにひばりさんのお話をしていたところだったんだ」
座敷に入ってギョッとするひばり。
副島のほかに政府高官らしき男たちが5、6人ほどいたのだ。
「みなさんひばりさんのアメリカ話をぜひ聞きたいというのでね。こういう場を設けさせてもらったんだよ」
ひばりはさすがに萎縮した。
外務卿の副島だけでも大物なのに、同種の人間たちが何人もいるのだ。彼らに質問攻めにされ居心地が悪い。ついには芸者まで出てきた。
「すいません、私、本日はもうこれで……」
ひばりは逃げるように退出した。
古式ゆかしい伝統的な場所に、西洋ドレスの自分はひどく浮いている気がした。
帰ろう。
そうおもって廊下を歩いていると、目の前に女性が急にあらわれた。
彼女は芸者のようで、客の部屋から出てきたようだ。なかにいる客らしき人間へ話しかけている。
「それじゃあ、布団は誰か空いてる子に持って来させますから」
「ああ、頼む」
客の声に聞き覚えがあった。
ひばりはまさか、と思いながら開け放たれた部屋をのぞく。
「……またおまえか」
それはこちらが言いたい。
ひばりは眉をひそめながら『元夫』をながめる。
「本日は、もうお仕事は終わりですか?」
久邇は上着を脱ぎ捨て、シャツの首元もくつろげていた。
窓際で洋書を手にしているところをみると、ひとりでくつろいでいたらしい。
「仕事はあった。だが、副島さんに連れてこられた」
「やはりご一緒でしたか。よいのですか?座敷にいないで」
「ああいう場は好かん。おまえも同じで、逃げ出してきたんだろ?」
小さく鼻で笑う久邇。
「連れてきた珍獣二匹ともに逃げられたというわけか、あの人は」
「珍獣?」
「海外帰りで外国語をいくつも操る人間。今の日本じゃ珍しい生き物だ」
「それじゃあ、私たちは副島さまの愛玩動物として見世物にされるため、ここへ連れてこられたと?」
「そういうことだ」
副島の真意を知り、ちょっとかなしさを感じるひばり。
「ちょうどいい、おまえに言いたいことがある。こっちに来い」
ひばりは腕を組んで『元夫』をにらんだ。
「私はもうあなたの妻ではありません。いつまでも亭主気どりで口をきくのはやめていただけますか?何か人にものを頼むときは、ちゃんとていねいにお願いをしてください」
どうせこの男にはできないだろう。
しかし、彼はひばりのおもってもみなかった言葉を口にした。
「Please, I beg you. (どうかお願いします)」
英語を使ってきた。
しかも懇願する(beg)という単語を口にされては、ひばりも渋々と彼の前に座るしかなかった。
「なんですか?手短にお願いします。外務省の仕事はあきらめろ、という話は聞きませんからね?」
何をいわれても流してやろう。
そう考えていたひばりの前で、久邇が意外な行動にでた。
彼は姿勢をただし、正座をして小さく頭をさげたのだ。
「小鷹先生のことは非常に無念なことでした」
彼の姿と言葉にぼう然とするひばり。
彼は『武士』らしく、父の愛弟子として話しているのだ。その姿から彼の誠意が伝わってくる。
「娘のあなたさまは、自分以上に無念であられたとおもいます。ですが、あなたはお父上の志をつがれ、立派になって帰ってこられた。きっと小鷹先生もあちらで、あなたを誇りにおもっているでしょう。だから、もう十分です。あなたはあんたの幸せのために生きるべきだ」
ふいにひばりは胸が熱くなり、目がうるんだ。
「国のために働くなど、お父上も望んではいないでしょう」
「……父上の名前を出すなんて、ずるいです」
ここで泣くもんかとひばりはこらえる。
「私は絶対に国のために働くんです。そうしなければ、父上は間違っていなかったと証明できません」
「……いじっぱりめ」
肩を落とし、深いため息をつく久邇。
「新政府は外国に反発意識を持つ武士集団で作られた組織だ。そんなヤツらが10年もアメリカで暮らした女など、受け入れるわけないだろ」
