さよーならっ、だんなさま!
父が死んだ。
それから数日後、ひばりは夫の実家である日下の家に呼び出された。
「幕府にたいして反抗的な思想を持つ危険人物。これが君の父親の罪状だ。まったく、大変なことをしてくれたよ」
ため息をつく夫の父。
「最初から私は反対だったんだ、君と久邇の婚姻には。君の家、小鷹家は我が日下家には釣り合わないほど格下の武家。だというのに、うちの久邇は君の父親が開くあやしげな塾に通い、弟子になるだけでは飽き足らず、その娘と結婚して親類同士になるなど……わが息子ながら、呆れ果てるほどの影響されぶりだ」
となりで夫の母が同じように息子を嘆く。
「たしかに小鷹さんは優秀な方でしたよ。学識があってオランダ語も話せて、幕府の通訳として外国との交渉をするほどの人でした。けれどもねぇ。幕府のやっていることは間違っている、なんてそこらで話し回り始めて」
「幕府と藩に目をつけられて、結局は罪人として切腹を申しつけられた。まあ当然の結果だったな」
「でも、おかげで久邇が目を冷ましたからよかったじゃないですか」
「そうだな」
義理の両親は口をそろえて言った。
「罪人の父親をもつ嫁は、日下家にとって汚点なる。うちの息子とは離縁してもらおう」
やはりこうなってしまった。
義理の両親から好かれていないのはわかっていた。
けれど、父を亡くしてすぐに婚家にも見捨てられるとは。
悲しくてつらいが、涙はみせまいとひばりは小さく頭をさげる。
「……武士の娘として、覚悟はしておりました。だんな様も離縁のお話はご承知なのですか?」
いまだに沈黙したままで、何も言葉を発しない夫。
彼とは好き合って結婚したわけではない。それでもそれなりに信頼関係は築けていたとおもう。
憐れみをかけてくれるのではないかと、ひばりは期待をこめて夫へ顔をむけた。
「だんな様も、私と離縁をお望みですか?」
「ああ」
端正な顔立ちの夫が無愛想に冷たく言い放った。
「おまえとは離縁だ。どこへでも好きなところへいけ。罪人の娘はどこへ行っても肩身が狭いだろうがな。いっそのこと国抜けでもすればいいんじゃないか?」
はあ?何それ?
ひばりのなかで、何かが吹っ切れた。
「わかりました」
売り言葉に買い言葉。
ひばりは生来の負けず嫌いだ。
最後の夫婦喧嘩をしてやろうじゃないか。
「私の父は男手ひとつで私を育ててくれました。その父が選んだあなたさまなら、良き人だろうと思ってましたのに。とんでもない見込み違いでございましたね。離縁するなら、どうぞご自由に。どうせ私は美人でもなければ、家柄がいい女というわけでもありませんからね」
「そうだな、おまえはただ賢しくて生意気なだけの女だ」
ひばりの劣等感が刺激された。
「そうですね。でも父上は、私が不器量で小賢しい女だからこそ、学問を授けてくださったんです」
美貌はいつか衰えるが、知識や経験はずっと失われない。
賢き女こそ真に美しいと父はいってくれたのだ。
「あなたさまに離縁されれば、きっともう二度と結婚はできないでしょう。だから、この先は誰に頼ることなく生きてゆきましょう」
「どうやってだ?」
「先ほどだんな様がおっしゃったではありませんか。国を抜ければいいと」
「どこの国へ行くというんだ?江戸か?それとも西の方、大阪か?」
「アメリカへゆきます」
は?と固まる夫とその両親。
江戸幕府が始まって以来、鎖国することおよそ300年。国といえば藩のこと。日本人はいまだ国外へ出ることを禁じられている時代だ。
そんな時代に国外へゆくなど、密航しかなく、まさに命懸けで不可能に近い。
すべてを承知でひばりは、夫へ挑発するように宣言する。
「父上はおっしゃっておりました。国を守るためには西洋の知識と技術が必要。だから開国をして、日本人は外国で学問を学べと。この父上の考えは正しかったと、私が証明してみせます。だんな様より、ひばりの方が優れた弟子だとあの世の父上にみせてさしあげます」
決意とともに立ち上がるひばり。
父がくれた『賢さ』を武器にして、女ひとりで生きてゆく。
「私はアメリカへ学問修行へゆき、お国の役に立つ人間になって帰ってきます!」
後にはもうひけない。
やってやるという勢いとともに、夫とその両親へ捨て台詞をはく。
「武士の妻なんてやってらんないわよ!離縁できて、せいせいしました!」
最後にオマケとばかりに舌をべっと出した。
「さよーならっ、だんなさま!」
あぜんとする義両親と夫をみて、ひばりはすっきりとした。
それから10年後、日本の世はひっくり返っていた。
明治維新である。
武士の時代が終わり、近代国家を目指す日本は人材を欲していた。
そんななか、アメリカに派遣されたとある新政府職員が外務卿へ手紙を宛てた。
『アメリカの教育課程を優秀な成績で卒業し、英語だけでなく、ラテン語、ドイツ語を操る日本人あり。その武士の娘、洋行修行より帰国、つまり帰国子女につき、有益な人材として政府で雇用するべし』