イザベラにいわれたことを思い出すひばり。
「敵方に通じてると疑われて怪しまれ続けるだけだ」
「それは、あなたさまもですか?」
苦しい胸のうちをこぼすひばり。
「あなたさまも私を、アメリカと通じる敵だと、おもっていらっしゃるのですか?」
首をかしげる久邇。
「そうなのか?」
「ちがいます!」
「そうだろうな」
「え……?」
「あの小鷹先生の娘であるおまえが、国を裏切るようなことをするはずがない」
一瞬の間をおいて、ひばりは力が抜けたように弱く笑った。
彼が自分を信じていてくれた。
それを知って心が軽くなる。
「10年経っても、父上をそんなに盲目的に信じてらっしゃるなんて。成長がないと、父上もあの世であきれていらっしゃるかもしれませんよ?」
「よくいう」
久邇がひばりの顎をつかんだ。
え?と固まるひばり。
「10年経っても父上、父上と親離れできないヒナ鳥め。昔と変わらず鳥のようによくしゃべると小鷹先生もおもっているだろう」
ひばりは状況についていけない。
真正面には彼の端正な顔立ち。さらに視線を下にずらすと、はだけた彼の胸元がみえる。
さすがは元武士。鍛えているのか、見える範囲でも引き締まった体だとわかる。
久邇には大人の男の色気がただよっていた。
「昔からこの口でピーピーと生意気によくしゃべりおって。おまえは、まるで本当の雲雀だ」
久邇がひばりの唇をじっと見つめている。
彼の目は妙にすわっていて、頬もうっすらと赤い。
これは様子がおかしいとひばりは感じてきた。
「ほら、アメリカの曲でも歌ってみせろ。大好きな父上のように褒めて可愛がってやるぞ?」
あれ?この人、酔っ払ってる?
ひばりは座敷に転がってる三本ほどの銚子を見つけた。
「お酒、そんなに飲んで大丈夫なんですか?強くなかったですよね?」
「さすがは元嫁だ。よく知ってるじゃないか」
急に久邇は前のめりになって畳に肘をついた。
「やっぱり!飲みすぎですよ。私、お水持ってきます!」
「いらん、平気だ」
だが彼はついに横になって寝はじめた。
しかも、ひばりの膝の上で。
「ちょっと!」
「いいだろ、膝くらい。元夫婦のよしみで貸せ」
「何言ってるんですか、膝なんか貸したことないですよ?」
「おまえは子供で小さかったからな。寝心地が悪そうだったからやらなかった」
そんなこと、おもってたのか。
久邇が口もまぶたも閉じてしまった。
ひばりは彼の横顔をながめながめる。相変わらず綺麗だが、昔はなかった目の下のくまをみつける。
(疲れてるのね、この人も。いままで、どんな生活をしていたのかしら?)
ひばりはなんとなくここから動けないでいた。
すると、部屋に芸者らしき女が入ってきた。
「日下さま?お布団はいつものようにこちらで敷きますか?」
若く美しい芸者だ。
彼女は個室にいる久邇に布団を持ってきたようだった。
あー!そういうこと。
ひばりはすべてを察した。
膝の上にある頭をぞんざいにどける。
「いっ…‥!?」
頭をぶつけ、眉間にシワを寄せてこちらをみあげる久邇。
文句でも言いたげな彼へ、ひばりは冷たい視線を送る。
「本命の膝まくらがいらっしゃったようなので、おふるの膝まくらはこれで失礼いたします」
「どういう意味だ?」
「気を使って頂かなくても結構ですよ?別に私は気にしませんから。10年も経ってるんですから、逆にそういうお相手がいない方がおかしいんです」
「だから、なんの話をしている?」
「邪魔者は消えますので、どうぞごゆっくりとお休みになられてください」
久邇が後ろでまだ何か言っているが知ったこっちゃない。
早足で帰りながら、ひばりは彼にいわれた言葉を思い出す。
「幸せになるべき、なんて。だったらなんで、離縁なんかしたのよ」
気づかいをみせたとおもったら、思わせぶりな態度で人をからかって。
10年たった今でもひばりは『元夫』の気持ちがわからなかった。